基本的に、2013年の6月の下旬に行った投稿の再掲で(投稿文は、2013年の6月の下旬の投稿を前提としています)、彼女(私の今の彼女)と、箱根(hakone)に、1泊2日で、保養目的の、小旅行に行って来た時の物です。
ちなみに、当時、私の今の彼女(以下、彼女と書きます)と交際して初期の頃で、彼女は、まだ10代の大学生で、私も、まだ、30代後期の初め頃でしたが、私は、20代の初めまでは、実年齢よりも上に見られ、20代の後半頃からは、実年齢よりも、下に見られるようになり、それが、今も続いている事もあって、当時から、傍から見て、特に違和感のあるcoupleに見られませんでした。ちなみに、その事に関して、彼女は、内面は、少女的な面も多いのですがw、ルックスは可愛い系・幼く見える系の女性ではないと言う事もあると思います。ちなみに、私は、当時から、特に遠慮はしないで(自然体で)、彼女に、大人の世界を見せて来ました。
以下、「」内。私の前の投稿文より。。。
「適度に可愛くて男性達に身近な存在として気軽にチヤホヤされて来た・チヤホヤされている女性・女の子よりも、美人でスタイルが良い美人型の女性・女の子の方が、相対的に、真面目で純粋で性格が良いなんて事もありますが、私の今の彼女の場合、後者です。私の今の彼女は、一般的に見て、所謂、高嶺の花的な女性に該当しますが、話すと穏やかで、又、私と同じで、天然で、細かい事は気にしない、大雑把な面がありますw」
今月(6月)の初めに、箱根(hakone)に、1泊2日で、保養目的の、小旅行に行って来た時の物です。箱根(hakone)(東京圏の、南西端部に位置する)は、日光(nikko)と並ぶ、東京近郊を代表するリゾート(resort)地・保養地・観光地・避暑地です。
この時は、箱根(hakone)では、箱根(hakone)princeホテル(the
prince hakone)に、宿泊しました。箱根(hakone)princeホテル(the prince
hakone)は、箱根(hakone)の、芦ノ湖(ashino湖)(箱根(hakone)にある大きな湖)の湖畔にある、1978年に開業した、中上級(upper-middle)classのリゾート(resort)ホテルです。箱根(hakone)princeホテル(the
prince hakone)の建物(1978年に建てられた)は、日本の有名な建築家、村野 藤吾(murano togo)が、設計しました。
以下、しばらくの間、参考に、村野 藤吾(murano togo)に関する説明です。

