一昨年の7月の上旬に行った投稿の再掲です。
以下、吉屋 信子(yoshiya nobuko)に関する説明は、wiki等を参考にしました。
吉屋 信子(yoshiya nobuko)(1896年生まれ。1973年に亡くなる)は、1920年代から1970年代初めにかけて活躍した、日本の、女性、小説家です。
吉屋
信子(yoshiya nobuko)の父親は、吉屋 信子(yoshiya
nobuko)が生まれた当時、新潟(niigata)県(日本の中部地方の北端に位置する県)の、警察所長を務めており、吉屋 信子(yoshiya
nobuko)は、新潟(niigata)市(新潟(niigata)県の中心都市)の、新潟(niigata)県の県庁の官舎で生まれました。
吉屋 信子(yoshiya nobuko)の父親は、その後、地方の行政職に転じ、新潟(niigata)県内の、群(地方)の長官を経て、栃木(tochigi)県(東京圏の北端に位置する県)内の、群(地方)の長官となりました。
吉屋
信子(yoshiya
nobuko)は、栃木(tochigi)県内の、女学校(第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる)在学時から、少女雑誌(少女向けの雑誌)に、短歌(tanka)(日本の伝統的な詩の形式の一つ)や物語の投稿を始め、1910年には、少女界(syoujyokai)(1902年に創刊された、日本で最初の、少女向けの雑誌)の、小説の懸賞に応募し、小説、「鳴らずの太鼓」で、一等に当選し、賞金を獲得しました。
吉屋
信子(yoshiya
nobuko)は、女学校を卒業した後、地元、栃木(tochigi)県の、小学校で代用教員(下の補足説明を参照)になりますが、文学への道を捨て難く、東京に出て、作家を目指そうとし、父は反対していましたが、吉屋
信子(yoshiya nobuko)の才能を認めていた吉屋 信子(yoshiya
nobuko)の兄が父を説得し、19歳の時に、東京に出て来て、雑誌へ、投稿する生活を送る様になりました。
代用教員:第二次世界大戦前の日本において、正式な教師の資格を持たない、小学校の教師。小学校の教師になるには、本来(正式には)、師範学校(教育系の大学)を卒業しなければならなかったが、師範学校(教育系の大学)の卒業者が、日本の全ての小学校の教師を賄うのに十分でなかった為、正式な教師の資格を持たなくても、能力・学力・知識等を考慮して、小学校の教師になる資質を、実質的に、満たしているとして、採用されていた、小学校の教師。
後述する、吉屋
信子(yoshiya nobuko)の小説、「花物語」は、吉屋 信子(yoshiya
nobuko)が、人気の作家となった、きっかけの作品で、吉屋 信子(yoshiya
nobuko)は、1916年から、「少女画報」(「婦人画報」(大人の女性向けの雑誌)の姉妹誌として、東京社から1912年1月に創刊された、日本の、月刊の少女雑誌(少女向けの雑誌))に連載した「花物語」によって女学生から圧倒的な支持を受ける人気作家となりました。
吉屋 信子(yoshiya nobuko)は、同性愛者であったと言われており、50年以上、パートナー(partner)の女性、門馬 千代(monma chiyo)(下の補足説明を参照)と共に暮らしました。
門馬
千代(monma
chiyo):侍(samurai)の家系の国語学者の長女として生まれる。女学校(第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる)の、数学の教師をしていた。1923年に、吉屋
信子(yoshiya nobuko)と出会う。吉屋 信子(yoshiya
nobuko)の生涯の共同生活者であり、秘書であり、パートナー(partner)であり、親友であり、死までともに過ごした。
吉屋 信子(yoshiya nobuko)は、人気作家でしたが、大衆、小説作家として軽んじられ、文学界や批評家からは軽く扱われてきた面もありますが、近年、その作品が相次いで復刊され、研究や再評価が進んでいます。
吉屋
信子(yoshiya
nobuko)の作品は、常に女性読者を意識し、女性にまつわる問題を取り上げ続け、その女性への愛情は女性たちの「シスターフッド」の関係や同性愛表象によって表現されました。しかし、性風俗(sex産業)に従事する女性や、教育を受けてない女性に対する差別的な態度も見られると指摘されています。

写真は、借り物。吉屋 信子(yoshiya nobuko)。1930年。

写真は、借り物。吉屋
信子(yoshiya
nobuko)。1928年。間違っていたら申し訳ありませんが、おそらく、当時の、下落合(shimoochiai。現在の新宿区(東京中心部の西部)に位置する)の、吉屋
信子(yoshiya nobuko)の自宅(家)にて。。。
ちなみに、下落合(shimoochiai)には、蕗谷虹児(fukiya koji)の家もありました。
以下、参考の投稿。
蕗谷虹児(fukiyakoji)2→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3825238?&sfl=membername&stx=nnemon2

写真は、借り物。1935年。左から、林
芙美子(hayashi
