"日帝残在清算(清算), ハングルも放逐するか"題目の日本産経新聞記事を簡単に紹介します
朝鮮時代ハングルは存在したが両班たちはハングルをぞんざいに取り扱って使わなかった 1910年韓国と併合後日本は眠っていた
ハングルを見つけて韓国の子供たちに電波(伝播)した日本統治時期に日本の漢字と 仮名文字がまじた文と
同じく韓国にも漢字とハングルのまじた文が勧奨されたただ漢字だけが 日帝残在というのではない韓国の漢字
熟語は中国 起源ではなく日本統治時期に日本から持って来たことだ 1948年李承晩大統領はハングル専用法を制定
したが漢字使用を日本の影響の下にあることにして大韓民国公文書ではハングルで書くということだった最初に朝鮮に
存在したハングルは両班たちから劣等文字河川した人が書く文字でおちゃらかされた当時韓半島には本を大量で
作る印刷所もオブゴゼボンソもなかったから最初のハングル教科書は東京で作った
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産経新聞は嘘で嫌韓を先導しています去る掲示物でこの記事を紹介しながら駁する文を書いた中に用量超過にかかって準備した
資料をすべてあげることができなかった惜しさがありました今度文はハングルの歴史に集中して文を書きます
1,ハングルの創製と大衆化の努力
1443年世宗(世宗)は子音 17字 ,集め 11字で文字を体系化した訓民正音を創製して 1446年に頒布しました 1445年には権制(権) 鄭インジ
(鄭麟趾) 分かってから(安止)など学者たちが朝鮮の建国を正当化してほめたたえる内容の 竜飛御天歌を編纂しました
竜飛御天歌は訓民正音頒布以前に編纂された唯一のハングルの本や木版本 10冊 5本皆 125枚の 敍事詩に編纂されて 1447年に刊行されました
1446年ハングル頒布後先に 仏経をハングルで編纂して民たちが 仏経を易しく接することができるようにしました最初ハングル (漢字とハングル併用)の活字本は 1447年に
印刷した月印千江之曲(月印千江之曲)です

首陽大君 (後日の 世祖)は世宗の王命で王妃 昭憲王后の冥福を祈るために釈迦の一代記を描いたソックボサングゾル(釈譜詳節)を編纂したし
世宗は 釈譜祥節を土台で 月印千江之曲を作りました
1459年には 世祖は 月印千江之曲と 釈譜詳節を合わせてワルインソックボ (月印釈譜)をハングルで編纂して民たちが 仏経を易しく接することができるようにしました
仏経 外に儒教徳目の 三綱行実図はハングルに翻訳されて何回刊行されました
三綱行実図は 1434年 (世宗16年)に王命で集賢殿学者 循 などが中国や朝鮮の書籍で模範になるに値する君臣夫婦 夫子 などの事例を
集めて刊行したが 成宗(在位 1457年‾1494年)時に漢文が分からない民たちのためにハングル解釈をつけました
1514年 (中宗9年) 学者 申用漑が王命で 三綱行実図の続編で 続三綱行実図を編纂します続編には親孝行 36人忠臣 6人烈女 12名医
事例を追加したし事例に対する挿し絵を入れて理解を助けました
こんな努力によって 16世紀以後ハングルが民間に広がっていたことが分かります慶北安東で ,死亡した夫 (李応台1556年‾1586年)を懐かしくて
しながら書いたハングルの手紙が出土されたし
1670年女性がハングルで書いた料理で<飲食旨味方>があります慶北安東で生まれて移施人(李時明)と婚姻して慶北栄養で婚家に入った 張桂香は
1670年 75歳になった日嫁女と娘たちに古くから伝えて来る食べ物料理法を譲るため <飲食旨味方>を著わしたと言います

壬辰の乱の時に日本に引かれて行った 朝鮮人 陶工の作品に推定される湯飲みがあります<ハングル墨書茶>と呼ばれる湯飲み(またはどんぶり)には慶尚道