村野
藤吾(murano
togo)。写真(借り物写真)は、1954年に撮影された物。1891年生まれ。1984年に亡くなる。大阪(東京に次ぐ、日本第二の都市圏人口を有する都市)を拠点に活動していた、日本の現代建築家。1930年代頃から活躍。世界的に有名な建築家と言う程ではありませんが、日本の有名な建築家であり、日本の、現代建築の建築家の、先駆け(先駆者)の建築家の一人です。90歳を超えても創作意欲は落ちず、(1984年に)亡くなる前日まで仕事をしていました(wikiより。。。)。村野
藤吾(murano togo)は、日本の、現代建築の建築家の、先駆け(先駆者)の建築家の一人ですが、特に、第二次世界大戦後は、村野
藤吾(murano togo)の作品は、全般的に、保守的な傾向にあります。村野 藤吾(murano
togo)は、特に、第二次世界大戦後は、現代建築の中に、大胆に、伝統的な要素・古典的な要素を取り入れる事を、厭わなかった(躊躇しなかった)事から、1950年代から1960年代(日本は、大量生産・大量消費の、高度経済成長期で、新しい物・未来的な物は、全て良いと言う価値観が、支配的であり、古臭い物は、無視される傾向にあった時代)においては、(既に、村野
藤吾(murano
togo)は、日本の現代建築会における大物・日本の有名な建築家として確固たる地位を築いており、全般的に、高い評価を得ていたものの)、批判される事も、ある程度あった建築家です。
村野
藤吾(murano togo)は、早稲田(waseda)大学理工学部建築学科を卒業した後、1918年に、渡辺 節(watanabe
setsu)(下の補足説明参照)の、建築設計事務所に入所し(就職し)、1929年に独立し、自身(自分)の建築設計事務所である、村野(murano)建築事務所を開設するまで、渡辺
節(watanabe setsu)(下の補足説明参照)の下で(渡辺 節(watanabe
setsu)の、建築設計事務所勤務の建築家として)、働きながら、建築設計の実務を学びました。
渡辺 節(watanabe
setsu):以下、渡辺 節(watanabe setsu)に関する説明は、wiki等を参考にしました。渡辺 節(watanabe
setsu)(1884年生まれ、1967年に亡くなる)は、大阪(東京に次ぐ、日本第二の都市圏人口を有する都市)を拠点に活動を行っていた、日本の近代建築家です。東京帝国大学(現在の東京大学)建築学科を卒業後、鉄道院(鉄道省。第二次世界大戦前において、日本の国有鉄道(日本国有鉄道)の運営を行っていた、日本の省庁(国家行政機関))に入り、日本の国有鉄道(日本国有鉄道)関連の建物の設計に携わった後、1916年に独立し、大阪に、自身の(自分の)建築設計事務所を開設しました。幅の広い、近代建築の設計を手掛けた、優秀な建築家であり、幅の広い、近代建築の建物の優秀な作品を残しましたが(ただし、建て替え等により、現存する、渡辺
節(watanabe
setsu)の作品は、少なくなっている)、特に、オフィス(office)用ビルの設計を、得意とし(主に行い)、1920年代から1930年代にかけて、関西(kansai)大都市圏(大阪、京都、神戸(kobe)を中心とする大都市圏。東京圏に次ぐ、日本第2の大都市圏。規模(面積)は、東京圏と、だいたい同じ位。人口は、東京圏の約半分(半分強位))を中心に、多くの、近代建築のオフィス(office)用ビルの設計を行いました。渡辺
節(watanabe
setsu)は、合理的な近代建築の設計を特徴とし(合理性を重視した、近代建築家である事が特徴で)、合理的(当時としては、現代的・最新式)に設計した建物に、過去の様式を折衷する事で(古典的なデザイン(design)の装飾を加える等する事で)、独自の世界を創り出した建築家でした。もっとも、この時代(1920年代から1930年代)において、日本の民間企業が建築家に求めた合理性とは、経済上・機能上の合理性であり、建物のデザイン(design)に関しては、あくまでも保守的でした。渡辺
節(watanabe setsu)の、こうした姿勢に、渡辺 節(watanabe setsu)の下で学んだ、村野 藤吾(murano
togo)は、影響を受けたとされます。渡辺 節(watanabe
setsu)は、第二次世界大戦後は、大阪(osaka)府(日本の47の都道府県(prefecture)の一つ。概ね、大阪都市圏に該当する地域)建築士会の会長等を務めました。
写真以下10枚。渡辺 節(watanabe setsu)の作品例。

写真は、借り物(写真の作者。663highland)。1922年に、大阪商船(Osaka Shosen.。現在の商船三井(Shosen Mitsui))の神戸(kobe)支店のビルとして建てられた建物です。現存しています。
写真以下8枚(写真は、借り物。写真の著作者。Hiromitsu
Morimoto。 -
http://www.hetgallery.com/)。旧、ダイ(dai)ビル本館。1925年に、大阪の都心部に建てられた、オフィス(office)用ビルです。2009年に建て替えの為、解体されました。この、1925年に建てられた、旧、ダイ(dai)ビル本館の設計には、当時、渡辺
節(watanabe setsu)の建築設計事務所に勤務していた、村野 藤吾(murano togo)が、大きく関わりました。






写真以下2枚は、1937年に増築された部分です(設計は、同じく、渡辺
節(watanabe setsu)の建築設計事務所)。1937年に増築された部分に関しては、(既に、村野 藤吾(murano
togo)は、渡辺 節(watanabe setsu)の建築設計事務所を辞め、独立していた為)、村野 藤吾(murano
togo)は、関与していません(おそらく。。。)。



写真は、借り物(写真の作者。Jo)。近鉄(kintetsu)百貨店(デパート)(大阪に本店を置き、関西(kansai)大都市圏を拠点とした、デパートのチェーン(chain)。1920年創業)の、京都(kyoto)店の建物。1936年に完成。近鉄(kintetsu)百貨店(デパート)の、京都(kyoto)店は、長引く、日本の経済停滞や、近くに、集客力のある、新しいデパートが開業した事等による、業績不振の為、2007年に閉店。この建物は、同年(2007年)、建て替えの為、解体されました。