fumiko)(1903年生まれ、1951年に亡くなる。1920年代末から1951年に亡くなるまで活躍した、日本の有名な、女性、小説家。貧しかった生い立ちからか、底辺の庶民を慈しむように描いた作品に、特に名作があります(wikiより))、佐多
稲子(sata
ineko)(1904年生まれ。1998年に、94歳で亡くなる。1920年代後期から1980年代後期に活躍した(晩年(80歳代後半以降)は、引退し、文学的社会的活動から身を退いた)、日本の、女性、小説家)、吉屋
信子(yoshiya nobuko)、宇野 千代(uno
chiyo)(1897年生まれ(山口(yamaguchi)県(日本の西部に位置する県の一つ)の、小規模な日本酒の会社を営む、裕福な家に生まれる)。1996年に亡くなる。1920年代から1996年に、98歳で亡くなる近くまで、精力的に活躍していた、日本の、有名な、女性、小説家)。
宇野 千代(uno chiyo)に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
竹久 夢二(takehisa yumeji)→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3825234?&sfl=membername&stx=nnemon2
林 芙美子(hayashi fumiko)に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
林 芙美子(hayashi fumiko)他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3825894?&sfl=membername&stx=nnemon2

写真は、借り物。佐多 稲子(sata ineko)。1929年。
佐多 稲子(sata ineko)に関する説明に関しては、投稿のコメント欄の投稿の補足を参照して下さい。
以下、投稿のコメント欄における、佐多 稲子(sata ineko)に関する説明から抜粋して来た物です。
佐多
稲子(sata
ineko)は、上野(ueno)の、高級日本料理食堂に、女中(waitress)として勤めていた10代のころ、客として現れた芥川
龍之介(akutagawa ryunosuke)を見て、女中(waitress)仲間に「芥川 龍之介(akutagawa
ryunosuke)だ」と言ったところ、その女中(waitress)が芥川 龍之介(akutagawa
ryunosuke)に「お客さんを知っている者がいる」と話し、個人的な知り合いかと勘違いした芥川 龍之介(akutagawa
ryunosuke)が、佐多 稲子(sata ineko)を席に呼んだのがきっかけで、顔見知りとなった。
女中(waitress)仲間達の間では、芥川
龍之介(akutagawa ryunosuke)は、(お洒落な、縞模様の、銘仙(meisen)着物を着こなす)佐多 稲子(sata
ineko)に、好意を持っている様だと見られていた。芥川 龍之介(akutagawa
ryunosuke)(1927年、自殺により、35歳で亡くなる)が亡くなる4日前には、佐多 稲子(sata ineko)は、芥川
龍之介(akutagawa ryunosuke)から連絡があって自殺者の心理を聞かれた。
銘仙(meisen)着物に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
近代着物展他(内容追加版)前編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3783125/page/8?&sfl=membername&stx=nnemon2
上野(ueno)の、高級日本料理食堂に務めた後、丸善(maruzen)(1869年創業の、東京に拠点を置く、日本の書店(本の店))の店員となる。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、丸善(maruzen)に関する参考の投稿。
ハヤシライス(hayashi rice)の歴史他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3538045/page/33?&sfl=membername&stx=nnemon2
以上、投稿のコメント欄における、佐多 稲子(sata ineko)に関する説明から抜粋して来た物でした。
吉屋
信子(yoshiya nobuko)の話に戻りますが、前述の通り、「花物語」は、吉屋 信子(yoshiya
nobuko)が、人気の作家となった、きっかけの作品で、吉屋 信子(yoshiya
nobuko)は、1916年から、「少女画報」(「婦人画報」(大人の女性向けの雑誌)の姉妹誌として、東京社から1912年1月に創刊された、日本の、月刊の少女雑誌(少女向けの雑誌))に連載した「花物語」によって女学生から圧倒的な支持を受ける人気作家となりました。
以下、「花物語」に関する説明は、基本的に(概ね)、wikiから抜粋して来た物です。
「花物語」は、吉屋
信子(yoshiya
