アユタヤ日本人町(アユタヤにほんじんまち)は14世紀中ごろから18世紀頃までアユタヤにあった日本人町。15世紀後半から16世紀初頭までアユタヤ王朝下、軍事力と貿易による利潤を背景に政治的に力を持つようになった。当時のアユタヤ中心地をチャオプラヤー川沿いに南に下った西岸にあり、ポルトガル人街とは相対の位置にあった。南北約570メートル、230メートルの敷地に最盛期で1000~1500人の日本人(タイ族などの使用人を除く)が住んでいたと思われている。なお『暹羅国風土軍記』の資料では寛永期ごろのアユタヤ日本人町の人口を8000人と見積もっている。アユタヤ日本人町の住民は、傭兵、貿易商、キリシタン、あるいは彼らの配偶者やタイ族の使用人などで構成されていた。
軍事的発展 [編集]
アユタヤ日本人町は14世紀頃に始まったと思われるが、日本の戦国時代には主君を失った浪人が流れてくるようになり、急激な膨張がみられるようになった。この傾向が特に強くなるのが関ヶ原の戦い、大坂の役などの後である。当時ビルマ(現・ミャンマー)・タウングー王朝からの軍事的圧力に悩まされていたアユタヤは、このような実戦経験豊富な日本人兵を傭兵として雇い入れることでこれを阻止しようとしたねらいがあり、これが浪人のアユタヤ流入を生んだ。また、アユタヤ君主・ソンタムの治世に、ポルトガル人鉄砲隊がアユタヤによって雇い入れられていたが、タウングー王朝側もポルトガル人傭兵隊を雇い入れていたために、同士討ちを恐れたポルトガル人傭兵隊が発砲せず全く使い物にならなかったということがあり、アユタヤがポルトガル人以外の軍事力を必要としていたことも、浪人のアユタヤ流入に拍車をかけた。
この日本人傭兵隊の勢力は200あるいは800人とも言われる勢力に膨張し、政治的にも大きな力を持つようになった。このアユタヤでは基本法典である『三印法典』に日本人傭兵隊の政治的位置が明確に示されるようになった。『三印法典』では、日本人傭兵隊はクロム・アーサーイープン(日本人義勇兵局)と名付けられ、その最高責任者にはバンダーサック(官位制度)の第三位であるオークヤー(あるいはプラヤー)・セーナーピムック( ออกญาเสนาภิมุข)という官位・欽賜名を授けられた。これは山田長政にも下賜された名前である。
商業的発展 [編集]
このような軍事的背景とは別に日本は朱印船貿易により、貿易面においてもアユタヤ日本人町は多くの発展を遂げた。まずアユタヤ君主・エーカートッサロットの時代には日本人町に比較的規模の大きい港が建設されている。その後、前述のようにアユタヤはタウングー王朝に対する防衛力を高めるため多くの武器を必要としていたので、刃物の生産で有名な堺からは多くの刀が輸出された。これらは、タイ風の刀や槍の先端に使われるなどして改造され流用された。17世紀初頭におけるアユタヤの武器の多くはむしろ国内生産の刀よりも日本製のものが多かったとも言われる。これらの刀の一部は現在でもバンコクの王宮武器博物館などで見ることが出来る。一方、日本はその豊富な銀を背景にアユタヤから陶器、皮革製品(主にシカ、サメなど)、キンマ塗りなどを買った。特に皮革製品のタイから日本への輸入量はずば抜けており、江戸初期のアユタヤから日本への皮革製品の数は20万枚以上にも昇った。
一方でこのような商業的発展は他国の商人を脅かすようになった。1620年代の日本人による貿易量は他の国からやって来た貿易商の合計よりもずば抜けて多かったともいわれる。この動きをもっとも懸念したのは華僑商人であった。また、他の国の貿易商も日本人によって自分のなわばりにこれ以上踏み込まれることを恐れて日本人の動きを華僑と同様に警戒した。
日本人は14世紀から
タイに日本人町を建設していましたが、
何か?
韓国人は20世紀の移民以前に、
海外に町を造ってましたか?www