写真は、借り物(写真の作者、Mti)。神戸(kobe)郊外にある、ゴルフ場(golf course)で、日本を代表する名門ゴルフ場(golf course)の一つである、広野(hirono)ゴルフ倶楽部(1932年オープン(open))の、現在の、クラブハウス(利用者の為の施設の建物)。1958年完成。渡辺 節(watanabe setsu)の、晩年(70代)の作品です。ちなみに、1957年に、火事により?、焼失するまで使用されていた、1932年に完成した、広野(hirono)ゴルフ倶楽部の先代(初代)のクラブハウス(利用者の為の施設の建物)も、渡辺 節(watanabe setsu)の設計です。1958年に再建された、現在の、広野(hirono)ゴルフ倶楽部の、クラブハウス(利用者の為の施設の建物)は、詳しい事は分かりませんが、広野(hirono)ゴルフ倶楽部の、クラブハウス(利用者の為の施設の建物)の先代の建物の写真を見る限り、少なくとも、外観は、広野(hirono)ゴルフ倶楽部の、クラブハウス(利用者の為の施設の建物)の先代の建物(1932年完成)を、忠実に再現した物の様です。
以下、しばらく、参考に、前の投稿で、横浜の、日本郵船(Nippon
Yusen)歴史博物館で、前に行われていた、日本の客船の、インテリア(内装)の歴史に関する展覧会(exhibition)に関する投稿の中から、村野
藤吾(murano
togo)に関連する、投稿文を抜き出して来ました。この展覧会(exhibition)は、主として、第二次世界大戦前の、日本の客船の、インテリア(内装)における、日本の建築家の活躍に焦点を当てた展覧会(exhibition)でした。以下、この展覧会(exhibition)の説明は、主として、この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)の文を、要約又は抜粋・引用した物です。
幸いにも、多数の図面資料が現存している事から、村野 藤吾(murano togo。日本の建築家。1891年生まれ。1984年に亡くなる)は、日本の建築家の中で、第二次世界大戦以前において、客船のインテリア(内装)の設計を手がけていた事を、最も知られている建築家であると言えるでしょう。1918年に、早稲田(waseda)大学理工学部建築学科を卒業した、村野 藤吾(murano togo)は、大阪の、渡辺 節(watanabe setsu)の建築設計事務所に入所します。そして、1929年に独立し、自身の(自分の)建築設計事務所である、村野(murano)建築事務所を、大阪に開設しました。村野 藤吾(murano togo)は、箱根(hakone。東京近郊を代表する観光地・保養地の一つ)の、箱根(hakone)princeホテル(箱根(hakone)にある、リゾート(resort)ホテルの一つ)等、ホテルの設計も、たくさん手がけており、客船のインテリア(内装)の、華やかな空間を、その陸上建築にも見る事が出来る、希少な建築家です。村野 藤吾(murano togo)が、客船のインテリア(内装)の設計を請け負った、きっかけについては、はっきりとした事は、分かっていません。おそらくは、日本の、客船の建造数が増え、その規模も大きくなった事で、中村 順平(nakamura jyunpei。日本の建築家。日本の建築家の中で、第二次世界大戦以前において、日本の大型客船のインテリア(内装)の設計を、最も多く手がけた)以外の建築家が必要になってきた事が、その理由の一つとして考えられます。また、大阪商船(Osaka Shosen.。現在の商船三井(Shosen Mitsui)。日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つ)の客船のインテリア(内装)設計を最初に手がけている事から、村野 藤吾(murano togo)と、大阪商船(Osaka Shosen)との繋がりにも注目する必要があります。おそらくは、関西(kansai。大阪・京都・神戸(kobe)を中心とする大都市圏。東京圏に次ぐ、日本第2の人口を有する大都市圏(特に、当時は、東京圏と並ぶ、日本の2大都市圏))において、最も信頼のおける建築家の一人として、当時の、大阪商船(Osaka Shosen)の工務部門の技師、和辻 春樹(watsuji haruki)(日本の船舶工学者)が、村野 藤吾(murano togo)を起用したのだろうと推測されます。村野 藤吾(murano togo)が設計した、客船のインテリア(内装)は、豪華絢爛たる、調和のとれた、上品な、「現代日本様式」でした。新しい素材を多用した、アール・デコ(Art Deco)を基本に、現代的でありながらも、客船ならではの華やかさを存分に放つインテリア(内装)は、中村 順平(nakamura jyunpei)と並んで、豪華客船時代の、「現代日本様式」を代表するデザイン(design)であると言えるでしょう。村野 藤吾(murano togo)にとって、客船のインテリア(内装)の設計が、とりわけ、非日常性の演出と言う意味において、その後の、ホテルの設計に、少なからぬ影響を与えた事は、間違いありません。

