以下、去年の8月6日の夜に行った投稿から抜粋して来た物です。
日本は、世界最先端の自動車技術を有する国の一つであると共に、世界有数の自動車生産台数を有し、中国、アメリカ、インド(2022年に、それまで3位であった、日本を抜かし、世界3位の規模の自動車市場となった)に次ぐ、世界4位の規模の国内自動車市場を有すると共に、自動車が、主要な輸出品になる等、自動車工業大国となっています。
日本には、多くの(50以上の)、自動車の、サーキット(car
racingのrace track)がありますが、中でも、鈴鹿(suzuka)サーキット(Suzuka
Circuit)(1962年に開業。三重(mie)県(日本の中西部に位置する県)に位置する。本田(honda)が所有している)、富士(fuji)スピードウェイ(Fuji
Speedway)(1966年に開業。静岡(shizuoka)県(日本の中部地方に位置する県の一つ)の、富士山(fujisan)(標高
3,776m。日本で最も高い山で、その形の美しさから、世界的に名が知られている山)の近くに位置する。トヨタ(toyota)(日本の、大規模、自動車会社の一つであると共に、日産(nissan)、本田(honda)と共に、日本の、三大、自動車会社の一つであり、又、世界最大の、自動車会社)が保有している)、モビリティリゾートもてぎ(Mobility
Resort Motegi・Twin Ring
Motegi)(1997年に開業。栃木(tochigi)県(東京圏の北端に位置する県)に位置する。本田(honda)が所有している)は、世界最高水準の、自動車の、サーキット(car
racingのrace track)となっています。
以下、多摩川スピードウェイ(Tamagawa Speedway)に関しては、wikiを参考にしました。
多摩川スピードウェイ(Tamagawa
Speedway)は、1936年に、川崎(kawasaki)市(東京中心部(東京23区)と横浜(東京圏で、東京中心部(東京23区)に次ぐ、第二の人口を有する都市)の間に位置する都市)の内陸部に、オープン(open)した、日本、及び、アジアで、最初の、常設の、自動車の、サーキット(car
racingのrace track)です。
日本における自動車の黎明期である1907年にエンジン(engine)までも含めた純国産車(純粋な国産車)を開発し、1910年代には、日本国内でも富裕層により輸入自動車によるレース(car racing)が始まりました。

ある程度、古い写真ですが、参考に、前にアップした写真の再利用。オートモ号(1925年製)。オートモ号は、日本の自動車産業の最初期の頃の量産乗用車の一つで(日本車の量産乗用車の、先駆けとなった自動車の一つで)、1924年より、市販され、約300台製造されました。ちなみに、日本の自動車(日本車)の歴史は、蒸気自動車は、1904年から、ガソリン(gasoline
engine)自動車は、1907年から、量産乗用車は、1919年からあります。
日本では、1920年代には白楊社(hakuyosha)(日本に、かつて存在していた自動車会社の一つ)のオートモ号など、中小規模の国産の自動車会社が複数設立され、いずれもレース(car
racing)が出来る場所を探していましたが、常設の、自動車の、サーキット(car racingのrace
track)がない為に、競馬場や埋立地、飛行場で開催する等、開催場所の確保に苦労していました。
また、1920年代後半から、横浜でアメリカのGM(Chevrolet)の自動車、大阪(東京に次ぐ、日本第二の都市圏人口を有する都市)で、Fordの自動車の生産が始まった事や、医師(医者)等を中心に、イギリスのオースチン(Austin)や、オオタ(oota)自動車(1957年に、日産(nissan)と合併するまで存在していた、日本の自動車会社)、日産(nissan)自動車等の、小型自動車が急速に普及して行きました。

写真は、借り物(写真の作者:NEXT-EXIT)。オオタ(oota)OC型(1936年)。オオタ(oota)自動車の、小型自動車。
さらに、1930年代後半に入ると、オオタ(oota)自動車が、良家の令嬢(金持ちの家・富裕層の家の娘)を、ターゲットにした(対象にした)広告を、さらに日産(nissan)が、水の江
瀧子(mizunoe
takiko)(後述します)を起用した広告を大々的に行った事もあり、都市部に住む医師(医者)や裕福な自営業、大学卒業以上の会社員等の中流階級を中心に、自動車への関心が急速に高くなっていき、それ等に対するモータースポーツ(motorsport)を使ったマーケテイング(marketing)が急務となりました。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、参考の投稿。
日本の飛行機の歴史他1→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3890065?&sfl=membername&stx=nnemon2

