以下、Richard von Coudenhove-Kalergi等については、wikiを参考にしました。
マリア・カレルギス(Maria Kalergis)(1822年生まれ。1874年に亡くなる)は、ポーランド(Poland)の、貴族の女性・ピアニスト(pianist)です。
マリア・カレルギス(Maria Kalergis)は、ドイツ系の貴族と、ポーランド(Poland)人の貴族の家出身の妻との間に生まれました。
マリア・カレルギス(Maria Kalergis)は、幼少期に、両親が不仲が原因で別居したため、6歳の時に、サンクトペテルブルク(Saint Petersburg)に住む、父方の伯父の、カール・ロベルト・ネッセルローデ(Karl Nesselrode)伯爵(ドイツ系の貴族(伯爵)で、ロシア帝国(Russian Empire)の、外交官・政治家。ロシア帝国(Russian Empire)の政治界の重鎮)の邸宅に引き取られて、養育されました。
マリア・カレルギス(Maria Kalergis)は、音楽好きな両親から、音楽的才能を受け継ぎ、(短期間ピアノを教わった)ショパン(Frédéric Chopin)からも、その才能を高く評価されました。マリア・カレルギス(Maria Kalergis)は、母親からポーランド(Poland)語を教わったほか、フランス語(ポーランド(Poland)の貴族のサロン(社交界)での言語)、ドイツ語、イタリア語、ロシア語を自由に話しました。
マリア・カレルギス(Maria Kalergis)は、パリ(Paris)やワルシャワ(Warsaw)の社交界で、その美貌(美しさ)をもてはやされ、多くの芸術家に慕われました。
マリア・カレルギス(Maria Kalergis)は、1839年、17歳の時に、年齢の離れた、大地主の(とても、大規模な地主の)、(中世からの、とても古い歴史を有する、ギリシャ(Greece)系の、名門(有名な)貴族の家の)貴族(伯爵)、ヤン・カレルギス(Jan Kalergis)(伯爵)と結婚します。

写真は、借り物。マリー・カレルギー(Marie Kalergi)(1840年生まれ。1877年に亡くなる)。前述した、マリア・カレルギス(Maria Kalergis)と、ヤン・カレルギス(Jan Kalergis)との間に、サンクトペテルブルク(Saint Petersburg)で生まれる。後述する、Richard von Coudenhove-Kalergiの父方の祖母。ハンス・マカルト(Hans Makart)(下の補足説明を参照)による肖像画。
ハンス・マカルト(Hans Makart):1840年生まれ。1884年に亡くなる。オーストリア(Austria)の、画家。「画家の王」と呼ばれ、19世紀後半のウィーン(Vienna)美術界を代表する画家。
Heinrich von Coudenhove-Kalergiは、(前述した)マリー・カレルギー(Marie Kalergi)と、オーストリア(Austria)の貴族との間に生まれた、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)帝国の、貴族(伯爵)・外交官です。
Heinrich von Coudenhove-Kalergiの家は、現在のチェコ(Czech Republic)のドイツに接する地域に該当する地域に、広大な土地(領地)を持つ大地主の(とても、大規模な地主の)、貴族(伯爵)の家でした。

写真は、借り物。Richard von Coudenhove-Kalergi(Heinrich von Coudenhove-Kalergiの息子。前述した、マリー・カレルギー(Marie Kalergi)の孫)。1930年頃の写真。日本の東京で、生まれた、貴族(伯爵)の家系の、世界的に有名な、オーストリア(Austria)の、政治活動家(母親は、日本人)。代表的な作品は、「汎ヨーロッパ(Pan-Europa)」(1923年)、「自由と人生」(1937年)等。汎ヨーロッパ(Pan-European)主義を提唱し、それは、後世の、欧州連合(EU)構想の先駆けとなった。その為、欧州連合(EU)の父の一人に数えられる。汎ヨーロッパ連合(Paneuropean Union)(1923年創設)の主宰者。ベートーベン(Ludwig van Beethoven)の「歓喜の歌」が、ヨーロッパのシンボル(象徴)、「欧州の歌」(ヨーロッパの歌)に採択されたのは、Richard von Coudenhove-Kalergiの提案による。
Richard von Coudenhove-Kalergiは、Heinrich von Coudenhove-Kalergiが、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)帝国の駐日大使(日本における大使)として赴任していた際に知り合い、結婚した、日本の庶民の女性、青山 光子(aoyama mitsuko)と、Heinrich von Coudenhove-Kalergiの間の、次男(2人目の子供)として、1894年に、東京で生まれました。
1896年、Richard von Coudenhove-Kalergiは、両親、兄と共に、日本を離れ、父の故郷の、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)帝国に渡り、父の家の城(castle)である、現在のチェコ(Czech Republic)のドイツとの国境に接する地域にある、ロンスペルク(Ronšperk)城(castle)で、家族と共に、育ちました。
Heinrich von Coudenhove-Kalergi(Richard von Coudenhove-Kalergiの父)の家は、現在のチェコ(Czech Republic)のドイツに接する地域に該当する地域に、広大な土地(領地)を持つ大地主の(とても、大規模な地主の)、貴族(伯爵)の家でしたが、城(castle)の規模は、小規模であった様です。
