参考に、以下、「」内。私の前の投稿文より。
「私は休日を外で過ごす事は好きで、美味しい物を食べる事、自然の中を散歩する事、温泉に入浴する・温泉旅館等の温泉宿泊施設に宿泊する事、芸術や花を愛でる(鑑賞する)事等は、好きなのですが、本格的な登山やキャンプ等のアウトドアは好みません。
私は、交際する女性との趣味が合うか合わないかと言う事は、若い頃は気にしなかったのですが、成熟した大人になってからは、私と趣味が合う女性を好きになるプラス交際相手の女性が、私色に染まってw、私と趣味が合って来ると言う事を合わせて、私と趣味が合う女性と交際するようになりました。」
以下、基本的に、2013年の9月の中旬に行った投稿の再掲で(投稿文は、2013年の9月の中旬の投稿を前提としています)、彼女(私の今の彼女。以下、彼女と書きます)と、銀座(ginza)を散歩した時の物です。
ちなみに、当時、彼女は、大学生でした。
8月の第4火曜日(以下、この日と書きます。この日は、個人的に休みでした)、近場で休日を過ごした時の物です。
この日は、銀座(ginza)を散歩しました。銀座(ginza。東京都心部の中でも、中心的な地域に位置する)は、東京を代表する高級繁華街且つ、東京を代表する繁華街であり、また、隣の有楽町(yurakucho)と合わせて(銀座(ginza)・有楽町(yurakucho))、東京最大級の繁華街の一つとなっています。第二次世界大戦前は、銀座(ginza。東京都心部の中でも、中心的な地域に位置する)と浅草(asakusa。東京都心部の東部(北東部)に位置する)が、東京の二大繁華街でした(第二次世界大戦前は、銀座(ginza)が、中流層及び上流層の為の中心的繁華街、浅草(asakusa)が、庶民の為の中心的繁華街と言った感じでした。ちなみに、銀座(ginza)は、今でも、東京を代表する繁華街の座を維持しています)。浅草(asakusa)は、第二次世界大戦末期の空襲で、壊滅的な被害を受けました。また、第二次世界大戦後、浅草(asakusa)が、衰退して行く一方で、東京都心部西部(1920年代から1930年代に、本格的な開発が始まった、東京の新市街・新興住宅地)の、新宿(shinjyuku)や渋谷(shibuya)等が、東京の新たな主要繁華街として、成長し、台頭して来ました。これにより、浅草(asakusa)は、東京最大級の繁華街の座は、新宿(shinjyuku)や渋谷(shibuya)等、他の繁華街に譲り、現在は、東京の主要な繁華街の一つに過ぎません(もっとも、浅草(asakusa)は、それでも、東京の下町(旧市街)(東京都心部の東部)の中心的な繁華街となっています)。一方、銀座(ginza)は、第二次世界大戦前と後を通じて、現在に至るまで、東京を代表する繁華街であると共に、隣の有楽町(yurakucho)と合わせて(銀座(ginza)・有楽町(yurakucho))、東京最大級の繁華街の座を維持しています。銀座(ginza)areaは、繁華街の規模(範囲)が大きい為、最寄りの地下鉄・通勤電車(電車)駅が、5つ程あります。
写真以下2枚。銀座(ginza)の風景例。この日は、(暑さが厳しい、東京都心の夏の日々の中において、オアシス(oasis)的な日と言った感じで)、あまり暑くなく、快適な気候でした。爽やかな気候で、街(繁華街)の散歩日和と言った感じで、気持ち良く、銀座(ginza)を散歩出来ました。


この日は、(銀座(ginza)の、資生堂(Shiseido)パーラー(parlour)の本店に入っている)資生堂(Shiseido)galleryで、現在行われている、ミン・ウォン(Ming Wong)の展覧会(exhibition)を見て来ました。

銀座(ginza)にある、資生堂(Shiseido)パーラー(parlour)(下の補足説明参照)の本店の、現在の建物。パンフレット(leaflet)より。。。複数の飲食店と、西洋菓子・ケーキ(cake)店(西洋菓子・ケーキ(cake)売り場)、art
gallery(資生堂(Shiseido)gallery)が、入っています。道路を挟んで、隣には、資生堂(Shiseido)の、銀座(ginza)の旗艦店(flagship
store)のビルが建っています。
資生堂(Shiseido)パーラー(parlour):資生堂(Shiseido)(下の補足説明参照)が経営する(資生堂(Shiseido)の子会社の)、飲食店(レストラン・カフェ(cafe))・西洋菓子店。1902年創業。レストラン・カフェ(cafe)は、東京圏を中心に店舗を展開。特に、銀座(ginza)の本店は、第二次世界大戦前から、高いブランド(brand)力を有している。
資生堂(Shiseido):銀座(ginza)発祥の会社で、日本の大規模化粧品会社の一つであると共に、日本最大、且つ、日本を代表する化粧品会社(世界でも、有数の規模の化粧品会社)。1872年創業。
写真以下3枚。資生堂(Shiseido)パーラー(parlour)の本店のビルの、最上階からの眺め。。。(まあ、あまり高いビルではないので、眺めは、大した事ありません)。