なまりで使ったハングルが書かれています標準語で訳せば
犬はほえるな夜に通うとすべて泥棒ではないあの近く 朝鮮人いらっしゃる所に行って来るでしょうその開度朝鮮の犬だね聞いてひそかする
2. 朝鮮時代ハングルの公文書

1593年 9月壬辰の乱当時 宣祖 (在位 1567年‾1608年)が民に下った国文油で(国文諭書)があるのに皆ハングルで書いたことです
当時両班たちは手紙を書く時その手紙を受ける相手が漢文を読めれば漢文で使って漢文を読むことができなければハングルで書いていたことを
多くの事例で分かりますまた国で民に知らせる公文書や張り紙を付ける時ハングルでも書いたが 宣祖の 国文諭書は 宣祖が
直接ハングルで書いたと言います内容は次の通りです
( 賃金が言うのを君逹が初めに倭軍に虜につかまって倭軍を導いて通うことは本心ではなく (逃げて) 出てからばれて倭軍につかまって
たまらないか思ったり返って疑うのを倭軍に属していたので国でおかゆだろう恐ろしくて出ることができないことだ
これから君逹は疑わずにお互いに勧めて皆出れば君たちはことさら罪を問わないのみならず, その中に 倭を取って出るとか, 倭加える言葉を
詳らかに分かって出るとか(倭軍に) つかまった人々をたくさん連れて出るとかどんな球があれば良民賎民は勿論で官職を与えるでしょう
生心(生心)や前に食べた心を食べずに早く出いこの意味を各所 将帥に知らせたから生心も疑わずに早く出い君たちの中にまさか
皆親と妻子のいない人のいるか君逹が住んだ所に帰って来て昔のように暮せば良くないのか
もうすぐ出なければ倭軍に死ぬはずで国が平定された後には君たちも悔やまないかまして 明国軍事は黄海道平安道に一杯だったし
(倭軍は )慶尚道全羅道に一杯にあって 倭が早く自分たちの地に渡らなければこの頃に (明国軍事と朝鮮の軍事)がハブビョングハヨブサン東莱に
ある 倭らを攻撃してだけでなく江南(明国)の 船と朝鮮の 船を合わせてすぐ 倭国に入って粉湯するでしょう
あの時になれば君たちさえ荒されて死ぬはずだから君逹がお互いに知らせてその前に楽に出い )
3 朝鮮時代ハングル文学
ハングル頒布後既得権でハングルを反対する声が高かったが一部若い 新進 士大夫らは世宗を手伝ってハングル研究に努力しました 仏経をハングルで
翻訳したし新羅の郷歌高麗時代の 歌謡 など 古代文学をハングルで翻訳して刊行しました両班たちが書いたハングル小説も流行ったが例えば 許〓
(1569年‾1618年)の 洪吉童伝 ,金万重(1637年‾1692年)の 九雲夢, 謝氏南征記 などあります

李滉(李滉 1502年‾1571年))が使った 陶山十二曲です
解釈すれば >青山はどんな理由で 万古にプルロであり , 流水はどんな理由で 昼夜に止めないか, 私たちも止まずに 万古常青しよう
李滉は朝鮮時代代表性理学学者です彼は詩調(詩調)を楽しんで書いたがあの詩調の文章はハングル漢文がまじた文章です朝鮮時代両班たちは
漢文が分からない人々を相対するためにハングルを使ったりしたが両班たち自ら楽しんで勉強するためにハングルを使っていたということが
分かります時調をハングルで書いて歌いながら楽しんだがこれを 時調唱と言って現在まで伝えて来ています
4 ,大韓帝国印刷所と新聞教科書編纂
1)教科書刊行
1883年博文局(博文局)が設立されて漢城旬報(漢城旬報)が発刊されます 1894年ハングルは公式的に国文になりました最初の近代的教科書は
1895年 <学部編集局>で刊行されました
2) ハングル新聞

1896年 4月 7日ソ・ジェピル(徐載弼)が中心になってハングルの独立新聞が発刊されました独立新聞創刊社には "この新聞を皆言文で男女上下
