先々週の土曜日(11月の第二土曜日)の、夜10時から、テレビの地上波の、テレビ東京で放送された、「新美の巨人たち」は、八木亜希子さんの案内で、蕗谷 虹児(fukiya koji)でしたね。気になっていたのですが、見逃してしまいました→
https://artexhibition.jp/topics/news/20251105-AEJ2775156/
八木亜希子さんに関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿を参照して下さい。
内田有紀他1&古い肖像画→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3992403?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、基本的に(参考の投稿を入れ替える等しています)、2021年の1月に行った投稿の再掲です。
我が家(東京都心部の西部の、静かで落ち着いた住宅地にあります)の近所にある、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(私の母の実家で)、母方の祖父母共既に亡くなり、現在は、両親が引き継いで暮らしています(ちなみに、母は、一人っ子です)。ちなみに、私は、大の、おばあちゃん(母方の祖母)子でした。
私の母方の祖母に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
母方の祖母の話→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658687/page/20?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、関連投稿。
小津 安二郎映画「晩春」他 →
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_2/view/id/3580708?&sfl=membername&stx=nnemon2
ペットの話 →
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3634898/page/27?&sfl=membername&stx=nnemon2
芸者(geisha)・祖父の話他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658686/page/20?&sfl=membername&stx=nnemon2
旧朝香宮(asakanomiya)邸他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658681/page/21?&sfl=membername&stx=nnemon2
箱根(hakone)富士屋(fujiya)ホテル他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3759534?&sfl=membername&stx=nnemon2
小津安二郎の映画「晩春(Late Spring)」と鎌倉 →
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3584065/page/5?&sfl=membername&stx=nnemon2
calvin harris - summer (sped up)他 →
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3575461/page/6?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、基本的に、前に行った投稿から、抜粋して来た物です。
亡くなった、私の母方の祖母が、最も、好きであった、イラストレーターが、この投稿で紹介する、蕗谷虹児(fukiyakoji)です。
私の母方の祖母は、竹久
夢二(takehisa yumeji)等も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya
koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、生涯、蕗谷
虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。
私の母方の祖母は、田舎の裕福な地主の家の娘であったので、おそらく、幼い頃・子供の頃、女学校(第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる)時代、東京での大学時代、東京での独身の社会人時代(まあ、私の母方の祖母は、社会人になって間もなく結婚し、以後、ずっと主婦であったのですが。。。)に、私の母方の祖母の実家(私の母方の祖母の親)に、当時の、日本の、女性の子供向けの雑誌、少女向けの雑誌、若い女性向けの雑誌を、たくさん買って貰っていたと思います。

以下の写真は、全て、この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。説明文も、基本的に、カタログ(catalogue)の文から抜粋して来た物です。

蕗谷 虹児(fukiya koji)。自宅を訪れた、ファン(fan)の少女達に囲まれて。1933年。

日本の近代の少女雑誌(主な読者は、第二次世界大戦以前の階級社会の日本における、中流階級以上の10代(主として、13歳から17歳位まで)の女性)の歴史は、1902年創刊の、「少女界」から始まっており、1908年創刊の、「少女の友」、1912年創刊の、「少女画報」等、1910年代初め頃までに、数誌が、創刊されました。先に述べた少女雑誌の他に、1922年には、「令女界(reijyo kai)」が、1923年には、「少女倶楽部(少女club)」が創刊され、その何れにおいても、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、活躍しました。1920年代から1930年代に、単なる挿絵を超えた、芸術性の高い、日本の、少女向けの絵(日本の少女漫画(少女向けの漫画)の画風の原型となる)は、黄金時代を迎えました。
蕗谷 虹児(fukiya koji)を出版界に登場させたのは、「少女画報」(「婦人画報」の姉妹誌として、東京社から1912年1月に創刊された、日本の、月刊の少女雑誌(少女向けの雑誌)です。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、竹久 夢二(takehisa yumeji)の知遇を得た事をきっかけに、「少女画報」において、イラストレーター(illustrator)としてデビュー(debut)しました(蕗谷 虹児(fukiya koji)と、「少女画報」の出会いは、竹久 夢二(takehisa yumeji)が、蕗谷 虹児(fukiya koji)為に、「少女画報」の編集長に、紹介状を書いた事に始まります)。現在、蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品が、明確に確認出来る、最も、早い号は、1920年5月号です(それ以前の号にも、サイン(signature)を入れずに絵を描いているはずですが、名前を、はっきりと確認出来るのは、1920年5月号です)。
写真以下5枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の少女画報における作品例。

