下から2階を見る。
先程の部屋が右側にあり、ちょうどその下が角屋。
着物の女性の真上が展示場の部屋。
着物の女性はただの訪問客で、この家の人物ではなかった。
旧杉山家の向い側には、寺内町センターがある。
大床の間から左側に、ちょっとした庭がある。
塀には控柱が立つ。
旧杉山家の北東には、「興正寺別院」がある(写真右)。
この仏教寺院こそ、寺内町の中核となった寺だ。
薬医門の「山門」は伏見城の門の1つを移築したもので、重要文化財。
門ががっちりと閉まっていたので拝観できないのかと思ったが、インターホンを鳴らすと
「拝観できます」とのこと。
「本堂」は1638年の再建。
興正寺別院は1560年にこの地にやって来た。富田林・寺内町は、このお寺を中心にして
形成されていった。
本堂の広い外陣。
外陣から内陣を眺める。


左右には、幕府の御用絵師・狩野秀信の筆の襖絵がある。
武士とsamuraiは決して完全に同じではないが、分けて考えればややこしいので、ここでは武士(samurai)としておく。
Samuraiは古代末期に登場した戦闘を本分とする人々だが、時代によって性格が異なる。
因みに韓国ではsamuraiは忍者のようなイメージで考えられているらしい。日韓歴史共同研究の時、韓国側のメンバーが「我々はsamuraiを忍者のようなイメージで考えていた。しかし、政治や行政を担う存在でもあったことに驚いた」と述べていた。
さて、そのsamuraiは1192年、鎌倉に新たな政府を築き、日本社会の中心的な存在
へと成長していく。ところで、政権を担当するとなると、単に武力だけ誇示して務まるものではない。税を徴収したり、紛争を調停したり、様々な行政活動を行なう上でのルールを制定し、滞りなく実行していかなければならない。
そのため、鎌倉のSamurai政権は京都の貴族社会に接近し、彼らの文化を吸収することに努力する。
また、中世日本は仏教が非常に隆盛した時代であり、新しい仏教宗派が続々と誕生してくる。東国でも、鎌倉を中心に多くの寺院がsamurai達によって建立され、仏教とsamuraiの結びつきも深まっていった。
そのような社会の中で、寺院がsamurai達の教育機関になるのは自然の成り行きだった。
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「建長寺」、鎌倉幕府5代執権・北条時頼の創建。
ここに中国南宋からの渡来僧・蘭渓道隆を迎え、開山とした。
蘭渓道隆以外にも円覚寺の開山となった無学祖元など、南宋からの渡来人は多く存在し、samurai政権が南宋との交易や文化の招来に積極的であったことが理解出来るだろう。

木造・蘭渓道隆坐像、13世紀の作品
◎寺院での教材と教育内容
それでは、中世日本の寺院で使われた教材や、教育内容を見ていく。
文字学習のための教材を中心に見ていくと、まずは鎌倉時代に作られた「消息詞」がある。小さな子供用の教材で、単語や短文から学習できるように配慮されている。
同じく、単語・短文学習から入る文字教材として「雑筆往来」がある。
この本は、日本語通訳を養成するためのテキストとして朝鮮王朝で使用されたという。また、ヨーロッパの宣教師も、日本語教材としてこの本を利用した。
そして、南北朝時代(14世紀半ば)に作られた「庭訓往来」は最も有名な教材で、1年12ヶ月それぞれ題材を設定し、25通の手紙文から成立する。
内容は、遊戯、喫茶、香、学文、習字、和歌、管絃、法事(仏教儀式・作法)などの他、領国経営や盗賊征伐、武具・馬具の名称や兵書なども含まれ、samurai階級の子息のための内容も充実している(時代が下るにつれ、内容はどんどん拡充されていく)。
実際、寺院で学ぶのはsamuraiの子息が多かったので、このような内容になったのであろう。
さらに時代が下ると、「十三湊往来」や「富山之記」など、地方色の濃いテキストも登場し、内容も多様になっていった。
次に、ある戦国時代samurai・玉木吉保の、寺院での教育内容を見てみる。
玉木吉保は毛利元就の家臣で、秀吉の朝鮮侵攻にも参加した人物である。
彼は「身自鏡」という自叙伝を書いたが、1564年2月、13歳で勝楽寺という寺院に住み、16歳までそこで教育を受けた。
授業内容は、1年目は、朝から夕方まで、ひたすら文の読み書きが中心であった。
「いろは」から入り、文字の習得に励み、早朝には「先心経」「観音経」を読書し、夜は例の「庭訓往来」などを読書したという。
2年目はさらに読書に重点を置き、手習いは草書体・行書体が中心になる。
最後の3年目は「古今和歌集」「万葉集」「伊勢物語」「源氏物語」などを
読書し、手習いは漢字の真書体を習得する。
そして、読み書きと同じく寺院で重視された教育は「芸能」であった。
舞楽に、元服前の男子によって演じられる童舞(warawamai)があるが、子供たちは寺院で、舞や音楽の練習を行なうのが当然だったのである。
上の玉木吉保も、寺院で能楽を学んだと記している。
童舞(warawamai)
◎外国人が見た日本の教育、識字
ヨーロッパの宣教師の記録には、戦国時代の日本の教育状況を記述したものが
いくつかある。
中でもFrancisco de Gassu y Javier は繊細な記録を行なっている。