貴賎がすべて読むようにするためのことで句節をはなして使うことは分かりやすくするためのことだ" と明らかにしましたしかし 1899年ペガンドエブニだ
5 統監府時代 語文 政策
私たちが統監府時代はよく取り上げないのに 日帝の<朝鮮語抹殺政策>は実は統監府時代から始まりました 1905年 11月乙巳條約で大韓帝国の外交権を奪った 日帝は 1906年ソウルに統監府を設置して政治外交経済 語文政策まで掌握し始めました

1908年中等学校 理科書 教科書,この教科書ははじめから最後まで日本語で日本東京の <大日本図書株式会社>で印刷しました統監府の 語文
政策で代表的なことは教科書に日本語比重を大幅にふやすのです
大韓帝国の初期 純ハングルの 語文 政策を覆して日本語のように漢字とかな文字を交ぜた言語政策をしようとする意図と考えられますもう統監府時代
から日本語教科書が出版されていたことはこの当時から <朝鮮語抹殺>政策が始まっていたという証拠になりますハングル教科書ではなくて
日本語教科書を日本で印刷していたことです
6.大韓帝国 <国文研究所 >設立>
1907年 7月 8日大韓帝国学部中に<国文研究所>が設立されました設立目的は共同研究による <統一された国語綴字法>を制定するための
のでした
<国文研究所>の委員は, 李能和(李能和) オユンゾック(魚允迪) 周時経 (周時経) 池錫永(池錫永) 松肌用(宋綺用) イミンウング(李敏応) ユンドング(尹敦求) 権補償
(権輔相)などで構成されました委員たちは国語綴字法制定のために 1907年 9月 16日初会議を開いたし以後総23回会議を開いたがその最終
会議は 1909年 12月 27日にありました
1907年から 1909年まで約3年間国文の根源 文体及 発音沿革など 10個問題を研究して 1909年 12月 27日最終会議で<国文研究議定安>
を作成しました 1909年 12月 28日 <国文研究議定案>を 学部大臣に提出して採択されたが 1910年併合で施行されなかったです
1907年から 1909年まで <,国文研究所 >委員たちが研究して作成した <国文研究 議正案>で形態素(形態素)の基本形を明らかにして固定して
使う形態音素的(形態音素的)表記をもう用意しました
ハングルは文字一つが独立された 音を持った表音文字なのに文法では最小単位の意味を持った単語の元々形態 (形態素)の表記と発音が一致するの
ない場合が多いですこの場合形態素の意味を明らかにさせるために形態素の基本形を明らかにして固定して使う綴字法によるのです

1923年初等学校の旧称朝鮮語教科書赤い竝び (花が被告) 当時発音どおり書いた文章みたいです
例えば "花が被告"で花は自立形態素です形態素の "花" 後へ来る <集め 助詞> "が"と結合して (花が) と表記するのに実際発音は
(串)と発音します
ハングルの特徴は差すことがある単語の場合単語の後に付いて来る 助詞 接尾辞など環境によって差すことが脱落して単語の発音が変わります
すなわち名詞 +助詞 (花が)で花の ()差すことが脱落して (串)と発音するようになります形態素 (花)の意味を明らかにさせるために形態素 (花)を固定して
使うことですすなわち単語の元々形態 (形態素)を固定して書く 形態音素的 表記です
7.総督府が制定した初等学校の旧称用言文 (ハングル )つづり方
併合後総督府学務国は初等学校の旧称で使う朝鮮語教科書を編纂するために 8人の委員たちを先任するのに委員は日本人委員 4人
国分象太郎 ,塩川太郎 ,新庄順貞, 高橋亨,韓国人委員 4人強化席(姜華錫 )オユンゾック( 魚允迪) 兪吉濬(兪吉濬 ) 玄銀(玄隠 )で構成されます