写真上。橿原丸(kashiharamaru)(1939年に建造開始され、1942年完成予定であった、
27,700トン(GT)の、幻の、日本の豪華客船。時局の悪化により、完成する事なく、日本軍に買い上げられ、空母、隼鷹(jyunyou)へと改造された)の1等(first
class)喫煙室(smoking room)(村野 藤吾(murano
togo)設計)のカラースキーム(1940年制作)。黒地のソファ(sofa)に赤色の座面と言う、斬新さが見られるデザイン(design)。大阪商船(Osaka
Shosen)の客船のインテリア(内装)設計を多く手がけた村野 藤吾(murano
togo)は、橿原丸(kashiharamaru)で、初めて、日本郵船(Nippon
Yusen)株式会社(日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つ)の豪華客船の設計を手がけた。

あるぜんちな丸(Argentina maru。日本の、大阪商船(Osaka Shosen)の客船。1939年完成。12,755トン(GT)))の、1等(first class)食堂(dining room・レストラン)。村野 藤吾(murano togo)設計。壁は、総桐柾張り、窓には欄間彫刻が施され、柱には、大理石が張られた。手前の照明シェードには、蒔絵(makie)が、施され、「現代日本様式」を代表する意匠(design・装飾)である。
写真以下4枚。村野 藤吾(murano togo)の作品例です。

写真は、借り物(おそらく、1930年代の写真)。そごう(sogo)デパート(1830年に、大阪で創業した、日本のデパートのチェーン(chain))の、大阪店の、先代の建物。1935年完成。1930年代に建てられた当時においては、かなり、現代的な建物であったと思われます。2003年に建て替えの為、解体される。なお、2005年に建てられた、そごう(sogo)デパート大阪店の、新しい建物は、2009年に、そごう(sogo)デパート大阪店が閉店した事に伴い、改装を加えられた後、同年(2009年)から、隣接する、大丸(daimaru)デパート(1717年に京都(kyoto)で創業。1726年、大阪に進出。本店は、大阪の御堂筋(midousuji)沿いに有る心斎橋(shinsaibashi)店。関西(kansai)大都市圏に基盤を置く)の、心斎橋(shinsaibashi)店(大丸(daimaru)デパートの本店。かつて、そごう(sogo)デパート大阪店の、ライバル(競争相手)であった)の建物の一部として、使われています。

写真は、借り物(写真の作者。ja:User:Wiki708)。宇部(ube)市、渡辺(watanabe)翁(ou)記念会館。1937年に完成した、宇部(ube)市(日本の西部の、山口(yamaguchi)県にある、人口約17万人の、中都市(中規模程度の人口を有する都市))が、運営する、公営(市営)の、音楽ホール(concert
hall)です。1930年代に建てられた当時においては、かなり、現代的な建物であったと思われます。

写真は、借り物(写真の作者。Miyuki Meinaka)。志摩(shima)観光ホテルの建物の一つ。1969年完成。志摩(shima)観光ホテルは、紀伊(kii)半島(西日本を代表する保養地・観光地の一つ)にある、1951年に開業した、高級リゾート(resort)ホテルです。志摩(shima)観光ホテルの、1951年の開業時の建物(志摩(shima)観光ホテルの敷地内に、現存している様です)も、村野 藤吾(murano togo)が設計を手掛けました。