写真は、借り物。水の江 瀧子(mizunoe takiko)を起用した、日産(nissan)自動車の、小型自動車の広告。1936年。
水の江
瀧子(mizunoe
takiko)(1915年生まれ。2009年に亡くなる)は、日本の、女優・映画のプロデューサー(producer)で、1920年代後期から(女優として)活動を行い、女優として、1930年代初め頃から1950年代前半頃にかけて活躍、映画のプロデューサー(producer)として、1950年代中期頃から1960年代に活躍した後、タレント(テレビに出演する事を職業とする者)等として活躍しました。
水の江
瀧子(mizunoe
takiko)は、第二次世界大戦前の、1930年代には、日本を代表する、スター(star)女優の一人として活躍しました(当時、水の江
瀧子(mizunoe
takiko)のファン(fan)は、男性よりも、女性の方が、圧倒的に、多かった様です)。当時、貴族・財閥・政財界(政治・経済界)の大物等の、上流階級の家の娘(女性の子供)達にも、水の江
瀧子(mizunoe takiko)のファン(fan)が多く、その為、水の江 瀧子(mizunoe
takiko)は、政財界(政治・経済界)の大物(及び、その家族)とも親交を持っていました。
水の江 瀧子(mizunoe
takiko)は、第二次世界大戦後も、1950年代前半頃まで、引き続き、女優として活躍した後、1950年代中期頃から1960年代には、日活(nikkatsu)(日本の大規模映画会社の一つ)の、映画のプロデューサー(producer)として活躍し、日本における、映画の全盛期時代の、日活(nikkatsu)を支えました。
日本では、本格的な、テレビ放送は、1953年に始まり、当初は、テレビは、庶民にとっては、中々、手が届かない贅沢品でしたが、1950年代末には、テレビが、庶民の家庭にも普及する様になり、1960年代を通じて、人々の(大衆の)、映像による、娯楽の主流が、映画から、テレビに移って行き、1970年代以降は、テレビが、完全に、人々の(大衆の)、映像による、娯楽の主流となりました。
水の江 瀧子(mizunoe takiko)は、1970年代以降は、タレント(テレビに出演する事を職業とする者)等として活躍しました。
写真以下8枚(写真は、借り物)。女優時代の(1930年代の)、水の江 瀧子(mizunoe takiko)。

1936年。

1931年。

1931年。

1931年。

1930年代。

1935年。

龍田丸(tatsutamaru)(日本の、豪華客船)にて。1939年。左から、龍田丸(tatsutamaru)の船長、水の江 瀧子(mizunoe takiko)、アメリカの富豪、インドの王族、ミス(Miss)日本の女性。
龍田丸(tatsutamaru)に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付け投稿)を参照して下さい。
現代日本伝統様式(戦前日本の客船の内装)他1→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3758717/page/21?&sfl=membername&stx=nnemon2