写真以下5枚。この日の昼食は、資生堂(Shiseido)パーラー(parlour)の本店の、最上階にある、カジュアル(casual)で、現代的な雰囲気の、レストランで食べました。このレストランは、カジュアル(casual)な雰囲気のレストランで、資生堂(Shiseido)パーラー(parlour)の本店の飲食店の中では、料理等の内容に比べた値段が、最も安いですが(おそらく。。。)、それでも、やはり、銀座(ginza)の、資生堂(Shiseido)パーラー(parlour)の本店に入っている飲食店なので、値段は、やや高目です。


この時、私達が、このレストランで座った席からの眺め。。。
写真以下3枚。このレストランで食べた、この日の昼食。これに、パンが付きます。

簡単な、サラダ(salad)とスープ(soup)。一人一皿ずつ。スープ(soup)は、冷たい、南瓜のスープ(soup)。

メイン(main)料理。一人一皿ずつ(二人共、同じメイン(main)料理を選びました)。炙った国産(日本産)牛肉が載った、冷たい野菜のパスタ(pasta)(正確な名前は、忘れましたが、その様な内容の料理です)。

デザート(dessert)。桃(白桃)のシャーベット(sorbet)。一人一皿ずつ。
写真以下12枚。この日は、資生堂(Shiseido)パーラー(parlour)の本店に入っている、資生堂(Shiseido)galleryで、現在行われている、ミン・ウォン(Ming Wong)の展覧会(exhibition)を見て来ました。
写真以下3枚。資生堂(Shiseido)galleryを含む、資生堂(Shiseido)の、一般向けの(一般に公開している)、芸術・文化の展示施設のパンフレット(leaflet)。