写真は、借り物(写真の作者、Wiiii)。新高輪(新takanawa)princeホテル(grand
Prince Hotel New Takanawa)の建物。1982年完成。村野 藤吾(murano
togo)の、最晩年(90歳代)の作品の一つです。新高輪(新takanawa)princeホテル(grand Prince Hotel New
Takanawa)は、東京都心にある、princeホテル系列のホテルの一つで、中上級(upper-middle)classのホテルと言った感じです。
この時、私達が、箱根(hakone)で宿泊したホテル、箱根(hakone)princeホテル(the prince hakone)は、princeホテル系列のホテルです。
princeホテルは、おそらく、日本最大の、中級classから高級classのホテルのchain(中級classから準高級classが主体)です。昔に比べて、大分(かなり・とても)数は、減りましたが、日本国内には、東日本(北海道(hokkaido)・東北地方・東京圏・中部地方の東部)を中心に、princeホテル系列のホテルは、princeの名前が付くホテル(箱根(hakone)princeホテル(the
prince
hakone)も、含まれる)が、35(内、東日本に31)、それ以外の、princeホテル系列のホテルや旅館が13(全て、東日本にある)の、合計、48(内、東日本に44)の、princeホテル系列の宿泊施設があります。日本全国の(まあ、日本全国のと言っても、ほとんど、東京圏を中心とした東日本にありますが)、princeホテル系列のホテルの内、princeの名前が付くホテルを代表するホテルになっているのは、東京都心にある、princeの名前が付く、princeホテル系列のホテルの一つで、高級ホテルである、The
Prince Park Tower Tokyo です(ちなみに、The Prince Park Tower
Tokyoは、宿泊した事がありません)。
写真以下。この時、私達が、箱根(hakone)で宿泊したホテル、箱根(hakone)princeホテル(the
prince hakone)。箱根(hakone)princeホテル(the prince
hakone)に宿泊したのは、この時で、4回目でした。箱根(hakone)princeホテル(the prince
hakone)は、箱根(hakone)の、芦ノ湖(ashino湖)(箱根(hakone)にある大きな湖)の湖畔にある、1978年に開業した、中上級(upper-middle)classのリゾート(resort)ホテルです(高級リゾート(resort)ホテルと言える程のホテルではありませんが、中級classのリゾート(resort)ホテルの中では、比較的、高級な方のホテルだと思います)。主な宿泊客は、日本国内からの(日本人の)宿泊客ですが、アメリカ、ヨーロッパ、韓国・香港(Hong
Kong)・台湾(Taiwan)・シンガポール(Singapore)等の近隣諸国・地域等からの宿泊客、東南アジア・南アジア・中東の、裕福な、個人旅行者・家族等、世界各地からの、宿泊客の利用も多い、国際的なリゾート(resort)ホテルです(ホテルのパンフレット(leaflet)は、日本語、英語、韓国語、中国語の、4つの言葉で書かれています)。箱根(hakone)princeホテル(the
prince hakone)の建物(1978年に建てられた)は、前述の通り、日本の有名な建築家、村野 藤吾(murano
togo)が、設計しました。箱根(hakone)princeホテル(the prince
hakone)の建物は、1978年に建てられた当時においても、斬新な建物であったと言う訳では全くなく、むしろ、(1978年に建てられた当時においても)、古典的な要素が、多く取り入れられた、(現代建築における)かなり保守的・古典的なデザイン(design)の建物であったと思われます。
この時の初日(以下、この日と書きます)は、朝寝坊をし、遅い朝食兼昼食を食べてから、のんびり、我が家(東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地に位置します)を出ました(ちなみに、私は、箱根(hakone)を訪れる時は、通常、自動車で訪れます。この時も、自動車で、箱根(hakone)を訪れました)。この日は、箱根(hakone)areaに到着してから、何処にも寄らずに、ホテルに向かい、ホテルで、のんびりするだけと言った感じでした。
写真以下(ほとんどが、この日、ホテルにチェックイン(check-in)し、ホテルの部屋(客室)で、一息ついた後、ホテルの敷地内を、のんびり散歩した際に撮影した物。なお、その散歩の際には、芦ノ湖(ashino湖)の湖畔で、のんびりもしました)。ホテルの周辺の風景と、ホテルの建物の外観。



















写真以下7枚。芦ノ湖(ashino湖)。芦ノ湖(ashino湖)は、箱根(hakone)にある大きな湖で、写真に写っているのは、その、極一部です。箱根(hakone)princeホテル(the prince hakone)は、芦ノ湖(ashino湖)の湖畔にある、リゾート(resort)ホテルです。







向こうに見えるのは、芦ノ湖(ashino湖)を遊覧する、遊覧船です。



以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)に続く。。。
箱根小旅行 princeホテル2→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_8/view/id/4058333?&sfl=membername&stx=nnemon2