朝鮮時代の海苔の名称

朝鮮人の商業(1925年/朝鮮総督府) 第七節 特遊物の生遊及取引/411p-412p「海苔」
(原文)海苔:朝鮮に於て現今、海苔の養殖せられて居る区域は、慶尙南道洛東江口から以西、全羅南頭珍島に至る干潟地を主とする。朝鮮苔は価格の點に於て廉く、且つ光澤を多分に有して居るを以て、内地方面に於て多く需要される。移出海苔は大阪市場に大部分送り出され、京都や東京方面にも仕向けられ、更に各地に轉賣される。今より百数十年前には、海苔の製造法も極めて簡單なものであつて、藁簀の上で乾し、陸地方面の山奥に送って穀物と物々交換をして、米や姿の不足を補ふ位に過ぎなかたと云ふことである。内地式の抄製の海苔に改良するやうになったのは極めて近年來のことで、従来は貧弱な製造のため、雑藻や砂石、介殼等の夾雑物が、混って見るに堪へないので、唯、鮮人間の需要に止まつて居たのである。併合前後から廣島や福岡のものが入り込み、原料を買収の上、内地人向に製造せんとしたが失敗に終った。其後當局の獎励に依り次第に改良され、後組合等を組織して製品の検査品位の統一、品質の向上、並に製品の共同販賣を行って居る慮もあり、内地人商人の之を大口に買しめて内地方面へ移送するものや、鮮人商人にして内地の問屋へ賣込んで居るものもある。
(※以下、資料・グラフは猫さんnoteより参考)
朝鮮時代「海苔」は中国の海苔名称「海衣」や「紫菜」が一般的だった。(彼らは中国語を正式な文字としており、公的な文書や、説明は中国語で書き発音しなくてはならない)
16世紀の漢字をどう発音するかハングルとの対比を記した書物「訓蒙字会」には、海苔指す表記は「紫菜」で、読み方はのハングル表記は「자채」とされており、発音は「jachae(ジャチェ)」と発音するとされる。「東国正韻」にも同じように書かれている。他に海苔を指す言葉に「海衣」も使われており、こちらは「haeui(ヘイ)」と読む。また、丁若鏞は 「経世遺表(1817年)」で、通称はヘイ(海衣)と呼んで方言は진(眹)だと呼ぶ。青苔もあるがたいてい類似したもので5~6種もある。と書いている。「진」は「jin」、「眹」は「zhèn」という発音になるという。しかし、これは当て字すると「朕」になり不敬になるので、19世紀初めごろに「짐」の仮借語である「진」に置き換えている。この発音に対する当て字として「眹」としていたが、これが次第に「jin」という発音に変わってきた。その他、19世紀の頃だと俗称として「gim(ギム)」というのがあり、これは海苔全般を指すとのこと。ただし、「김」ではなく「・김」。この左の「・」はアレアと呼ばれるもので、「김」と「・김」は発音の高低が違う。意味は「薄くぺらぺらした細長い物」を指し、海苔・雑草・紙・布などにも使われる。この「・김(ぺらぺらなもの)」が海苔に対しても使われていたが、俗名として史料に出てくるのは19世紀初め頃だ。
『茲山魚譜」(1814)には、海苔の藻名は中国式に『紫菜』で、俗名が「・김(gim)」とするとある。また、「海苔を紙片の上で成形したものを俗に「海衣」と謂ふ」 書かれており、つまり「海衣」とは、「紙の上で貝や石を取り除いて紙の上で広げた」状態の「食品」の事(そして、そのような成形をする前の乾燥海苔の事はそう呼んでいないということでもある)。
「紫菜」は発音が「zhèn」から「jim」にと変わっていく。(ハングルが出来てからなので、早くても15世紀以降)
19世紀初頭「진、짐(眹)」は不敬になるので、「진」とし、発音が「jim」から「jin」になる。
「・김(gim)」は20世紀になってアレア(「・」)を省略され「gim」から「kim」に変化する。
料理食材名としては「海衣」が上の画像の総督府資料が記録している紙などの上に広げた薄くした状態、「沈菜」が塩漬けした海苔の漬物
つまり「・김」というのは、元々この文字は海苔だけを指す語彙ではなく、「ヒラヒラしたもの」を広く指す文字である。海苔を「キム」と読む今の韓国は、方言名称、それも一般的ではない方の名称(日本的に言えば「ぴらぴらしたやつ」という呼び方をしていたという事である)が歪んできた名称「アレア(「・」)を省略された名称」を、正式名称として呼んでいるのである。「韓仏字典」(1880年)にはこの「・김」と「진」の両方が掲載されている。1920年の朝鮮総督府が発刊している「朝鮮語辞典」でも、「海苔」は「진(kim)」ではなく「・김(gim)」と記載されている。