1934年。
1936年には、川崎(kawasaki)市(東京中心部(東京23区)と横浜(東京圏で、東京中心部(東京23区)に次ぐ、第二の人口を有する都市)の間に位置する都市)の内陸部に、日本、及び、アジアで、最初の、常設の、自動車の、サーキット(car
racingのrace track)、多摩川スピードウェイ(Tamagawa Speedway)が開業しました。
1936年6月7日には、多摩川スピードウェイ(Tamagawa Speedway)で、日本初の本格的な自動車レース(car racing)となった第1回全国自動車競走大会が開催されました。
当時、横浜(下の補足説明を参照)にある工場で生産されていたFordや、貴族・財閥が輸入したBugattiやBentley、InvictaやHupmobile等の様々な外国車のみならず、カーチス(Curtiss)の航空機(飛行機)エンジン(engine)を搭載した改造車、日産(nissan)自動車等の日本の大手(大規模)自動車会社も参戦しました。
国産自動車部門で優勝したのはオオタ(oota)自動車が手作業で組み上げたレース(car
racing)専用の自動車の、「オオタ(oota)号」でした。なお、当日、レース(car
racing)を観戦していた日産(nissan)自動車の社長は、敗北に激怒しました。
横浜:横浜は、神奈川(kanagawa)県(東京圏の南部を占める県)の中心都市であり、東京圏で、東京中心部(東京23区)に次いで、第二の人口を有する都市となっています。横浜は、東京areaの海の玄関口(gateway)となっている大きな港町(東京圏を代表する港湾都市)であると共に、東京の都心部・横浜の都心部に通勤する人々が多く暮らす静かで落ち着いた住宅地地帯となっています。横浜は、伝統的に、東京areaの海の玄関口(gateway)となっている大きな港町であり、現在も、大規模な港湾都市である事が横浜の特徴であり個性となっていますが、第二次世界大戦後、郊外住宅地として、急速に開発が行われ(前述の通り、横浜は、東京圏で、東京中心部(東京23区)に次いで、第二の人口を有する都市となっています)、横浜は、現在は、東京の都心部・横浜の都心部に通勤する人々が多く暮らす、静かで落ち着いた住宅都市としての性格が強い都市となっています。
多摩川スピードウェイ(Tamagawa
Speedway)では、1936年10月に、第2回、全国自動車競走大会が開催され、10カテゴリーに分けられるなどより細かいレギュレーションが採用されました。今回も、日産(nissan)やオオタ(oota)の自動車会社の他、第1回には出場していなかったMercedes-BenzやMG、VauxhallやDodge等、様々な外国車も参戦しました。このレース(car
racing)においては、前回優勝できなかった日産(nissan)自動車が雪辱を果たし優勝し、新聞や雑誌等に大々的に広告を打ちました。
多摩川スピードウェイ(Tamagawa
Speedway)では、1937年5月16日に、第3回、全国自動車競走大会が開催されました。この回も多くの日本車と外国車が参戦しましたが、前回優勝した日産(nissan)自動車は参加を見送り、ライバル(rival)不在の中でオオタ(oota)自動車が優勝を飾りました。
1938年4月17日には、多摩川スピードウェイ(Tamagawa
Speedway)で、第4回、全国自動車競走大会が開催され、同時に全日本オートバイ(motorcycle)選手権も開催されました。しかし、前年に勃発した、日中戦争(日本の中国に対する侵略戦争)を受けて施行された、物資動員計画に伴うガソリンの配給制移行等の影響により、第4回、全国自動車競走大会を最後に自動車レース(car
racing)は行われなくなりました。
自動車によるレース(car
racing)は休止を余儀なくされたものの、1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が開戦し、ドイツやイタリア、イギリス等でレース(car
racing・moto racing)の開催が中止された後も、多摩川スピードウェイ(Tamagawa
Speedway)では、オートバイのレース(moto racing)は、開催されていました。
しかし、1941年12月の日本の第二次世界大戦の参戦を受けてオートバイによるレース(moto
racing)も終了を余儀なくされ、その後は同盟国のドイツやイタリア、敵国のイギリスやアメリカ等と同様に、全く、レース(car
racing・moto racing)が開催されなくなりました。
第二次世界大戦後、軍事用に回された余剰ガソリンが市中に出回るようになると、多摩川スピードウェイ(Tamagawa
Speedway)では、間もなく、愛好家達により、オートバイのレース(moto
racing)が再開されるようになりましたが、戦後になって地方から東京圏への流入人口の増加により、周辺地域に住人が増えてきた事で、騒音問題が取り沙汰されるようになり、(川崎(kawasaki)市(下の補足説明を参照)の内陸部にあった)多摩川スピードウェイ(Tamagawa
Speedway)は、1950年代初めには廃止され、跡地は、野球場等となりました。
川崎(kawasaki)市:東京中心部(東京23区)と、横浜(東京圏で、東京中心部(東京23区)に次いで、第2の人口を有する都市。東京圏の海の玄関口(gateway)となっている大きな港町であると共に、東京都心部に通勤する人々が多く暮らす、静かで落ち着いた住宅地地帯となっている)の間に位置する(東京中心部(東京23区)の南部と横浜市の北部に隣接する)、大都市(ただし、大都市としては、人口は、比較的、少ない)。川崎(kawasaki)市は、海側(海に近い地域)は、主として、工業地帯・工場地帯と庶民的な街(労働者(blue-collar
worker)の街))となっており、内陸部は、主として、東京都心部に通勤する人々が多く暮らす、静かで落ち着いた郊外住宅地となっています。
日本には、依然として、遊園地、動物園、水族館(public
aquarium)等の遊戯施設は、多いですが、それでも、遊園地は、東京圏では、世界有数の入園者数を誇る、東京disney
resortとの競争に敗れて、関西(kansai)(大阪)大都市圏では、競争力のあるUniversal Studios
Japanとの競争に敗れて、また、日本全国的には、少子化等による入場者数の減少によって、全盛期よりかは(私が、子供の頃位が全盛期か。。。いや、それよりも、ずっと前?)、かなり減りました。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、参考の投稿。
70年近い歴史を有する薔薇の庭園他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3853944/page/25?&sfl=membername&stx=nnemon2
船橋(funabashi)市は、千葉(chiba)県(東京圏の東部に位置する県(東京圏の東部から南東部を占める県))の北西部に位置する市で、東京中心部(東京23区)に近い、東京の東部郊外に位置しています。
船橋(funabashi)ヘルスセンター(health
center)は、1955年に開業し、1977年に閉館した、かつて、船橋(funabashi)市の、海沿いに存在していた、風呂やプール(swimming
pool)をテーマとした、遊園地・規模の大きな娯楽施設です。当時、この種の(風呂やプール(swimming
pool)をテーマとした)、遊園地・娯楽施設としては、東洋一の(アジアで最大の)規模を誇りました。
適当に検索して出て来たsiteから、船橋(funabashi)ヘルスセンター(health center)→
https://www.city.funabashi.lg.jp/shisetsu/bunka/0001/0005/0003/p053576.html
ちなみに、船橋(funabashi)ヘルスセンター(health
center)が閉館した時は、私は、既に生まれていましたが、まだ、赤ちゃん(baby)と言った感じであったので、私は、船橋(funabashi)ヘルスセンター(health
center)に訪れた事はありません。
LaLaportTOKYO-BAYは、閉館した、船橋(funabashi)ヘルスセンター(health center)の跡地に、1981年に開業した、店舗数、約440店舗の、規模の大きな、ショッピングモール(shopping mall)です。