nobuko)が、20代の頃に執筆した短編連作集で、1編ごとに花にちなんだ表題を掲げ、独特の美文調で綴られている。1916から1924年まで、雑誌、「少女画報」に断続的に連載され、1925年7月から1926年3月にかけて「少女倶楽部(少女club)」(日本の、月刊の少女雑誌(少女向けの雑誌)。1923年1月に、講談社(kodansha)(日本の、大規模、出版会社の一つ)から創刊)に3編が連載された。挿絵は、亀高文子(kametaka
fumiko)(1886年生まれ。1977年に亡くなる。日本の、女性、画家)、清水良雄(shimizu
yoshio)(1891年生まれ。1954年に亡くなる。日本の画家)、蕗谷 虹児(fukiya koji)、須藤 しげる(sudo
shigeru)(後で、説明します)、中原 淳一(nakahara
jyunichi)(1913年生まれ、1983年に亡くなる。1930年代から1970年代にかけて活躍した、日本の、イラストレーター(illustrator)、人形作家)等が描いた(1937から2年間、「少女の友」(1908年に創刊された、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌))増刊号に再録された際の挿絵は、中原
淳一(nakahara jyunichi)が担当した)。
蕗谷 虹児(fukiya
koji)(1898年、新潟(niigata)県(日本の中部地方の北端に位置する県)生まれ。1979年に亡くなる。父は、新聞記者。1920年代から1970年代に活躍した、日本の有名な、近代画家、詩人、イラストレーター(illustrator))に関しては、以下の投稿を参照して下さい。
蕗谷虹児(fukiyakoji)1→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3825239?&sfl=membername&stx=nnemon2
蕗谷虹児(fukiyakoji)2→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3825238?&sfl=membername&stx=nnemon2
蕗谷虹児(fukiyakoji)3→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3825237?&sfl=membername&stx=nnemon2
蕗谷虹児(fukiyakoji)4→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3825236?&sfl=membername&stx=nnemon2
蕗谷虹児(fukiyakoji)5→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3825235?&sfl=membername&stx=nnemon2
「花物語」の、重要な主題として挙げられるのは、少女が別の少女や女性と築く友愛関係である。相手となる少女や女性は、少女と置かれている環境の違いはあっても孤独を感じている設定であることが多く、友愛関係を築くことによって互いに孤独から開放される。連載後期になると、そのような友愛関係の延長として同性愛に発展する話も増えた。連載初期の頃は相手に控えめに思いを寄せる姿を描いていたが、後期の作品では異性愛と同格にとらえて描かれるようになり、作品によっては異性愛よりも上位に存在する愛の形として描かれるようになった。
特にこうした女学生同士の強い絆のことを「S」と言い、女学生の文化として少女達から支持され、現実の学校でも少女同士の情熱的な関係が結ばれることが多かった。
須藤 しげる(sudo shigeru)(1898年生まれ。1946年に、病気により48歳で亡くなる)は、主として、1920年代から1930年代に活躍し、当時の、少女・若い女性達の間で、人気があった、イラストレーター(illustrator)の一人です。
須藤 しげる(sudo shigeru)は、吉屋 信子(yoshiya nobuko)の「花物語」等の挿絵を描いて、脚光を浴び、人気を博しました(wikiを参考にしました)。
写真以下2枚(写真は、借り物)。須藤 しげる(sudo shigeru)の作品例。

「春のお仕度」(1926年)。

「ほたる狩り」(1926年)。
以下、基本的に、先月の下旬に行った、「中原 淳一/高畠 華宵」と言う投稿から抜粋して来た物です。
後述する、弥生(yayoi)美術館に関しては、以下の投稿を参照して下さい。
近代着物展他(内容追加版)前編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3783125/page/8?&sfl=membername&stx=nnemon2
近代着物展他(内容追加版)後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3783124/page/8?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、関連投稿。
着物(日本の女性向けの伝統衣装)他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3823146/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、基本的に(若干、内容を追加したり、参考の投稿を入れ替える等しています)、2020年の4月の後半に行った投稿から抜粋して来た物です。