朝鮮総督府「朝鮮語辞典」1920年
朝鮮半島の海苔食の歴史
朝鮮半島で海苔を食べられていた記録で一番古いのは、高麗時代の高麗史 (1217年) や三國史記 (1145年) の記載だ。『世宗実録地理志』(1454年)には海衣(海苔)が各海岸地方の特産品として記録されており、『朝鮮王朝実録』には明の朝貢などとして献上した記録がある。『孝宗実録』(1650年)の当時、海苔1袋の値段が木綿20反と記録されているようであるが、具体的にどれぐらいかは難しいのだが「とても高級品だった」という事は判る。
対して日本は、海苔が文献で出てくるのは奈良時代「万葉集(8世紀)」で、「海苔は、海藻の一種なり。味甘く、寒に食す」というのもあるように、日本では古くから食されていた食材である。文字として初めて登場したのは奈良時代に編纂された「常陸風土記」で、ここには「古老の曰へらく、倭武の天皇 海辺に巡り幸して乗浜に行き至りましき。時に浜浦の上に多に海苔〔俗(くにひと)、乃理(のり)と云ふ〕を乾せりき。」とあり、関東平野に深く入り込んだ霞ヶ浦を訪れたヤマトタケルが浜辺一面に海苔が干してある風景を見たとの記述がある。つまり、日本では昔から「海苔」の事は「のり」と読んでいるのである。「紫菜」という名称は中国から来ているが、これは「あまのり」の事を指している。「あまのり」という名称は「紫菜」という呼称より前からある。701年には日本で最初の成文憲法である「大宝律令」の賦役令に、大和朝廷への税金の一つとして「紫菜(むらさきのり)」が他の海藻類とともに登場している。約30種類もの海産物が挙げられている中でも海苔は高級品とされていた。(寿司、雲丹なども献上されている)

「大宝律令」に定める海産物の調
その後も、平安中期の律令の施行細則「延喜式(927年)」には、公式の宴会や、諸節句の食材として「紫菜」が汁物などに使われていたり佃煮にされていた事も記されている。
このように日本では歴史が古くから、また歴史に連続性も持ちながら記録があるのだ。
古事記や日本書紀にも、海苔が貢物として朝廷に献上されていたことが記されている。
逆に朝鮮の海苔の歴史は連続性が全く無い。記録も極僅かである。今の韓国で流れる俗説と、資料に残っている記録はまるで違う。
実は、養殖はほとんどされていないことは、一番上の画像の1890年時の日本の朝鮮半島における水産業視察によっても判っているし、下の画像の史料でも「岩海苔(天然海苔)を手摘みしていた」事は書かれているが、基本的に自然岩に生する甘海苔の手摘みのみだ。

「朝鮮通漁事情」1890年
「岩石に生する天然岩海苔を採っている」と書かれている。記録には「浅草海苔如き形状」とあるが、これは形状の話。乾燥品や加工品(板海苔)ではなく、乾燥した形態はハバノリのようなものだろう。

乾燥ハバノリ
ようするに一番上の画像に記録されているように、韓国での海苔とは、「百数十年前からの朝鮮時代の貧弱な製造法で藁簀の上で海苔をただ乾かしただけで、貝や砂利、他の海藻なども混ざり込んだ粗雑なものだった。」これが正解である。日韓併合前から広島や福岡の日本人が材料買い付けに朝鮮半島を訪れ、製造法を教えようとしたがこれはなかなか上手くいかず、朝鮮総督府主導による指導で朝鮮人に日本式の抄造法(紙漉きを応用した製造方法)を教え、今の『板海苔』が出来た事が書かれている。
1935年の朝鮮総督府の資料には、今の板海苔の日本式の抄造法(紙漉きを応用した製造方法)は数十年前からのもので、朝鮮在来の製品は極めて粗悪だったが、朝鮮総督府と民間の努力により改善された事が記録されている。「数十年前」というのは「日韓併合前から来ていた日本人」という一番上の画像「朝鮮人の商業(1925年)」の内容とも整合が取れる。


「朝鮮総督府調査資料 第19輯」「朝鮮の物産」「海苔」(697p)
朝鮮半島の乾燥方法も「当時の製造法は幼稚粗雑なもので穴だらけで網の様な海苔であった」と記録している。これが恐らく「キムクイ」のことだと思われる。

朝鮮の正月料理を紹介する本「栄養と料理」(1941年)
「岩海苔の貝や石を取り除き、紙の上に重ねて平らに置きます。刷毛にて「胡麻油」を塗り、その上に塩を少々振りかけ、又、下の海苔に油を塗り塩をふる。これを火にかざして焼き、形を揃えて切る。皿に載せ中央に爪楊枝を刺し、飛び散らないように食べます」と「岩海苔」としっかり書かれてる。養殖品ではない。
1700年前後に書かれた「星湖僿說」にも「岩に自然に生えている海衣(海苔)を薄く乾燥させる過程」が書かれている。
このことは1908年の朝鮮総督府農商工部「韓国水産誌」にも同様の文章が有る。

