顕忠祠は朝鮮人が破壊し日帝が再建した


「最近に於ける朝鮮治安状況 : 昭和八年・十三年」(朝鮮総督府警務局 編)より参照
高宗の時代(1871年)に、父親の大院君が「書院撤廢令(서원철폐령)」を出し、全国の書院や祠宇〔廟・神社のようなもの〕の内、47ヶ所だけ残して全て撤廃するよう命じた。朝鮮時代は重要と思われてなかった為、顕忠祠も壊した。
しかし日帝は朝鮮人に自慢出来る人物を残そうと考え、李舜臣を美化して英雄に祭り上げる方針を固め、それに合わせて顕忠祠を再建することにした。
このことは「[朝鮮総督府]調査資料 第45輯」に書かれている。(第二章 祠院祭/58、一 祠院の由來/58)https://dl.ndl.go.jp/pid/1114396/1/42?keyword=大院君
これが再建される経緯は「最近に於ける朝鮮治安状況 : 昭和八年・十三年」〔朝鮮総督府警務局 編〕に書かれている。((三) 民族運動/p63)https://dl.ndl.go.jp/pid/2991738/1/57?keyword=顕忠祠&page=right
この部分は「治安状況」という見出しが付けられており、朝鮮総督府が朝鮮人知識人の思想に目を光らせていたことも覗える。
一部抜粋→「昭和6年末より京城民族主義者 尹致吴、南宮黃、白寬洙、俞鎮泰、鄭寅晋等が中心となり、過ぎし壬辰の役(文綠、慶長の役)日本軍と交戦し偉功あると傅へらるる、李舜臣を追墓崇することは朝鮮人に残されたる責務なりとし、李忠武公遺蹟保存会を組織し、2萬5千餘円の献金を数箇月間に集め、顯忠祠共他の堂々たる殿宇を建立し、昭和8年に入り湯鮮體育會を作り、或は諺文(ハングル)普及及保存会を組織せるが如きは彼等思想の一端を物語るものにして」
韓国語のwikiには→1863年、興宣大院君が幼い高宗に代わって国王摂政をしながら下した全国の書院撤廃令で、一時存廃の危機に直面した。 これに対し儒生たちが李舜臣の業績を冒涜するなと反対したが、結局興宣大院君の命で廃止された。→と韓国語wiki にも破壊されたことが書かれている。
その後
→1910年日本による植民地時代の時は朝鮮総督府の圧迫でもう一度存廃危機と受難に遭ったりもし、ここに日本人が李舜臣の墓所および顕忠祠を委託管理しているという事実が知らされ、1932年東亜日報社の主管で開かれた顕忠祠復元募金運動の時に集めた寄付金で現在の姿に再建し忠武公の遺影を整えた。
と1863年に既に撤廃されたものが「(日本による圧迫で)存廃危機」と矛盾した事が書かれているが、実際は日本人研究家・両角恒一(もろずみ つねいち)により「牙山郡誌〔아산군지〕(1929.11)」に編纂され、牙山市の歴史が掘り起こされ、顕忠祠再建へ進んだのが事実だ。

「牙山郡誌〔아산군지〕(あさんぐんし)」韓国語翻訳版「温陽牙山近代史料集」(1929年発行)
韓国の歴史は、日本人の功績を抜きにして語ろうとするので、どうしても非論理的になり、辻褄が合わなくなる。
両角恒一(もろずみ つねいち、1884年 - 1944年)は、長野県出身の教育者。日韓併合時代に朝鮮に渡り、現在の韓国京畿道安城市にある顕忠祠(李舜臣を祀る祠堂)の再建・保存に尽力した人物として知られている。1930年代、借金のために競売にかけられようとしていた顕忠祠の土地と顕忠祠の再建のため、当時朝鮮で教員を務めていた両角恒一が奔走し大規模な募金活動(基金集め)を主導した。1931年に『東亜日報』などと共に「顕忠祠保存会」を組織。両角は日本人でありながら常任理事に就任した。朝鮮全土だけでなく、日本国内や海外に住む朝鮮人にも広く募金を呼びかけた。当時の金額で約1万6000円(現在の価値で数千万円から1億円相当)という巨額の浄財が集まった。これにより、負債を完済して土地を守り抜き、祠堂の再建が行われた。顕忠祠にある「李忠武公遺蹟保存記念碑」の碑文は両角恒一によるものとされる。日本人でありながら、朝鮮の英雄である李舜臣の遺徳を称え、その聖域を守るために多大な貢献をした。彼の功績は戦後意図的に消し去られていたが、近年になって事実が解明されつつあり、日韓の草の根交流の象徴として再評価されている。詳細な歴史的背景は、東亜日報のアーカイブで参照出来る。