崔 慶禄
元韓国軍参謀総長
1938年 日本帝国陸軍に志願。
3度目の突撃で全身8箇所に被弾し、瀕死の重傷を負う。 敵軍に包囲される中、ただひとり生き残っていた出田与一上等兵(長崎県出身)は自らも腹部に被弾しながら、3日がかりで自軍に運び救出するが、出田与一上等兵自身は絶命してしまう。
「旧日本軍が厳正なる軍紀のもと、上下信倚し、進んで職責に殉ずるの美風には今なを、感嘆を禁じ得ないものがあります。あのフィンシハーフェンの当時、私は一斬込隊長、しかも韓国の出身です。しかるに、私の伝令、出田上等兵は、自らも重症を負いながら、私を背負い敵の重囲を突破して救い出し、そして、自らは到頭死んでしまったのです。あのように最悪な状況でもなを軍規が守られていたことはさすが精鋭師団でした。私は何時の日か、出田兵長のお墓参りをすることが悲願です。」
戦後、崔慶禄氏は大韓民国駐日大使として日本に赴任。
激務の合間をぬって小野武雄陸軍大佐(昭和19年4月22日戦死)の墓参のため山口県を訪れている。崔氏の机上には常に小野大佐の写真が飾られていた。
「小野大佐は命の恩人であり、私は実子以上に父としての愛を受けた」
その後も自身のたびたびの発言により、常に韓国内の圧倒的多数である反日派からの攻撃に晒されたが、信念を曲げることはなかった。
「(日本大使時代)その間が自分として一番楽しかった。日本語で仕事ができ、沢山の友人に恵まれ、好きな軍歌や民謡や詩吟を歌うことができた。」 とくに乃木将軍を尊敬し、大使の乃木稀典作「金州城」は日本の詩吟の大家が激賞するほどだったという。「私は幸運にも陸軍時代、よい上官に恵まれた。それは小野少将(戦死後大佐から少将)ばかりではなかった。朝鮮軍司令部の最後の参謀長であった井原潤次郎中将にもかわいがられた。馬奈木敬信連隊長、松田靖彦中隊長も視野が広く、日韓関係を深く理解しておられた。私もこういう指揮官になりたいと憧れていた。しかしこれらの人々はすべて亡くなられて今会うことはできない。何としても 残念だ」
「戦前の日本人には信頼できる立派な人々が多かった。それに対して現在の日本の政治家は周囲に気兼ねしてか、正直に本当のことを言う人が皆無に近い。私がもし日本の首相だったら、一日でよい。洗いざらい本当のことを発言してみたい。それでやめさせられたら本望だし、それによって日本国民の目は覚め日本は本来の姿にたちかえるに違いない」(同じ連隊であった福家隆氏の証言)
「日本の政治家に”何故日本の軍隊は自衛隊なのか。名称を変えて日本国軍とすべきではないか”と質問したが、時期尚早だとの答えだった。私も日本の平和憲法は知っている。しかし、自衛隊は誰が見ても軍隊である。その実態をごまかし”自衛隊”というのは、極端に言えば詐欺ではないか。侵略戦争は許されないが、敵に攻撃されたとき、堂々と敵の軍事力を破壊できる兵力を備えるのは、国家として当然の権利であり、義務である。どうして世界の一部諸国及び一部国民の顔色を窺う必要があるのだろうか。アジアの強国日本が、自衛隊を”日本国軍”と名称変更し、堂々と軍事力を強化し、アジアの防波堤になることを期待する」(昭和63年1月13日産経新聞のインタビュー)
しかし、崔慶禄氏はこの文章を理由に反日派より激しく攻撃され、帰国後自らの意志で日本との連絡を断ち、「自分は韓国を愛するがゆえに親日である」と言明し、政界より引退。
2002年9月2日 ソウル市内で逝去。享年81歳。
もうすぐ、
貴殿が望まれた日本になります。
見守っていてください。