以下、「」内。私の前の投稿文より。。。ちなみに、我が家(東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地に位置します)の近所の私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で、母方の祖父母共、既に亡くなり、現在は両親が引き継いで暮らしています(ちなみに、私の母は、一人っ子です)。
「亡くなった、私の母方の祖母は、竹久 夢二(takehisa yumeji)や中原
淳一(nakahara jyunichi)も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya
koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、晩年になっても、蕗谷
虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。」
竹久 夢二(takehisa yumeji)に関しては以下の投稿を参照して下さい。
竹久 夢二(takehisa yumeji)等→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3738731/page/10?&sfl=membername&stx=nnemon2
亡くなった、私の母方の祖母に関しては、以下の投稿を参照して下さい。ちなみに、私は、大の、おばあちゃん(母方の祖母)子でした。
母方の祖母の話 →
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658687/page/34?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、前に行った投稿から抜粋して来た物です。

写真は、借り物。中原
淳一(nakahara jyunichi)。中原 淳一(nakahara
jyunichi)(1913年生まれ、1983年に亡くなる)は、1930年代から1970年代にかけて活躍した、日本の、イラストレーター(illustrator)、人形作家です。中原
淳一(nakahara jyunichi)は、竹久 夢二(takehisa
yumeji)や、それに続いた、日本の画家・挿絵画家・グラフィックデザイナー(graphic
designer)に続いて、日本の少女漫画(少女向けの漫画)の画風の原型を作った作家です。中原 淳一(nakahara
jyunichi)は、1939年には、自身の(自分の)デザイン(design)した商品等を置く、雑貨店、中原 淳一(nakahara
jyunichi)shop、「ヒマワリ(向日葵)」を東京の都心部の麹町(koujimachi)に開店し、この店は、学生等、当時の、日本の、若い女性達に大変な人気を博しました。ちなみに、個人的な話ですが、亡くなった、私の母方の祖母は、竹久
夢二(takehisa yumeji)や中原 淳一(nakahara jyunichi)も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya
koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、晩年になっても、蕗谷
虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。

2011年の7月から9月にかけて、弥生(yayoi)美術館で行われていた、展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)。この展覧会(exhibition)は、中原
淳一(nakahara
jyunichi)の少女雑誌(少女向けの雑誌)、「ひまわり(向日葵)」の展覧会(exhibition)で、「焼け跡に咲いた復興の花」と言う、副題が付けられています。以下、この展覧会(exhibition)についての文は、パンフレット(leaflet)の文を、ほぼ、抜粋。1947年、まだ敗戦の爪痕の残る日本に、一冊の少女雑誌が誕生しました。その名は、「ひまわり(向日葵)」。「よき(良い)女性の人生は、よき(良い)少女時代を送った人に与えられる」との信念から、画家、中原
淳一(nakahara
jyunichi)が、自ら、刊行した雑誌です。物資が乏しい時代、それは粗雑な紙の刷られた、薄い冊子でしたが、内容は、文学・音楽・美術・身だしなみ・マナー(manners)等、多岐に渡り、読者たちの、心の糧となりました。どんな状況の下でも、少しの工夫と心掛けで、心が豊かに、美しく生きられる。中原
淳一(nakahara jyunichi)のメッセージに励まされ、少女達は、新たな一歩を踏み出したのです。
写真以下6枚。中原 淳一(nakahara jyunichi)の作品例(絵葉書より。。。)。
「娘十二ヶ月 一月・鹿子帯」。1940年。
「娘十二ヵ月 二月・如月の雪」。1940年。

「娘十二ヵ月 六月・蛍」。1940年。
「娘十二ヵ月 十二月・雪」。1940年。
「きものノ絵本 裏表紙」。1940年。
「ジュニアそれいゆ 表紙」。1958年。