付録、「少女の国旅行双六」。1921年。

付録、「姉妹仲良し双六」。1922年。

「波路はるか」。口絵原画。1925年。

「枯木立」。口絵原画。1925年。

「令女界(reijyo kai)」(日本の、少女雑誌(少女向けの雑誌)の一つ)は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、自らの持つ力を全開させる事の出来る、最も大切な舞台となった雑誌です。当初、「令女界(reijyo kai)」が、対象年齢としていたのは、他の、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌)と同じでした。
写真以下6枚。1920年代前半における、蕗谷 虹児(fukiya koji)の「令女界(reijyo kai)」における作品例。

「令女界(reijyo kai)」は、創刊から数年後の、1920年代半ば頃から、対象年齢が上がり、対象年齢は、女学校(現代の中学校と高校に当たる)の高学年から、女学校(現代の中学校と高校に当たる)を卒業してから結婚するまでの女性(主に、17歳から20歳代前半)となり、「令女界(reijyo kai)」は、少女と主婦の間にある、「未婚の女性」を対象とした、日本で最初の雑誌となりました。日本では、1910年代半ば頃から、職業を持つ女性も増え、結婚年齢も徐々に上がり、「未婚の女性」が増加したのです。そのような社会状況に、いち早く対応して、それまでの少女雑誌(少女向けの雑誌)と女性雑誌(主婦向けの雑誌)の、中間的な年齢層を購買者としたのが、「令女界(reijyo kai)」でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「令女界(reijyo kai)」において、可憐な少女ではなく、家庭の匂いを持った主婦でもない、独立した女性の魅力を、目に見える形で、読者に示しました。

藤田 健次「初夢」。口絵原画。1924年。

「我の幸」。表紙原画。1924年。

「聖鐘」。表紙原画。1924年。

雑誌、「少女倶楽部(少女club)」は、先行して出版された、他の、日本の少女雑誌(少女向けの、雑誌)が、女学生(現代で言う中学生と高校生)を対象にしていた事に比べ、それよりも幼い、小学校5、6年生を基準に据え、小学校高学年から女学校低学年(10歳から14歳前後)を対象とした、月刊の少女雑誌(少女向けの雑誌)として、1923年1月に、講談社(kodansha)(日本の、大規模、出版会社の一つ)から創刊さました。
写真以下2枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の「少女倶楽部(少女club)」における作品例。


蕗谷 虹児(fukiya koji)は、第二次世界大戦前の日本の、代表的な中流階級向けの婦人雑誌(主婦・大人の女性向けの雑誌)である、「婦人公論」(中央公論社(chuokoronsha)(日本の、大規模、出版会社の一つ)から、1916年1月に創刊)、「主婦之友(主婦の友)」(主婦之友(主婦の友)社(日本の、大規模、出版会社の一つ)から、1917年2月に創刊)、「婦人倶楽部(婦人club)」(講談社(kodansha)から、1920年10月に創刊)の、三誌、全てに絵を描いた他、「婦人画報」(東京社)、「婦人之友(婦人の友)」(婦人之友(婦人の友)社)、「婦人世界」(実業之日本社)、「淑女画報」(博文館(hakubunkan))、「婦女界」(婦女界社)にも、挿絵や表紙を寄せています。蕗谷 虹児(fukiya koji)が出版界に登場した頃、婦人雑誌に、絵を描いていた画家は、竹久 夢二(takehisa yumeji)、石井 滴水(ishii tekisui)、森田 久等でした。1910年代から1920年代半ばに、続々と創刊された、日本の、近代、婦人雑誌(主婦・大人の女性向けの雑誌)にとって、近代的な美人画を得意としていた、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、最も、欲しい画家の一人であったと思われます。
蕗谷 虹児(fukiya koji)は、詩人・作詞家としても活躍しました。

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1925年から1929年にかけて、パリ(Paris)で、(挿絵画家としてではなく)本格的な画家として成功する事を目指して、(フランスの)パリ(Paris)に滞在していました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、パリ(Paris)滞在中、サロン・ドートンヌ(Salon d‘Automne)等のサロン(salon)で入選を重ね、パリ(Paris)の雑誌社からも挿絵の依頼を受ける様になりましたが、家庭の事情等により、パリ(Paris)で本格的な画家として成功する夢を断念し、1929年に、約4年間における、パリ(Paris)滞在を終え、日本に帰国しました。なお、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「令女界(reijyo kai)」等の、日本の雑誌向けの仕事は、(前よりも、少なくなったものの)、パリ(Paris)滞在中も続けていました。

