死後30年経って北朝鮮に利用される沖縄慰安婦


北朝鮮の機関誌「朝鮮新報」とユン・ミヒャンや正議連が死後30年経ってから募金活動の広告塔に利用した沖縄在住の元朝鮮人慰安婦、裴奉奇(배봉기/ペ・ポンギ)さん
生前も朝鮮総連や正議連のユン・ミヒャンが度々接触してきたそうだが、正議連の広告塔にならなかった人。知っての通り、正議連に関連した慰安婦は最初は日本軍が全く登場しないのに後から「日本軍に拉致された」と証言をみんな変えてるので、彼女にも同じことをさせようとしたと思われるが、遠隔地の沖縄に住んでいたため成功しなかったと思われる。ペ・ポンギさんは金学順氏より16年も早く存在が知られた人で、本来なら慰安婦問題の象徴になっても良い人だが、典型的な「貧困~甘言に騙されて慰安婦になった」タイプで、慰安婦になる経緯に日本軍など全く登場しないので、正義連(旧・挺対協)などの慰安婦利権者や朝鮮総連からすると、他の慰安婦のように証言を変えて貰わないと、あまり利用価値がなかった。しかし死後30年経って、朝鮮総連や正議連が彼女を元慰安婦として募金活動の広告塔に使い始めた。
彼女を取材した左翼活動家の川田文子(正議連 支援組織「希望のたね基金」顧問)の本「赤瓦の家(1987年出版)」によると2度離婚した29歳の時に「シンガポールでいい儲け仕事がある」と甘い誘い言葉に乗って釜山に行き、そこから沖縄に来たのは30歳になった44年の11月、しかし那覇はその1ヵ月程前に十・十空襲を受けており、そこでは1~2泊しただけで、20名の女性と共に渡嘉敷(とかしき)、座閒味(ざまみ)、阿嘉島(あかじま)に向かう船に乗る。
渡嘉敷島の慰安所は接収された仲村渠(なかんだかり)家で、そこに配置されたのは、アキコ(ペ・ポンギさん)の他は、キクマル、ハルコ、スズラン、カズコ、ミッちゃん、アイコの6人、ところがここも1945年3月23日に空襲で破壊され、慰安婦として働いたのは5ヵ月に満たない。
3月23日の空襲でハルコが死亡。その時簡単に埋葬したが、戦後、新里家の人が骨が見えているのを見つけ、壺に入れて埋葬していたのを、1962年に戦没者慰霊の「白玉の塔」が建てられた時、軍人の遺骨とともに合祀された。
『赤瓦の家』の著者の川田文子氏と共に渡嘉敷島を訪れたペ・ポンギさんはそれを知って「ハルコの遺骨をそんなにまでしてくれて、ありがたいよね。」と言ったという。
その後は、終戦まで軍の炊事版で働いたりしながら戦禍を生き延び、武装解除は8月26日で、ペ・ポンギさんも第三戦隊と共に武装解除式に臨んだとのこと。
著書の中で彼女は「ずーっと山に隠れている時、日本は勝つ、日本は勝つ、いつも心の中で思ったよ。そう思ってたのが、はい、日本は負けてね。〔隊長が剣をアメリカーに渡すのを見て〕アメリカーが取るのを見たら、悔しかったよ。」と答えている。
その後、1972年5月に沖縄が日本に返還され、沖縄が日本に返還された事により正式の滞在許可を得る手続きをした事がきっかけでその存在が知られた。
旅券もビザもないため、強制送還 の対象となるところだったが『不幸な過去』が考慮され、法務省は特別在留許可を与えたとのこと。