以上、前に行った投稿から抜粋して来た物でした。
写真は、借り物。高畠
華宵(takabatake kasyo)。高畠 華宵(takabatake
kasyo)(1888年生まれ、1966年に亡くなる)は、主として、1910年代から1930年代に活躍した、日本の、画家(挿絵画家、グラフィックデザイナー(graphic
designer))です。高畠 華宵(takabatake
kasyo)(生涯独身であった)は、同性愛者(gay)であったのではないかとも言われていますが、あくまでも、噂に過ぎなく、確定的な情報ではない様です。
2011年の7月から9月にかけて、弥生(yayoi)美術館(東京都心部)で行われていた、高畠 華宵(takabatake kasyo)の展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)。
写真以下9枚。絵葉書の写真で済みませんが、高畠 華宵(takabatake kasyo)の作品例。
「夕蛍」(1930年代頃)。
「落葉」(「少女画報」1926年11月号)。
「少女の国」(1920年代に出版されていた少女雑誌)表紙。1927年10月号。
「白萩」(便箋表紙絵)。1920年代から1930年代。
「春の丘」(「少女画報」1929年4月号)。少女画報は、1912年創刊、1942年廃刊の少女雑誌(主な読者は、中流階級以上の10代の女性)です。少女画報は、第二次世界大戦中の、1942年に、戦時(戦争時)雑誌統合令により、「少女の友」(1908年創刊、1955年休刊の少女雑誌。主たる読者層は、少女画報と同じ)に統合されました。1920年代から1930年代の、日本の女学校(第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる)では、「S」(sisterの略)と言う行為が流行していました。以下、当時の日本の女学校の生徒達の間で流行していた、「S」に関しては、美術館の展示説明を参考にしました。「S」は、女学校の上級生と下級生の間の、擬似恋愛的な行為で、一方(上級生(お姉さん役))は、絶えず守る立場で(守る役割を演じ)、もう一方(下級生(妹役))は、絶えず、守られる立場でした(守られる役割を演じました)。交際の内容は、手紙を交換したり、お揃いの髪型にしたり等、他愛無い(幼稚な)物でしたが、少女時代(や思春期)のロマンティシズム(romanticism)が、生んだ、(当時の)乙女文化(少女・思春期文化)の一つと言えるでしょう。高畠
華宵(takabatake kasyo)は、「S」に関する(又は、「S」を思い起こさせる)、少女や若い女性の作品を、たくさん描いています。
ちなみに、私の母方の祖母と、私の母方の祖母の姉は、実際の姉妹ですが(既に、二人共亡くなっている)、実際の姉妹であり、擬似的な恋愛的な関係でもありませんが、私の母方の祖母の姉が、絶えず、私の母方の祖母を守る立場で、私の母方の祖母は、私の母方の祖母の姉に、絶えず、守られる立場であったと言う点においては、おそらく、「S」の関係に類似していたと思います。
私の母方の祖母の姉に関しては、以下の投稿を参照して下さい。
約350年の歴史のデパート・私の母方の祖母の姉の話他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3658688/page/34?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下2つの投稿は、それぞれ、私が高校の時と、20代初めから20代半ば頃の、当時、私の、疑似的な弟と言った感じであった(まあ、高校の時の、校内の男の親友は、疑似的な弟という程でもなかったかな。。。)、男の親友の話を含む投稿です。私も、私が高校の時の、校内の男の親友も、私が、20代初めから20代半ば頃の、当時、私の、疑似的な弟と言った感じであった年下の男の親友も、ゲイ(gay)でも、ホモでも、全くなく、その正反対の、女好きの男子でしたがw
女子校・共学の違い他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_5/view/id/3598600/page/30?&sfl=membername&stx=nnemon2
蔦屋に行ったら2他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_5/view/id/3598599/page/31?&sfl=membername&stx=nnemon2 
「ダンス(dance)」(便箋表紙絵)。1930年。
「光」。
「初春」(「少女の友」1931年1月号口絵原画)。

「情炎」の部分。1931年。
以上、基本的に(若干、内容を追加したり、参考の投稿を入れ替える等しています)、2020年の4月の後半に行った投稿から抜粋して来た物でした。
バスクリン(bathclin)(入浴剤)は、1897年からの歴史を有する(元々、中将湯(cyujyouto)と言う名前で販売されていましたが、1930年に、バスクリン(bathclin)に名前を変更)、日本の入浴剤です。
高畠 華宵(takabatake kasyo)が、製品のパッケージ(包装)・広告の、デザイン(design)を手掛けた、バスクリン(bathclin)(1930年)→