1911年 7月から 11月まで 5回にわたって会議をして 1912年 4月 <初等学校の旧称用言文つづり方>を公布しました 1909年大韓帝国当時
<国文研究所> 委員たちが形態素の基本形を明らかにして固定して書く 形態音素的 表記を支持する <国文研究議定案>を作成して 学部大臣に
提出して採択されたんですが 1910年併合で施行されなかったです
朝鮮総督府は大韓帝国 <国文研究所>委員たちが研究して作成した <国文研究議定案>を覆して形態素をいかさないで音がする発音どおり
表記する表音株の(表音主義) 文字を採択して <初等学校の旧称用言文つづり方>を制定しました 総督府が制定した <初等学校の旧称用言文つづり方>
は 15世紀ハングルに近くて大韓帝国<国文研究所>委員たちが作成した<,国文研究議定案>よりもっと退歩したことでした
1911年総督府の学務国会議に参加した 魚允迪が総督府の反対を押し切って形態素の基本形を明らかにして固定して書く形態素表記を
貫徹させたが総督府はこれを覆して音がする発音どおり表記する表音株の文字を採択して <初等学校の旧称用言文つづり方>で公布しました
それとともに総督府は調査嘱託院に命じて <初等学校の旧称用言文つづり方>が決まったと嘘で説明しました
8 ハングルの普及か保存か破壊か
朝鮮総督府は 1911年 10月 <初等学校の旧称規則>で各年生の修業時間 26‾27時間の中に国語(日本語)は 10時間 <朝鮮語及び漢文>は 5時間で
制限します朝鮮語授業をこの位割当した理由は子供達がまだ朝鮮語を母国語で使っている状況で日本語が普及されなくて
朝鮮語を完全に排除して授業を進行することができないから用意したゴユックチェックでした
朝鮮総督府が制定した <初等学校の旧称用言文つづり方>は形態素をいかさないで音がする発音どおり書くことなのにこの綴字法を制定した理由は日本人が
朝鮮語を易しく学ぶようにするためのことだという主張があります朝鮮語を発音どおり表記すれば日本人が短い期間に朝鮮語をもっと易しく学ぶこと
あるというのです
が主張の根拠は一応 1910年当時韓国人たちの日本語解得率は 0,8%に過ぎなかったから総督府の日本人役人たちは朝鮮民衆を效率的に
統治して管理するために朝鮮語を学ばなければならない必要がありましたこんな必要によって総督府は 1918年朝鮮語奨励政策で<朝鮮試験規則>を
公布します受験者は日本人警察官教師憲兵など総督府の日本人役人たちだったし合格者は試験点数によって昇進や手当てを受ける数
ことがありました
1917年から 1925年の間に刊行された <朝鮮語法及会話書>は総督府で発行したことで執筆者は 奥山仙三 という 設があります 1917年刊行された
<朝鮮語法及会話書>では付録の方に<初等学校の旧称言文つづり方>が収録されていて 1925年朝鮮総督府でまた編纂した本には <初等学校の旧称言文つづり方>
が削除されたと言います
朝鮮語を研究した日本人学者の中にオクラ新ペイ(小倉進平)があります彼は総督府学務国に勤めたし言文つづり方作業にも参加しました
総督府の支援で朝鮮語を研究したし 1920年には <朝鮮語学士>を発刊しました朝鮮語を研究した成果は認めるがハングルの普及とは距離(通り)が
あります現在も満洲語イイヌゾック言語など少数民族の言語と文字を研究した学者たちがあるが大衆化にならない言語と文字は博物館に展示された
遺物のようです
9 . 言文つづり方改訂論議
1910年から 1919年まで 日帝 無断統治酸っぱいことにこの時期は日本警察憲兵が動員されて 武力で弾圧した時期です朝鮮人の出版言論集会