朝鮮総督府農商工部「韓国水産誌」(1908年)
左ページ9行目より「最初は乾燥させてすぐ食べるだけだったが、次第に藁簀(わらす)で漉製するようになった」と書かれている。それ以前の乾燥のみの製法から、藁の簀(す)の上に海苔を広げて、不純物を取り除く方法だと思われる。
「孝宗実録」(1650年)には「海苔1袋の値段が木綿20反」と記録されており、単位は「枚」ではなく「袋」単位とあるように、この当時はシート状ではなくバラ海苔だったのである。つまり、「藁簀で漉製」が18世紀からというので、整合が取れる。
朝鮮通信使・申維翰が記録した「海游録」には18世紀初頭にこの朝鮮通信使が頻繁に宿を出て住人達に漁業や産業について聞いて回っていた事が記録にあるので、取り敢えず真似て広げて乾燥してみたのかもしれない。
日本で板海苔誕生の時期については諸説あるが、1684年頃とされている。しかし板海苔を作るには刻む必要がある。ただ広げるだけでは駄目なのだ。
「洌陽歲時記(1819年)」や「東国歲時記(1849年)」に「"正月に海苔とジュンサイでご飯を包んで食べる風習"が記録されている」とあるが、ジュンサイではご飯は包めないので「海苔を巻いて食べる」ではなく「水に戻した海苔とジュンサイを刻んだものをご飯の上に乗せ、それを纏めて食べる」という意味だと思われる。

洌陽歲時記(1819年)

「東国歲時記(1849年)」
当時記録した文献によると朝鮮半島で海藻として一番食されてたのは「布海苔」である。その次が「テングサ」だった。日本でも古くからあるが、食用としてより工芸品とされる。3番目が「ワカメ」だった。ただワカメの養殖は戦後の1960年代後半から1970年代初頭にかけて、日本の養殖技術の導入と指導によるもので、日帝時代は天然ワカメのみのため、それほど多くは流通されていなかった。いずれにしろ、当時の朝鮮人は海藻類は殆ど食べてなかったことが記録で分かる。

朝鮮通漁事情(1890年)/ 関沢明清, 竹中邦香 編
1902年の『韓国漁業視察復命書』は朝鮮半島の漁業を視察した記録だが、海苔の養殖は見当たらなかった事が書かれている。

韓国漁業視察復命書(1902年)/ 香川県水産試験場
朝鮮人は養殖自体を知らず、それを教えるのは双方の利になるだろうと記載されている。様々な地域を見ても、海苔の養殖をしている様子は見られず、岩海苔(天然の海苔)を手摘みしていたとある。これは1890年『朝鮮通漁事情』にも「天然岩海苔」の手摘みであった事は書かれているので整合が取れている。
更に色々調査すると1か所だけ海苔を養殖している地域を見つけている。1903年「韓海通漁指針」で河東江(光陽郡)においてのみは一本ヒビによる海苔養殖をしていた事が書かれている。ここ以外では天然海苔の採取だった事も記録されている。
ちなみに、朝鮮総督府でこれら様々な調査をしたのは朝鮮人である。

「韓海通漁指針」(1903年)/ 葛生修亮 著
日本では1584頃に安芸国(広島県)で海苔ヒビが建てられたことが記録されている。また、1675年に、品川で捕魚用または生魚蓄養用のヒビソダに着生した海苔にヒントを得てノリ用の木ヒビを建てられた事も記録にある。日本の海苔養殖は、韓国と違って細かく記録されている。
日本統治時代の海苔養殖の発展


日帝時代の乾海苔の生産量が飛び抜けてるのが分かる。
乾海苔は1913年になって初めて統計に出てくる。
朝鮮総督府は「朝鮮半島に合う養殖は何か」を探るため、様々な水産物の養殖を行った。その中で成功したるのが「甘海苔」と「牡蠣」であった。
朝鮮総督府は海苔養殖について日本本土と協力し、昭和3年頃(1928年)には、当時の朝鮮総督府水産試験場主任技師「富士川きよし」と全羅南道水試技師「金子政之助氏」が『浮きヒビ養殖法』を開発して生産量を飛躍的に伸ばした(韓国では「浮きヒビ」については書いているが、朝鮮総督府や開発した2人の事は伏せている)。「浮きヒビ養殖法」は当時日本だった朝鮮半島の水産試験場で朝鮮総督府によって創案され、東京の水産試験場で実用試験を行い採用された技術である。どちらも日本人の努力による開発だったが朝鮮人は日本人の功績だけ消している。日本統治時代における甘海苔養殖の最大収穫量は、朝鮮時代の自然甘海苔も含めた収穫量の100倍である。養殖甘海苔だけを考えれば500倍以上となる。富士川漻(ふじかわ きよし)は、韓国海苔の生産向上に貢献したとして1941年、朝鮮文化功労賞が授与された。現地朝鮮人もこの功績に感謝して、忠清南道瑞山郡安眠島中場里大也島の海辺に記念碑を建立した。しかしながらこの記念碑は現在は破壊されいる。
ちなみに、富士川きよしは終戦後も1953年まで、駐留米軍の要請で韓国に残り海苔養殖の指導を行い帰国する。まさに、韓国に今の海苔養殖があるのは富士川のお陰様なのである。
戦後も1954年に採苗法試験が成功し、韓国にもこれの技術移転と指導が行われた。
最後に、17世紀の公的な記録に、金汝翼(キム・ヨイク)の名前や功績は記録に無い。「創作された人物」である。