Francisco de Gassu y Javier
1549年11月に作成された手紙には、日本の寺院の学校、特にレベルの高い教育を行なう学校が紹介されている。
そこには、「京都に多数の学生を受け入れる1つの大きな大学があり、5つの主な学院が付属している、それ以外に高野山、比叡山、根来寺、近江にも大学があり、それぞれ3500名程度の学生が在籍する、そして京都から遠く離れた坂東の地に日本で最も大きな大学(足利学校)があり、学生数は他より多い」、というような内容が記述されている。
そして2年あまり日本に滞在したあとの手紙(1552年1月)では、日本の教育状況について次のように書いている。
「仮名文字と漢字の2種類の文字を使うため、日本人の文字学習の負担が大きい」
「男女を問わず多くの日本人には識字力がある。特にsamurai階級の男女と商人は識字力がある」
「寺院では娘や若者に識字教育を行なっている」
「samuraiは、家の中に子弟を教育するための教師を雇っている」
次に朝鮮王朝人の記録も見てみる。
1443年日本に来た申叔舟は、世宗大王の部下の1人でハングル創設に係わった人物
だが、「海東諸国紀」を書いて日本の状況を紹介している。
「日本では男女の区別なしに、皆その国字を習う。国字はカタカナという。およそ47字ある。僧徒は教書を読み漢字を知っている。」と記録した。
そして、秀吉の侵攻の時に捕虜となって日本に連行され、藤原惺窩の師となった朝鮮儒者・Gang Hang は著書「看羊録」でこう記す。
「仮名文字を文字(漢字)に交えて使うのは、我々の吏読に似ている。文字(漢字)を交えないのは、ハングルに似ている。倭人で文を読めると評判の者は、ただ仮名訳を使うだけで、文字(漢文)はよく知らない」
「将倭(上級のsamurai?)たちは、1人も文字(漢字)を解釈する者が存在しない。将倭たちが使う文字は、我々の吏読に非常に似ている」
◎遊歴教育活動と足利学校
さて、中世日本では遊歴教育活動も活発だった。
僧侶や芸能者、儒教者(儒学者:韓国側では儒学が留学になってしまう)たちが活発に遊歴したが、ここでは主に儒教者の遊歴を挙げておく。
中世日本における儒教(儒学)は、主に京都五山や鎌倉五山のような禅宗寺院、坂東の足利学校などで研究された。
儒教者の遊歴で有名なのは、桂庵玄樹、清原宣賢である。
桂庵玄樹は建仁寺、東福寺で儒教を学んだ後、中国に留学して1473年に帰国し、主に九州で活発な遊歴を行なった。やがて薩摩の大名・島津氏の招聘を受け、「薩南学派」と称される学派を形成していく。
清原宣賢は当初、京都で諸書の講義を行なっていたが、1529年以降、京都と北陸を往復しながら教育活動を行い、「越路の博士」と呼ばれた。特に戦国大名・朝倉氏に慕われ、朝倉氏の要請で越前で大学、中庸、孟子、孝経、日本書紀神代巻などの講義を行っている。
ところで、中世日本で最も有名な学校といえば「足利学校」である。ここでは儒教が中心に講義されたが、戦乱の時代を反映し、医学、兵学も重点的に教育された。そしてここの卒業生は、有用な知識を持つ軍事顧問として迎えられたという。
Francisco de Gassu y Javier の伝聞記録では、学校には千手観音の他、孔子廟が設けられていたとされ、学校の儒教重視の様子が伺える。
また、桃山時代で足利学校の学長を勤めた三要元佶は、徳川家康に重用され、江戸時代の諸制度の創設に関与した。

復元された足利学校の方丈と庫裏
以上、簡単にまとめると、中世samuraiは政権を担当して文化力や統治能力を高める必要が生じ、京都の貴族文化の吸収や、仏教の信奉、中国南宋との交易や文化の導入などに努力した。そんな中でsamuraiと仏教は深く結び付き、寺院がsamuraiの教育機関として重要な役割を果たすようになっていった。
そして寺院では、読み書きの教育が徹底的に行なわれ、芸能の教育なども重視して行なわれた。
また、今回は書かなかったが、中世日本の教育はsamurai以外も重要である。
商人や手工業者の教育や、村落内部の教育が結構活発に行なわれているのだ。
特に中世日本の村落は「惣村」として自治的結束を強め、領主や支配層と対峙するようになり、また、他の村落との争いも頻発するようになる。
そこで重要になるのが文字の力、識字力であった。彼らは自ら文書を作成することで支配層や相手側に、自らの正当性を主張したのであった。
要するに、中世日本の識字力の高まりは、社会の必要性から出現したものだといえる。