自由権が剥奪されていました 1919年 3.1運動以後 日帝は 武力や弾圧で朝鮮人を統治することには限界があると判断して表面積に
朝鮮人の出版自由と朝鮮語教育を許容しますが 日帝の植民地政策を批判しない範囲中で許容することでした
1912年 <初等学校の旧称用言文つづり方>制定以後 <言文つづり方>に対する改訂論議があって 1921年 3月 <初等学校の旧称用言文つづり方 大要>で言文
つづり方改訂を公布します
10 朝鮮語研究会設立

周時経
1)朝鮮語研究会設立目的
1921年 12月 3日学校で朝鮮語を教えた周時経(周時経)の弟子たちは総督府の <言文つづり方>が文法に当たらないと批判して朝鮮語
研究のための <朝鮮語研究会>を設立します,朝鮮語研究会>は 1926年訓民正音頒布 480周年を迎えて訓民正音反ホイルを <がギャナル>
またはハングルの日(1928年)で名付けました 1927年同人誌に (ハングル)を発表してハングル啓蒙巡回講演会を開いてハングル普及に努力しました
2).言文つづり方改訂
ところで 1921年 3月 <言文つづり方 >改訂が公布された以後 10年近く改定された<言文つづり方>に対して教育界と社会で問題を申し立てて総督府
学務国では再び<言文つづり方>改訂のために専門家たちを構成しました
1次調査回は 1928年 9月 ‾1929年1月まで開かれたし ,縛繩も(朴勝斗) 朴迎賓(朴永斌) シムウィリン(沈宜麟) 李洗浄(李世〓)など委員たちに構成されて下書きを
作成しました
2次調査回では 1929年 5月‾7月まで開かれたが ,韓国人委員はグォンドックギュ(権悳〓) 金商会(金尚会) 申明均(申明均) シムウィリン(沈宜麟) 李洗浄(李世〓)
イワンウング(李完応) チャン・ジヨン(張志映) ゾングヨルモ(鄭烈模) 崔磯培(崔鉉培)で構成されたし
,日本人委員は小倉(小倉進平) 高橋(高橋亨) 田中(田中徳太郎) ニシムだと(西村真太郎) 藤波(藤波義貞)など委員で構成されて最終
審議を経って <言文つづり方>が確定されました教育界と社会で統一されたハングル綴字法のために <初等学校の旧称用>という冠形語を削除しました
2次の調査会議でチャン・ジヨン(張志映) グォンドックギュ(権悳〓) 崔磯培(崔鉉培) など周時経(周時経) 門下の委員たちが会議に参加して積極活動して形態素
表記が広く導入しましたこの時綴字法は総督府の学務国第3回つづり方またはつづり方の第2回改訂だと言いながら改定された綴字法は 1930年代
1930年代から 教科書に採択されました
3) ハングル辞書編纂の努力
,朝鮮語研究会>はハングル辞書編纂のために 1930年 12月 <ハングル綴字法通一案>を制定することに決意します 1931年<朝鮮語研究会>は <朝鮮語学会>
で改編して積極的に <ハングル辞書編纂>を推進します
1933年 10月 <ハングル綴字法通一案> 1936年 <朝鮮語標準語 査定岸> 1940年には <外来語表記法統一案>を発表します
が時に世宗のハングル創製当時 28字 の中に子音 3字 ,集め1字は除かれたが形態音素的(形態音素的 )表記はいかしました現在北朝鮮と韓国が
ハングル綴字法がほとんど同じな理由はこの当時ハングル学者たちの努力があったから可能だったことです
1940年総督府に <朝鮮語大辞典>の出版許可を受けて 1942年原稿を出版社に越して刊行する予定だったが <朝鮮語学会事件>で辞書出版
編纂は腰砕けになったし原稿と書籍は総督府に押収されました
11.朝鮮総督府の 語文政策
1910年当時韓国人全体で日本語解得率は 0.8%に過ぎなかったから総督府の日本人役人たちは朝鮮語を学ばなければならない必要がありました