資生堂(Shiseido)gallery。資生堂(Shiseido)の、一般向けの(一般に公開している)、芸術・文化の展示施設のパンフレット(leaflet)より。。。写真左上の写真は、1934年頃の資生堂(Shiseido)galleryの写真、それ以外は、資生堂(Shiseido)galleryの、現在の様子です(建物は、時代に合せて、建て替えられています)。以下、資生堂(Shiseido)galleryに関する説明は、資生堂(Shiseido)の、一般向けの(一般に公開している)、芸術・文化の展示施設のパンフレット(leaflet)の説明文・資生堂(Shiseido)galleryのsite等を参考にしました。資生堂(Shiseido)galleryは、1919年に開館した、資生堂(Shiseido)が運営するギャラリー(art gallery)です。現在も、運営され続けている、近代・現代式(西洋式)のギャラリー(art gallery)としては、日本最古の物(日本で、最も歴史の古い物)の一つのようです。資生堂(Shiseido)gallery(1919年開館)の、開館の目的は、作品発表の機会に恵まれない、将来性のある若手芸術家達に、無償で、会場を提供し、彼等が、世に出る(有名になる)、後押し(支援)をする事でした。資生堂(Shiseido)galleryは、「新しい美の発見と創造」を活動理念として、1919年の開館以来、現在まで、3,100回以上の展覧会(exhibition)を開催して来ました。第二次世界大戦中は、戦争(軍需産業)に直接関連しない産業分野の会社(化粧品会社)である、資生堂(Shiseido)の経営は、困難でしたが、それでも、資生堂(Shiseido)galleryは、1939年(72回)、1940年(82回)、1941年(85回)、1942年(96回)、1943年(90回)、1944年(80回)と、1939年から1944年にかけて、合計、505回もの、若手artist達の展覧会(exhibition)を開催しました(日本で、時局が戦時体制へと傾く中、若いartist達の群小グループが、続々と生まれた事に因る。。。)。資生堂(Shiseido)galleryは、1944年12月(日本が、第二次世界大戦に敗戦し、第二次世界大戦が終わる8ヶ月前)、戦争の激化により、やむなく(仕方なく)、一時、休館しますが、1947年に、再び開館し、展覧会(exhibition)を再開しました。資生堂(Shiseido)galleryは、現在は、現代美術に主軸を定め、前衛性と純粋性を兼ね備えた同時代の表現を、積極的に紹介しています(若手artistの支援を継続しつつ、現代美術を中心とする、新しいartの紹介に力を入れています)。
写真以下。この日、見て来た、資生堂(Shiseido)galleryで、現在行われている、ミン・ウォン(Ming Wong)(1971年生まれの、ドイツのベルリン(Berlin)在住の、シンガポール(Singapore)人、現代artist)の、展覧会(exhibition)。以下、この展覧会(exhibition)に関する説明は、この展覧会(exhibition)のsiteの説明文を、ほぼ抜粋・要約した物です。「1971年、シンガポール(Singapore)生まれのミン・ウォン(Ming Wong)は、現在、ドイツのベルリン(Berlin)を拠点に活動しています。彼は、象徴的な、世界の映画の傑作に、リメイク(remake)という手法を通じて自ら入り込み、語り口(セリフ・台詞)や脚本、演出(演出技法)に、新しい解釈を加えることで、オリジナル(原作)の映画との差異を際出たせ、人種的・文化的アイデンティティー、ジェンダー(性別)、言語、ナショナリティーといった問題に言及した、ユニークな(個性的な)映像作品を制作しています。2009年にヴェネチア・ビエンナーレ(Venice Biennale)のシンガポール(Singapore)館で、個展(展覧会)を開催し、シンガポール(Singapore)人として最高の審査員特別表彰を受賞。その後、同展(同展覧会)は世界各地を巡回しました。以降、ミン・ウォン(Ming Wong)の活動は国際的な注目を集め、シドニー・ビエンナーレ(Biennale of Sydney)(2010年)、光州ビエンナーレ(Gwangju Biennale)(2010年)、シンガポール・ビエンナーレ(Singapore Biennale)(2011年)、リバプール・ビエンナーレ(Liverpool Biennial)(2012年)等の国際展に参加し、シンガポール(Singapore)を代表する現代artistの一人となっています。この展覧会(exhibition)では、日本映画(日本の映画)や日本の伝統芸能から着想を得て制作した、ミン・ウォン(Ming Wong)の、新作、「私のなかの私(私の中の私)」を発表します。この作品は、ミン・ウォン(Ming Wong)が、かねてより(前から・かつてから)望んでいた、日本での滞在制作による作品で、彼は、日本映画(日本の映画)と、その歴史を調査・分析し、「時代劇(近代より前の日本を舞台とした物)」、「現代劇」、「アニメ(anime)」の、3つのジャンルに分類することを試みました。「西洋の映画は写真の延長に存在し、日本の映画は歌舞伎(kabuki)や能(noh)と言った伝統芸能(伝統的な演劇)の延長にある」と指摘する彼は、この3つ(「時代劇、「現代劇」、「アニメ(anime)」)の分野の映画の世界を、それぞれ特有の演技・映画的撮影スタイル・物語設定により、日本映画(日本の映画)の典型として表現しています。「時代劇(近代より前の日本を舞台とした物)」では、奥行きを感じさせない舞台の上で、平面的かつ舞台と正対する撮影法により、歌舞伎(kabuki)舞踊で、女装の敵討ちを演じ、日本映画の黄金期の、小津 安二郎(ozu yasujiro)の映画と成瀬 巳喜男(naruse mikio)の映画に、インスピレーションを得た「現代劇」では、高度経済成長期を舞台に、女性の葛藤、父と娘の複雑な関係性を捉えています。また「アニメ(anime)」では、「新世紀エヴァンゲリオン(Neon Genesis Evangelion)」、「メトロポリス(Metropolis)」、「攻殻機動隊(Ghost in the Shell)」と言った、心理学的要素を含む日本のアニメ(anime)を基に、過去の高校生の頃の記憶を取り戻そうとするアンドロイドが主人公の物語を創造しています。ミン・ウォン(Ming Wong)は、どのシーン(場面)においても、日本映画(日本の映画)における、元型的なキャラクターを創造し、それら全てを、彼自身が演じていますが、日本語による台詞の発音、言い回しの、ぎこちなさ、身体的特徴からは、性差・世代・言語・人種といった、個人に備わる要素が否応無しに浮かび上がってきます」。
写真以下6枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)。

写真以下5枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)より。。。



この作品(「私のなかの私(私の中の私」)の、「現代劇」は、小津 安二郎(ozu yasujiro)(1903年生まれ。1963年に亡くなる。1920年代後半から、1960年代初めに活躍。日本の世界的に有名な映画監督の一人)と成瀬 巳喜男(naruse mikio)(1905年生まれ。1969年に亡くなる。1930年代から1960年代に活躍(遺作は、1967年の作品)。日本の有名な映画監督の一人)の映画を、イメージした物となっています。


写真以下3枚。この展覧会(exhibition)の様子。



この展覧会(exhibition)、つまらなくはなかったけど、期待していた程は、面白くありませんでした。
以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)に続く。。。
銀座・資生堂パーラー他後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3984189?&sfl=membername&stx=nnemon2
以上、基本的に、2013年の9月の中旬に行った投稿の再掲(投稿文は、2013年の9月の中旬の投稿を前提としています)でした。
小津 安二郎(ozu yasujiro)(1903年生まれ。1963年に亡くなる。1920年代後半から、1960年代初めに活躍。日本の世界的に有名な映画監督の一人)の映画に関して、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
小津 安二郎映画「晩春」他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_2/view/id/3580708/page/5?&sfl=membername&stx=nnemon2