蕗谷
虹児(fukiya koji)のパリ(Paris)のアトリエ(作品制作作業場)にて。。。1926年頃。手前、蕗谷 虹児(fukiya
koji)。奥、蕗谷 虹児(fukiya koji)の最初の妻、りん(rin)(日本の、一般人の、女性)。当時、蕗谷 虹児(fukiya
koji)は、27歳、りん(rin)は、17歳(蕗谷 虹児(fukiya
koji)は、1923年、24歳の時、当時14歳であった、近所の娘、りん(rin)と結婚)。

下の写真、パリ(Paris)にて。。。写真一番左の奥、蕗谷 虹児(fukiya koji)。写真一番左の手前、りん(rin)。1928年頃。

「日本をあとに(日本を後に)」。「小令女(小reijyo)」(「令女界(reijyo kai)」の妹版として創刊された、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌))の挿絵原画。りん(rin)をモデル(model)にしていると思われます。1926年。

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1920年代から、「少女の友」、「少女画報」、「令女界(reijyo kai)」、「少女倶楽部(少女club)」等の、当時の、日本の代表的な少女雑誌(少女向けの雑誌)、全てに描き続けましたが、中でも、「令女界(reijyo kai)」は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、自らの持つ力を全開させる事の出来る、最も大切な舞台となった雑誌です。
写真以下5枚。1920年代後期から1930年代の、蕗谷 虹児(fukiya koji)の「令女界(reijyo kai)」における作品例。

「山の乙女」 表紙原画。1928年。

「新緑」。表紙原画。1928年。

左、表紙。1934年。右、表紙。1934年。

井上 康文「恋情」。口絵原画。1935年。

「令女界(reijyo kai)」同様、蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品が多く掲載されたのが、「少女画報」、「少女の友」、「少女倶楽部(少女club)」等の、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌)でした。これ等の雑誌は、「令女界(reijyo kai)」と比べると読者の年齢層が少し下がる為、多くは12歳から16歳位の少女が描かれました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、各少女雑誌の性格に合わせて、少女のタイプ(性質)を描き分けました。例えば、「少女画報」には、活発そうで、都会的な少女を描いたのに対し、「少女の友」には、上品で大人しい雰囲気を持つ令嬢(良い家柄の娘)風の少女を描きました。また、小学校5、6年生を基準に据え、小学校高学年から女学校低学年(10歳から14歳前後)を対象とした、「少女倶楽部(少女club)」には、素朴な、他誌と比べると、大人しい少女を描きました。

写真以下4枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の「少女倶楽部(少女club)」における作品例。

「雪」。口絵。1927年。

上、目次。1933年。下、目次。1935年。

上、目次。1936年。下、目次。1937年。


雑誌、「令女界(reijyo kai)」の読者の、中流層以上の家庭の、10代後半から20代前半の女性が、華やかな化粧やファッション(服装)で、近代日本の少女・若い女性文化を満喫出来た時代は、1937年に勃発した日中戦争(日本と中国の間の戦争)以降、少しずつ消滅して行きました。戦争によって、物資が乏しくなる時代において、華美な物や贅沢な物は、悪であるとする風潮が、はびこり、それは、雑誌の世界にも影響を及ぼしました。1938年に国家総動員法が施行され、出版統制が厳しくなると、華美で繊細であると言うだけの理由で、少女雑誌(少女向けの雑誌)は、存在を危うくされ、蕗谷 虹児(fukiya koji)も、1939年以降、「令女界(reijyo kai)」の表紙を描く事が出来なくなりました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、戦時色が濃くなるにつれ、制作の変更を余儀なくされます(軍から睨まれて、絵を描けなくなったら、どうしようもない為)。この様な時代の流れは、近代的で、お洒落な、また可憐な少女を描く事を得意としていた、蕗谷 虹児(fukiya koji)にとって、大きな打撃でした。1940年12月6日に設置された内閣情報局を中心として、言論や報道への規制が徹底され、それに伴い、蕗谷 虹児(fukiya koji)の活動する雑誌も検閲対象下に入りました。
1930年代後期から1940年代初めにおける、蕗谷 虹児(fukiya koji)の、少女雑誌における作品には、軍国主義と少女らしさの折衷を模索する、苦心の跡が感じられる作品が見られます。特に、「令女界(reijyo kai)」における作品には、軍国色の強くなる時流の中で、いかに、従来、「令女界(reijyo kai)」が持っていたエレガント(elegance)さを表現するかと言う葛藤が感じ取れる、軍から睨まれず(軍の意向に反発せず)、それでいて、「令女界(reijyo kai)」の読者である、少女・若い女性が目にするに相応しい物、その、ぎりぎりの境界を探っている様な作品が見られます。