朝鮮総督府は植民地支配を效率的にするために朝鮮民衆を統治して管理するのに容易いように日本人警察教師憲兵など日本人役人たちに
朝鮮語を学ぶように奨励したが 1918年 <朝鮮語試験規則>を公布します
1925年以後< 朝鮮語奨励試験>で受験者職業別合格者を見れば 1925年 8月 1.242人(3種), 1926年 2月 75人(3種) ,1927年 6月 1.219人(3種)
であり合格者は教師警察官憲兵など制限的職業を持った日本人だったし人々合格者は試験点数に注いでよって昇進や手当てを受ける数
ありました
1935年朝鮮総督府の資料 <朝鮮国勢調査報告>によれば 1930年当時朝鮮に居住する日本人 527.016人の中に日本語の 仮名文字とハングルを
読んで書くことができる人は 32.714人で 6.2%でしたこれは総督府が実施した朝鮮語奨励政策の成果と言えます

1917年‾1925年総督府が編纂した <朝鮮語法及会話書>は朝鮮に居住する日本人公務員のための朝鮮語学習書なのにこの本には ,現代朝鮮語は
京城語をよく熟知すれば地域方言をよく理解することができてと付け加えて説明したし巻頭では朝鮮語を学ぶ要領が出ています
1.暗誦に力をつくしなさい 2, 文法を慣らしなさい 3, 応用することにすぐれること 4, 発音を正確にさせなければならない 5. 該当の国民と接触しなさい 6, 該当の国民の風習が
分からなければならないと書いていると言います
該当の国民と接触しなさい該当の国民の風習が分からなければならないと指摘しているのにこれは単純に朝鮮語を学ぶことに止めないで朝鮮人の
日常生活を把握することを目標にしていたということが分かります
併合後日本人役人たちのための朝鮮語奨励政策で実施された <朝鮮語試験>は 1930年代に縮まって行ったし 1943年に廃止されます日本人を対象で
する <朝鮮語学習書> <朝鮮語試験> など総督府の朝鮮語奨励政策を根拠で日本のヒックザドルは日本が朝鮮にハングルを普及したと主張するのに
事実は総督府が被支配朝鮮民衆を見張って統制するために仮初めで日本人役人たちに朝鮮語を学ぶように強要したのです
1938年学校での朝鮮語科目廃止 ,1940年 8月朝鮮日報東亜日報など民間のハングル新聞廃刊で 日帝の意図が分かります
1938年朝鮮語科目は選択科目になったが廃止されたと言う理由は試験科目で朝鮮語科目は除かれたから廃止されたと
することです 1945年以前までハングル新聞があったと主張する日本人のいるのにそれは総督府機関紙 <毎日新報>です
総督府の統計資料によると 1929年‾1939年頃韓国人たちのハングル新聞購読率は世帯当り 3‾5%水準で日本語新聞購読率は 1‾2%のに
当時韓国人の日本語解得率は 1940年には 15% 1943年には 22%に過ぎなかったです1943年台湾の日本語解得率 62%に比べれば半分にも
及ぶことができませんあれほど韓国人たちの日本に対する抵抗感が高かったしハングル学者たちのハングル普及に対する努力があったから1945年以前まで
ハングルを守ることができました
韓国人の日本語解得率や日本語の新聞購読率がこんなに低い状況で総督府は植民地支配を正当化して親日世論を形成するため
総督府機関紙のハングル新聞 <毎日新報>だけ残しておきました
12 朝鮮語科目廃止とハングル新聞廃刊
ところで 日帝は日中戦争を準備しながら 1936年には <朝鮮思想犯保護観察令>を公布します 1938年ハングル普及運動を朝鮮の独立運動で
見て朝鮮語教育を段階的に廃止します学校で朝鮮語科目は選択と首になるのに事実上廃止です
1941年から朝鮮語教科書はこれ以上刊行されなかったです

ここで大邱公立高等女初等学校の旧称女学生の日記帳をよく見ましょう