https://muuseo.com/kazuhiro2471277/items/553
(こちらは、tとrの間の「・」を除いて下さい)→
https://www.yakuji.co.jp/ent・ry19763.html
以下、中将湯(cyujyouto)(後の、バスクリン(bathclin))に関する参考の投稿。
パナソニック汐留美術館 テルマエ展他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3818065?&sfl=membername&stx=nnemon2
以上、基本的に、先月の下旬に行った、「中原 淳一/高畠 華宵」と言う投稿から抜粋して来た物でした。
高畠 華宵(takabatake kasyo)に関しては、以下の投稿も参照して下さい。
弥生美術館 マツオヒロミ展他3→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3823479?&sfl=membername&stx=nnemon2
泉 鏡花・弥生美術館他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3823147/page/2?&sfl=membername&stx=nnemon2
マツオヒロミ(matsuo hiromi)(1980年生まれ)は、2000年代中期頃から活躍している、日本の、女性、イラストレーター(illustrator)です。マツオヒロミ(matsuo hiromi)は、その作品が、女性に、人気が高い、イラストレーター(illustrator)です。
マツオヒロミ(matsuo hiromi)は、竹久 夢二(takehisa yumeji)や高畠 華宵(takabatake kasyo)等、1910年代から1930年代頃に活躍し、当時の女性達に人気が高かった、イラストレーター(illustrator)や、第二次世界大戦後の、日本の漫画の画風等から影響を受け、1920年代から1930年代頃の、日本の世界観・服装と、現代の、日本の、少女漫画(少女・若い女性向けの漫画)の画風(描く人物の顔)を融合させた作風を特徴とする、イラストレーター(illustrator)です。
マツオヒロミ(matsuo hiromi)の作品。
マツオヒロミ(matsuo hiromi)に関しては、以下の投稿を参照して下さい。
弥生美術館 マツオヒロミ展他1→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3823481?&sfl=membername&stx=nnemon2
弥生美術館 マツオヒロミ展他2→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3823480?&sfl=membername&stx=nnemon2
皐月 恵(satsuki kei)版画展(マツオヒロミ(matsuo hiromi)関連かな? 広告で出て来た物です)→
https://artv-satsuki.net/
皐月 恵(satsuki kei)は、私は、全く知りませんでしたが、日本の、イラストレーター(illustrator)である様です。
皐月 恵(satsuki kei)→
https://r11r.jp/creator/3904/
皐月 恵(satsuki kei)の作品→
https://note.com/kuroe1160/n/n34153fd955ff
Zemeth(JUNYA)は、私は、全く知りませんでしたが、2014年頃から活動を行っている、日本の、北海道(hokkaido)(日本の最北端の地方)の、rock音楽の、artistである様です。
https://youtu.be/6O3hnRPoiJ0?si=1Fm-PLIXWCpnss9q
動画は、借り物。Zemeth(JUNYA) - 「狂愛LONELINESS feat. nayuta」。絵は、皐月 恵(satsuki kei)が手掛けた様です。
上の曲の歌は、nayutaが、歌っています。
以下、nayutaに関して(私は、nayutaは、全く知りませんでした)、wikiを参考にしました。
nayutaは、日本の、女性、声優・歌手。アニメ(anime)「涼宮ハルヒ(suzumiya
haruhi)の憂鬱」のヒロイン(主人公)である涼宮ハルヒ(suzumiya haruhi)役で知られている声優、平野 綾(hirano
aya)(日本の女性声優)の声真似を得意とする。歌では、囁いて言葉を発しメロディーに乗せるといったウィスパーボイス(囁き声)を多用している。自身で作詞・作曲も、手掛ける。
「涼宮ハルヒ(suzumiya
haruhi)の憂鬱」(日本の小説(2003年から)を原作とした、日本の、アニメ(anime)テレビシリーズ(television
series)。2006年と2009年に放送)は、私は、全く詳しくありませんが、世界的に、人気がある様です(コスプレ(cosplay)でも、人気がある様です)。
以下2つ。動画は、借り物。適当に、you tubeで検索して出て来た動画の中から。。。「涼宮ハルヒ(suzumiya haruhi)の憂鬱」
https://youtu.be/HoPYShZ9WJE?si=KgbmELkFb7VKl8jB