B.C. 20世紀頃 遼河 上流と鴨緑江の間 馬城子で 刻目突帯文土器 文化が始まる. 刻目突帯文土器 文化は韓半島全域で確張して韓半島南部まで到着したことは B.C.17世紀頃, 早期の移住民たちは青銅器がない 非権力型移住民だった.
B.C. 10世紀頃には忠清道流域で権力型, 大型村, 稲作が特徴である 松菊里 文化が始まって, 京畿道から全羅道まで早く確張する.
しかし 松菊里 文化は慶尚道には進出することができないのに, 当時慶尚道には 南江 流域文化と 検丹里 文化が存在した.
三つの位置は地理的に百済, 新羅, 伽揶の構図と似たり寄ったりだ.
南江 流域文化がある慶尚道南部は新石器時代から縄文人と交流をした地域で,
相変らず 刻目突帯文土器を使う人々で先進的ではなくて勢力も小さかったが地形によって 松菊里人の進出が遅くなったことと考えられる.
検丹里 文化は 松菊里人に対抗することができる勢力があったことと見える.
B.C.8世紀頃この 刻目突帯文土器を持った人々が慶尚道南部から日本列島で渡来する.
今まで明かされたことによればこれらが日本列島で渡来した最初の彌生人だ.
これらは青銅器がない 非権力型移住民だったし, 長い間九州北部にだけ存在したし遅く確張した.
そして半島に残存した 南江 流域の人々はおおよそ B.C.6世紀頃 松菊里人の進出によって消滅する.
そして B.C.6世紀頃には 遼河と韓半島北部に存在した 粘土帯土器 文化人の南下も始まる.
北部の人々が韓半島南部で移住し始めた理由は中国と高まり線間の戦争が影響であることと考えられる.
参照 :
https://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_11/view/id/3938956
初めには小さな権力型の 粘土帯土器 住民が韓半島南部で移住して, 松菊里 文化より優位を占めなかったが,
B.C.5世紀頃, 権力型 粘土帯土器 文化人が移住すると, 松菊里 文化と 検丹里 文化は消滅して韓半島南部全域が 粘土帯土器 文化で取り替えられる.
.この時期が 松菊里人が列島で渡来する時期だ.
列島で移住した 松菊里人は平野主として関東まで早く席巻して列島の基底民族は奥地で追い出される.
列島で移住した 松菊里人は一年の間は 松菊里 類型を維持してから, 列島の基底民族と融和して彌生時代中期に移行される.
列島で発掘される 松菊里 系列の文化は忠清道の中央 松菊里人ではなくて南部の地方 松菊里人の物だ.
中央の 松菊里人と慶尚道の 検丹里人は列島で移住しなかったし 粘土帯土器 文化人に吸収される.
全羅道の 松菊里人と融和した 粘土帯土器 文化は栄山江 文化を成すようになるのに,
甕棺墓と 周溝墓を作ったこれ栄山江 文化は後期彌生時代にこの上なく大きい影響を及ぼす.
古朝鮮の 準王が 南遷 した時韓半島南部でも権威が認められた事や, 前漢書の記録, 三韓は貊の一種だ. という記録は,
遼東から韓半島南部で移住した粘土帯土器の子孫である 韓と相変らず北部に住んでいた貊(高句麗)が同じ韓国語族の同族というのを暗示する記録であるでしょう.
日本語族の先祖は 松菊里人や 刻目突帯文土器人である可能性が高い.
松菊里人と 刻目突帯文土器人 二つとも 原始 日本語族だった可能性もあって,
日本語族である 松菊里人が不明の言語を持った 先住の早期彌生人を吸収しながら言語を同化させることができたかも知れなくて,
世界の言語史を見れば必ず支配層の言語に統一されるのではないから, 松菊里人は韓国語族だったが 先住の早期彌生人の言語に, 童話されたことかも知れない.
古代-現代日本語がアイヌ語とはよほど違って韓国語族やウラル-アルタイ語族に近い大陸係言語なので,
南部縄文語が日本語族の直系先祖のこと可能性は低い.