6月 11日 - 校長の訓話 : 一国国民の中 内鮮差別があって日本語を常用しないことは良いことではない校内ではもちろん郊外学校や
家庭でも日本語を常用しなさい
7月 6日 -勇猛な軍人おじさんたちは国のために死ぬことができるということが分かりながらも行く軍人おじさんたちが無事を祈って日本帝国の国旗を振って
奉祝こんにちはだった
11月 20日 -何をしても心が安定しないです
13 朝鮮語学会事件
1940年ハングルの新聞 ,朝鮮日報東亜日報などが廃刊されました 日帝の朝鮮通読部は 1941年に <朝鮮思想犯予防拘禁領>を公布しました
こんな状況で <朝鮮語学会>は 1942年 4月朝鮮語辞書を急いで編纂してその一部を 大東出版社に越して印刷するようにしました
<朝鮮語学会>の辞書の編纂などハングル普及運動が続くと 日帝は当時ソウルで辞書編纂をしていたチョン・テジン(丁泰鎭)を逮捕して
<朝鮮語学会>が独立運動を目的にする団体と減らず口自白を受けて 1943年 4月 1日まで <朝鮮語学会>と係わる 33人を皆治安維持法
違反で逮捕したしこの中に 16人を起訴して咸興刑務所に収監しました

日帝の残酷な 拷問に獄死した . イ・ユンゼ(李允宰) . ハンジング(韓澄)
咸興刑務所に収監された 16人の中にイ・ユンゼ(李允宰)とハンジング(韓澄)は残酷な 拷問に獄死したしチャン・ジヨン(張志暎) ゾングヨルモ(鄭熱模)は釈放されて裁判を受けた
人は 12人でした裁判結果イ・グックロ(李克魯)は懲役 6年, 崔磯培(崔鉉培)は懲役 4年 ,李煕昇(李煕昇)は懲役 2年 6ヶ月その外懲役 2年 (2人) ,
懲役 2年執行猶予 3年 (6人), 無罪は 1人などです
1940年韓国人の初等学校の旧称入学率は 32%にとどまっていて入学率は低い方だが続いて入学率が 40P% ますます増加したら日本語を駆使する
人々はずっと増加して社会指導層になりますそれでは韓国語やハングルは現在満洲語アイヌ族言語のような少数民族の言語と文字のような
世話になったはずです
が状況を当時韓国人たちはどんなに感じていたのか東亜日報 1924年 5月 26日新聞記事を読んで見ましょう
朝鮮語の将来はこれが 現今 朝鮮人知識階級でする資料の一つで外国人が注目して見るところの一つだ
どんな民族を問わずその民族を代表する固有言語と文字が多数口に上がって筆に使われるほどその民族は進歩されたことで開発された表徴です
前者に口に上がるとか筆に使う人が少なくなるほどその言語と文字を所有した民族はそれほど衰弱するはずで地位が低いことだ
前者 すなわち固有言語と文字が多数口に上がるとか筆で使うことが極端的にとても消えればその民族は滅亡することはものを言う必要がない
往古と 現今が明らかにして証明するところだ私はこのような見地で私たちの社会を見る時戦慄を悟ることができない私は 去月二十五日に学生を見るため
京城農業学校へ行った事があって電車の中でもどの労動者たちが日本語でしゃべることを見た私は彼らを軽んずるのではなく無識だと言って
学校に行って見たら 1年生朝鮮語時間だった
あの時授業時間をちょっと見た窓が開いていて先生の言葉を聞く中に変に聞こえることは "ヨンテマナサイウシロカだとサムバブメヨシボックトコ
(人名)という 等語だが言葉を (日本語) らを時いくら位不快だった他の時間は分からないが朝鮮語時間にこの言葉 (日本語)を使うことは
理由と必要よりどの惰性によって無意識的言行ではないか
中学校先生で 前者と労動者と価値と無自覚した言語使用と無知覚した語学教授に至って実に嘆かわしさを禁ずることができない同時に
その先生は今何の事をしながら過ごすのか問って見たい