朝鮮の稲作は秀吉軍が教えた。

「朝鮮通商事情」(1895年)
〈原文〉(三十二) 朝鮮國內商業ノ概勢
農ハ國ノ大本ナリ」トハ古來東洋諸國ニ行ハル、政教ノ大主義ニシテ、朝鮮モ亦此主義ヲ執テ爲政ノ大方針トナセリ。幸ニ、農業國ノ有様ニテ、既ニ「農ヲ以テ國ノ大本トナスコト」ハ、微々タルモノ、現時ノ國内、農業界ノ有様ヲ見ルニ、其不進歩ナル、實ニ驚クヘキ程ノ者アリ。河ニハ堤防ノ設ケナク、故ニ、霖雨・秋涼、水源降レハ、必ス、水災ヲ免レス。田ニ引水、用水等、灌漑ノ法ナク、故ニ、少シク旱スレハ、即チ、失收ヲ常トス。移苗ノ法ハ豐公征韓ノ當時ニ始マ成リシト云ヒ、農家其利ヲ稱スレトモ其法令今ニ至ルモ全國ニ普遍カラス、而
(三十二) 朝鮮国内の商業の概勢
農業は国の根本(一番大切な基礎)である』という言葉は、古くから東洋の国々で行われてきた、政治と教化における最大の主義(基本理念)であり、朝鮮(李氏朝鮮)もまたこの理念を掲げて、政治を行う上での最大の方針としてきた。(名目上は)幸いにも、農業国の体裁をとっており、すでに『農業を国の大本(根本)とする』という方針は掲げられているものの、その実態は実に微々たる(お粗末な)ものである。現在の朝鮮国内における農業界のありさまを見るに、その進歩の遅さは、実に驚くべきほどのものである。
川には(洪水を防ぐための)堤防が設けられておらず、そのため、長雨(霖雨)や秋の長雨(秋霖・秋涼)によって水源の水の量が増えれば、必ず水害を免れることができない。また、田んぼに水を引くための用水路などの灌漑の仕組み(インフラ)がないため、ひとたび少しでも日照り(干ばつ)になれば、すぐに(お米が実らずに)収穫をすべて失ってしまうことが常態化している。
移苗ノ法(苗を育てて植え替える方法、すなわち田植え法)は、豊公(豊臣秀吉)の征韓(朝鮮出兵)の当時に始まったと言われており、農家はその利益(収穫が増えるなどのメリット)を称賛している。しかしながら、その農法を奨励・管理するような法令や仕組みは、今(明治期)に至るまで全国に広く普及・定着していない。
1. 「移苗ノ法」とは、現代でいう「田植え(採苗・移植栽培)」のことです。それまでの朝鮮半島や東アジアの稲作では、田んぼに直接種をまく「直播(じかまき)法」が主流でした。直播は手間がかからない反面、雑草の処理が非常に難しく、収穫量が安定しないという欠点がありました。一方、苗代(なわしろ)で苗をある程度まで育ててから本田に移し植える「移苗(田植え)」は、雑草との競争に強い(草むしりの労力を劇的に減らせる)単位面積あたりの収穫量が大幅に増える土地の利用効率が上がる(二毛作などが可能になる)などのメリットがある。
2. 「豊公征韓ノ當時ニ始マ成リシ」の背景:豊臣秀吉の軍が朝鮮半島に渡った16世紀末(文禄・慶長の役)(1592年-1598年)、日本の農村ではすでに田植え(移植栽培)の技術や、それに伴う緻密な水管理が広く定着していました。この戦争の時期を境に、日本側の戦闘員や、あるいは日本へ連行された後に帰国した人々などを介して、日本の進んだ農業技術(田植えや、それに使う農具など)が朝鮮半島へ伝播・刺激を与えたという歴史的認識が、明治期の調査(本書『朝鮮通商事情』)において記録されていたことを示しています。
3. 「全國ニ普遍カラス(全国に普及していない)」と言われた理由は、日本の田植え方法は非常に優れた農法であり、農家もその利益(メリット)を認めていましたが、これを行うには「必要な時期に、必要な量の水を田んぼに引けること」(確実な灌漑設備)が絶対条件となります。前の文脈にもあった通り、当時の朝鮮半島では「河川の堤防」や「用水路・ため池(灌漑の法)」の整備が著しく遅れていました。水利施設がない状態で田植えに依存すると、万が一春先に日照り(干ばつ)が起きた際、苗代から田んぼへ植え替えることができず、全滅してしまうリスクがあります。そのため、技術の優秀性を知りつつも、インフラ不足のせいで朝鮮で継続する事が出来無くて元に戻っている。そして全国の農村へ完全に普及させる(普遍化する)ことができなかったという当時の限界を指摘しています。