写真は、借り物(写真の作者:掬茶)。LaLaportTOKYO-BAYの風景例。
ちなみに、かつて、LaLaportTOKYO-BAYの施設の一つとして、当時、世界最大、且つ、史上(歴史上)最大の、屋内(室内)スキー場(ski
slope)であった、LaLaportスキードーム(ski dome)SSAWS(1993年開業。2002年に営業が終了)がありました。
適当に検索して出て来たsiteから、LaLaportスキードーム(ski dome)SSAWS→
https://www.kajima.co.jp/gallery/const_museum/kuukan/main/article/kuukan_m_03.html
以下、船橋(funabashi)サーキット(circuit)に関する説明は、wikiを参考にしました。
船橋(funabashi)サーキット(circuit):多摩川スピードウェイ(Tamagawa
Speedway)(1936年に開業。1950年代初めに廃止)、鈴鹿(suzuka)サーキット(Suzuka
Circuit)(1962年に開業)に次ぐ、日本で、3番目の(日本で3番目に開業した)、自動車の、サーキット(car racingのrace
track)として、1965年に、船橋(funabashi)ヘルスセンター(health
center)の敷地内に開業。設計は、ピエロ・タルッフィ(Piero
Taruffi)(1906年生まれ、1988年に亡くなる。イタリアの、レーシングドライバー(racing driver・motorcycle
road racer)。1950年から1956年まで、F1(Formula One)の、レーシングドライバー(racing
driver)として活躍。晩年まで、度々、来日している(日本を訪れている))が行った。一か月に、1回から3回程、自動車のレース(car
racing)を開催し、又、ジムカーナ(gymkhana)を頻繁に行なっていた。またレーシング(car
racing)クラブ(club)向けの講習会や、レンタカーによる体験走行もおこない、日本におけるレース(car
racing)人口の拡大に貢献した。
しかし、日本グランプリ(Japanese Grand
Prix)(日本の、自動車のレース(car racing)の中で、最高峰の、自動車のレース(car
racing)。第一回(最初の大会)は、1963年に、鈴鹿(suzuka)サーキット(Suzuka
Circuit)で開催された)等の、大規模な、自動車のレース(car
racing)の誘致に失敗すると共に、特に、平日の利用が少なく、維持費がかさみ、赤字が拡大した事により、開業してから、わずか2年後の、1967年に閉鎖され(営業が終了し)、跡地は、オートレース(Auto
Race)場(オートレース(Auto Race)(競馬の様にギャンブル(gambling)の要素を伴う、舗装した道で行う、flat track
motorcycle racing)のrace track)となった。