「そして今年も逝く」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」の口絵。1937年。

「慰問品売り場にて」。雑誌、「少女倶楽部(少女club)」。1938年。

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、出版統制が厳しくなってからも、雑誌の口絵や挿絵の仕事において、時流との折衷点や打開策を模索しながら制作を続けていましたが、1942年頃からは、雑誌の仕事は、日本の、文芸雑誌である、「あきつ」と「防人」を主とする様になり、代わりに、軍事色の強い、絵や、書籍の装幀(design)を手掛けました。しかし、1944年には、一切の制作を止め、神奈川(kanagawa)県(東京圏の南部を占める県)、山北(yamakita)町に疎開し、第二次世界大戦が終わるまで、作品を発表する事はありませんでした。
蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1946年から、再び、少女雑誌(少女向けの雑誌)を、手掛けて行く事になりました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「少女倶楽部(少女club)」には、1954年12月号まで、ほぼ、毎号のように描き続け、「少女倶楽部(少女club)」は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、戦後、最も多くの仕事をした雑誌となりました。

「令女界(reijyo kai)」が、1946年4月に発行が再開されると、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1947年10月号から、同誌に、復帰しました。「少女倶楽部(少女club)」、「ひまわり(向日葵)」の他、「令女界(reijyo kai)」も、戦後の、蕗谷 虹児(fukiya koji)にとって重要な雑誌でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1920年代から、「令女界(reijyo kai)」に絵を描く、主要作家の一人として活躍し、戦後も、雑誌の顔と言うべき表紙絵を始め、挿絵等を描き続けました。
写真以下3枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、「令女界(reijyo kai)」における作品例。

「マロニエの構図(虹児(koji)抒情画選)」。口絵原画。1946年。

西條 八十「わかれ」。口絵原画。1947年。

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、第二次世界大戦後、再び、雑誌の仕事を手掛けるようになると、戦前からの、主な活躍の舞台であった、「令女界(reijyo kai)」と「少女倶楽部(少女club)」を中心にして、1947年に創刊された、ひまわり(向日葵)」の他、「少女の友」、「少女世界」、「紺青」、「女学生の友」、「少女」等、各社から出版される、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌)の挿絵も幅広く手掛けました。
写真以下2枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、「少女の友」における作品例。