ロンスペルク(Ronšperk)城(castle)(Heinrich von Coudenhove-Kalergiの城(castle))(現在は、廃城(城(castle)が廃止)となっており、城(castle)の保存状態は、良くない)→
https://search.yahoo.co.jp/image/search?ei=UTF-8&p=ロンスペルク城&ai=b53a7b64-c3f4-4fa9-8d60-739b03f36b79&at=s&aq=0&oq=ろんすぺる&fr=top_ga1_sa&x=nl#cb78c1cfed91b7dbff62c65482b27f65
1906年には、Heinrich von Coudenhove-Kalergiが、心筋梗塞により急死し(急に亡くなり)、遺言により、Heinrich von Coudenhove-Kalergiの遺産は、全て、妻の、青山 光子(aoyama mitsuko)(Richard von Coudenhove-Kalergiの母)が相続しました。そして、青山 光子(aoyama mitsuko)は、子供達の教育のため、Richard von Coudenhove-Kalergiを含む、子供達を連れて、ウィーン(Vienna)へ引っ越しました。
オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)帝国が第一次世界大戦に敗北して、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)帝国内の諸国が独立すると、青山 光子(aoyama mitsuko)の家族は、領地のある、チェコスロバキア(Czechoslovakia)の国籍となり、青山 光子(aoyama mitsuko)の長男(1人目の子供。Richard von Coudenhove-Kalergiの兄)が、ロンスペルク(Ronšperk)城(castle)を継ぎ、領主として、領地・領民を治める事になりました。しかし、長男(青山 光子(aoyama mitsuko)の1人目の子供)が後を継いで、当主となった、青山 光子(aoyama mitsuko)(Heinrich von Coudenhove-Kalergi)の家は、領地の多くを、チェコスロバキア(Czechoslovakia)の政府に没収され、過半の財産を失いました。
Richard von Coudenhove-Kalergiは、ウィーン大学(University of Vienna)在学中、Ida Roland(ユダヤ系の(Jewish)、オーストリア(Austria)の女優)と知り合い、お互いに、恋に落ちましたが、青山 光子(aoyama mitsuko)が、Richard von Coudenhove-KalergiとIda Rolandの交際に猛反対(激しく反対)した為、Richard von Coudenhove-Kalergiは、家出をし、Ida Rolandと同棲を始めました(一緒に暮らし始めました)。
Richard von Coudenhove-Kalergiが、ロンスペルク(Ronšperk)城(castle)を去る時、Richard von Coudenhove-KalergiとIda Rolandの交際に反対だった、青山 光子(aoyama mitsuko)の「ライ(rai)、ライ(rai)、ライ(rai)」という叫び声が、城(castle)から響き渡ったと伝わっています(日本語の「人さらい(hitosarai)」(人を奪い去る者)が、そう聞こえたとされます)。
青山 光子(aoyama mitsuko)(Richard von Coudenhove-Kalergiの母)に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
青山 光子→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/4041068?&sfl=membername&stx=nnemon2
青山 光子(韓国語)→
https://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_26/view/id/4041068?&sfl=membername&stx=nnemon2
Richard von Coudenhove-Kalergiは、1915年、19歳の時に、実家(青山 光子(aoyama mitsuko))と絶縁状態のまま、34歳の、Ida Rolandと結婚しました(Ida Rolandは、3度目の結婚で、Richard von Coudenhove-Kalergiは、Ida Rolandの最後の夫)。
Richard von Coudenhove-Kalergiは、1923年、最初の妻である、Ida Rolandの資金で、汎ヨーロッパ社(Paneuropa-Verlag)を設立し、同社の機関誌である、「Paneuropa」(汎ヨーロッパ)を発刊しました。
以降、Richard von Coudenhove-Kalergiは、汎ヨーロッパ連合(Paneuropean Union)(1923年創設)の主宰者として、汎ヨーロッパ(Pan-European)主義の提唱者として活躍し、世界的な知名度を得ました。
オーストリア(Austria)政府の支援もあり、Richard von Coudenhove-Kalergiは、1926年に、24か国の代表による、第1回、汎ヨーロッパ(Paneuropean)会議を、ウィーン(Vienna)で開催し、会議には、2,000人以上の政治家・論客が参加しました。汎ヨーロッパ連合(Paneuropean Union)の本部は、(Richard von Coudenhove-Kalergiの父(Heinrich von Coudenhove-Kalergi)の旧(かつての)主君である)ハプスブルク(Habsburg)家の、旧(かつての)王宮、「ホーフブルク(Hofburg)宮殿」(ウィーン(Vienna))に置かれました。