茅野 雅子「初冬(抒情名歌集)」。1949年。口絵原画。

蕗谷 虹児(fukiya koji)が、戦後に、「少女倶楽部(少女club)」に次いで、多くの仕事をした雑誌は、「ひまわり(向日葵)」でした。

第二次世界大戦後、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌)は、第二次世界大戦前を踏襲した内容から、新しい時代の流れに従い、大きく様変わりして行きました。例えば、「少女倶楽部(少女club)」は、1949年から、折込みのカラー(color)口絵が入り、その後、漫画も、徐々に増えて行き、映画、舞踏やバレエ(ballet)の記事、写真を使った読み物の登場等、写真の掲載が目立つようになり、誌面のヴィジュアル(visual)化が進んで行きました。「令女界(reijyo kai)」は、1950年1月号から、表紙が、絵から、映画女優等の写真に替わり、その後、間も無く、1950年9月号を以って、終刊してしまいました。また、「ひまわり(向日葵)」は、社会情勢が変わって、少女雑誌(少女向けの雑誌)の性格や使命の転換期が来たとして、新しい時代に即した少女雑誌(少女向けの雑誌)の創刊を予告しながら、終刊して行きました。この様に、時代の流れと共に、蕗谷 虹児(fukiya koji)の、主だった活躍の場が、一つずつ失われて行きました。「少女倶楽部(少女club)」に話を戻しますと、蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品が姿を見せなくなる、1955年には、まだ、少女小説や絵物語の、読み物類が多いものの、もはや芸能人が大々的に巻頭を飾り、手塚 治虫(tezuka osamu)の「リボン(ribbon)の騎士(Princess Knight)」(最も初期のシリーズ(series)は、1953年から1956年に、「少女倶楽部(少女club)」に連載)等の、漫画の存在が顕著になりました。蕗谷 虹児(fukiya koji)が、戦後、「少女倶楽部(少女club)」で活躍した、約10年の間に、「少女倶楽部(少女club)」の総頁数は、約60頁から約280頁に増量し、「少女倶楽部(少女club)」は、現在に繋がる、通俗的な娯楽を提供する雑誌に向かって行きました。こうした転換は、他の、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌)でも、同じ傾向でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「少女の友」、「少女世界」、「女学生の友」、「少女」等でも、口絵や挿絵を描いていましたが、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、少女雑誌(少女向けの雑誌)で、存分に魅力を発揮できた、1920年代から1930年代の黄金期(全盛期)から時代は流れ、1950年代中頃までには、蕗谷 虹児(fukiya koji)の雑誌での仕事が無くなって行きました。蕗谷 虹児(fukiya koji)が、第二次世界大戦後、少女雑誌(少女向けの雑誌)で描いてきた、主な内容は、抒情的な詩や歌、少女小説、世界の名作物語、日本の年中行事や童謡等、懐古的な作品であり、漫画の需要の激増で、益々、娯楽化やヴィジュアル(visual)化が進展して行く少女雑誌(少女向けの雑誌)は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が必要とされる媒体ではなくなって行きました。
蕗谷 虹児(fukiya koji)は、絵本の仕事と並行しながら、今まで手掛けた事がなかった、アニメーション(animation)にも挑戦しました。アニメーション(animation)に可能性を感じていた、東映(toei)(日本の大規模映画会社の一つ)は、1953年に始まった、日本のTV放送で、アニメーション(animation)番組やコマーシャルフィルム(commercial film)の需要が増加する事を見越して、技術面や興行面を調査すると共に、大正時代(1912年から1926年)後期から継がれた、日本のアニメーション(animation)制作会社であり技術もある日動映画に、アニメーション(animation)作品の制作を委託して行きました。1955年に完成した、「うかれバイオリン」が評判となって手応えを得ると、日動映画を買収して、1956年に、東映(toei)動画(現在の東映(toei)アニメーション(animation)。「Dragon Ball」等、数々の人気アニメーション(animation)を制作しています)を設立させました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、この東映(toei)動画の、1958年の、約15分の短編アニメーション(animation)作品、「夢見童子」の構成と原画を担当しました。この作品は、独創性や海外進出も意識した、実験的な作品でした。この作品は、梅の木の下で眠る夢見童子は、心優しい良い子には、夢を与えるが、そうでない子には夢を与えないと言う、単純な物語で、セリフ(登場人物の言葉)やナレーション(narration)がない代わりに、蕗谷 虹児(fukiya koji)が作詞した、童謡風の歌で語られて行きます。「静かな場面展開と静かな動きは、動画製作上、最も困難な技術を必要とするが、これを、私達は、よく極めて、今後の、静かな動画への道を拓こうとした」と言う会社側の意図もあり、アニメーション(animation)の最大の特徴と言える動きを、敢えて、穏やかにすると言う斬新さが狙われていました。「夢見童子」は、思想や理念を込めて制作されたものの、現在に繋がる、アニメーション(animation)の歴史においては、淡々たる内容で、独創性を狙い過ぎたと言った印象も否めません。しかしながら、蕗谷 虹児(fukiya koji)が残した作品と言う観点から見れば、むしろ、蕗谷 虹児(fukiya koji)の世界観が色濃く反映された貴重なアニメーション(animation)作品として見る事が出来るでしょう。

荒廃した、第二次世界大戦直後の日本の子供達を思って復帰した蕗谷 虹児(fukiya koji)は、挿絵画家として教育的な責務を担いながら、子供達に作品を描き続けて来たのでしょう。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「私は想う。子供達に、未熟な果物を与えてはならないように、未熟な、卑しい絵を与えてはならない」と記しています。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、人気絶頂期が過ぎた、第二次世界大戦後も、決して、無責任な仕事をするような事はなく、子供向けの絵であっても、一枚一枚、心を込めて丁寧に描きました。漫画やアニメーション(animation)、テレビの普及によって急激に娯楽化が進み、高度経済成長を背景に、人々の生活様式も変化して行く時代に、蕗谷 虹児(fukiya koji)の仕事は、少女雑誌(少女向けの雑誌)から、絵本やアニメーション(animation)へと移行して行きました。しかし、媒体が変わろうとも、1920年代から築き上げて来た、蕗谷 虹児(fukiya koji)の信念だけは、翻弄される事はありませんでした。「夢見童子」も、詩的で優雅なアニメーション(animation)を追求して、身を削る思いで制作したと言います。
以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。
以下、蕗谷 虹児(fukiya koji)及び、その作品に関する、詳しい投稿。
蕗谷虹児(fukiyakoji)1→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3825239?&sfl=membername&stx=nnemon2
蕗谷虹児(fukiyakoji)2→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3825238?&sfl=membername&stx=nnemon2
蕗谷虹児(fukiyakoji)3→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3825237?&sfl=membername&stx=nnemon2
蕗谷虹児(fukiyakoji)4→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3825236?&sfl=membername&stx=nnemon2
蕗谷虹児(fukiyakoji)5→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3825235?&sfl=membername&stx=nnemon2