しかし、やがて、汎ヨーロッパ連合(Paneuropean Union)は、オーストリア(Austria)を併合した、ナチス・ドイツ(Nazi Germany)に弾圧され、Richard von Coudenhove-Kalergiは、1939年の春に、フランスの市民権を取得しました(以後、Richard von Coudenhove-Kalergiは、亡くなる近くまで、フランス国籍でした)。
Richard von Coudenhove-Kalergiは、1940年に、アメリカへ亡命し、ニューヨーク大学(New York University)で講演等をしながら、汎ヨーロッパ(Pan-European)運動を継続し、1944年に、ニューヨーク大学(New York University)の教授に認定されました。
Richard von Coudenhove-Kalergiは、第二次世界大戦中の、1942年に公開された、アメリカの映画、「カサブランカ(Casablanca)」の、登場人物である、ポール・ヘンリード(Paul Henreid)が演じた、ヴィクトル・ラズロ(Victor Laszlo)の、モデル(model)となったとされています。
Richard von Coudenhove-Kalergiは、第二次世界大戦後、1946年に、ヨーロッパへ帰り、スイスの、山岳リゾート(resort)地の、グシュタード(Gstaad)で暮らしました。
Richard von Coudenhove-Kalergiの妻の、Ida Rolandは、1951年に亡くなりました。Richard von Coudenhove-Kalergiは、1952年に貴族(伯爵)の家の女性と再婚、その再婚した女性が、1968年に亡くなると、1969年に3度目の結婚をしました(ちなみに、Richard von Coudenhove-Kalergiは、実の子供(血の繋がった子供)はいなかった様です)。
Richard von Coudenhove-Kalergiは、1962年に、オーストリア(Austria)の政府から、名誉大銀星勲章(Decoration of Honour fo・r Services to the Republic of Austria)を受賞しました。また、Richard von Coudenhove-Kalergiは、1967年には、生まれて間もなく離れた日本も訪問し、日本から勲章を授与されました(ちなみに、日本の勲章は、基本的に、日本の政府が受賞者を選び、天皇が授与する形式となっています)。
Richard von Coudenhove-Kalergiは、1972年に、スイスの国境付近の、オーストリア(Austria)国内にある村で、77歳で、亡くなりました。Richard von Coudenhove-Kalergiの秘書の女性によれば、Richard von Coudenhove-Kalergiは、自殺したと言います。Richard von Coudenhove-Kalergiが偉大であったため、人々を失望させないように、Richard von Coudenhove-Kalergiの自殺は隠蔽された様です(Richard von Coudenhove-Kalergiは、オーストリア(Austria)で、死にたがっていました)。1923年の創設時から、Richard von Coudenhove-Kalergiが死ぬまで代わることのなかった、汎ヨーロッパ連合(Paneuropean Union)の主催者の地位は、オットー・フォン・ハプスブルク(Otto von Habsburg)公(ハプスブルク(Habsburg)家の当主)が継承しました。

写真は、借り物。左から、トーマス・マン(Thomas Mann)、Ida Roland、Richard von Coudenhove-Kalergi。
Richard von Coudenhove-Kalergiの、著名人の支持者は、以下の者達等がいます。
Édouard Herriot(フランスの首相)、Aristide Briand(フランスの政治家。1926年の、ノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)の受賞者)、Gustav Stresemann(ドイツの政治家。1926年の、ノーベル平和賞(Nobel Peace Prize)の受賞者)、Winston Churchill(イギリス首相)、Leo Amery(イギリスの政治家)、Ignaz Seipel(オーストリア(Austria)の首相)、Tomáš Masaryk(チェコスロバキア(Czechoslovakia)大統領)、Heinrich Mann(小説家。トーマス・マン(Thomas Mann)の兄)、トーマス・マン(Thomas Mann)(ドイツの小説家。1929年の、ノーベル文学賞(Nobel Prize in Literature)受賞者)、Gerhart Hauptmann(ドイツの小説家。1912年の、ノーベル文学賞(Nobel Prize in Literature)受賞者)、Stefan Zweig(オーストリア(Austria)の作家)、Franz Werfel(オーストリア(Austria)の小説家)、リルケ(Rainer Maria Rilke)(オーストリア(Austria)の詩人)、Paul Valéry(フランスの詩人)、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss)(ドイツの作曲家)、アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)、フロイト(Sigmund Freud)。