中国の歴史書、日本の歴史書、色々な文献、資料、遺構で
韓国主張は矛盾がある。客観資料もそれを証明している。
※『後漢書』倭伝 57年、委奴国王、後漢の都・洛陽で初代皇帝・光武帝から金印「漢委奴国王印」を授 かる。
『後漢書』倭伝
「建武中元二年、倭奴 国奉貢朝賀、使人自称大夫、倭国之極南界 也。光武賜以印綬」。
239年、倭女王卑弥呼、魏に朝貢、金印紫綬の「親魏倭王」印、銅鏡百枚等を賜わる。
(晋、陳寿 『三国志』魏書・東夷伝・倭人の条 「今以汝為親魏倭王仮金印紫綬」)。
1383年、明が鍍金銀印(「琉球国王之印」)を琉球国王に贈る(『明実録』)。
※ 隋に対して遣隋使を送るようになる。 この際煬帝に対して 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」 (『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 口國)で始まる国書を送った 。
※ 『隋書』
「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者 曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜 兼 沙門數十人來學佛法」
倭の王からの使者が来て、隋を訪問した目 的を述べたことが記述されている。
ここでは「海西の天子は、重ねて(熱心 に)仏法を起こしていると聞いた。
そのため沙門(僧侶)を送って仏法を学ぶ ために来たのだ」と述べている。
※『隋書』、
倭国傳 新羅百済皆似倭為大国多珍物並敬仰之恒通 使往来。
(新羅と百済は日本を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに日本を敬い仰ぎ、つねに使いを送り、往来している。)
※『好太王碑文』
(414年(碑文によれば甲寅 年九月廿九日乙酉、9月29日 (旧暦))建 立) 391年(辛卯(耒卯)年)
「百残新羅舊是 属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■ 新羅以為臣民」
そもそも新羅・百残(百済の蔑称か?)は (高句麗の)属民であり、朝貢していた。 しかし、倭が辛卯年(391年)に■を渡り 百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。
※『宋書』 「詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓 慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」
詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任 那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大 将軍、倭王に叙爵した、
日本が宋へ朝貢をし、宋が倭王(武)へ 朝鮮半島の支配を認めたとしており、 487年(永明5)に南斉の武帝の命を受けた沈約が翌年(元嘉17)に本紀10巻・列 伝60巻を完成させ、志30巻は502年(天監 元)にできあがった。
※『三国史記』 高麗17代仁宗の命、金富軾らが作成 、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。
朝鮮半島に現存する最古の歴史書。 1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。
三国史記 (百済本紀)
397年 夏五月 王は倭国と友好関係を結 び、太子の腆支を人質として倭に送った。
402年 五月 使者を倭国につかわして、大 きな珠を求めた。
403年 春二月 倭国の使者が来たので、王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。
405年 腆支太子は倭国において訃報を聞 き、哭泣しながら帰国する事を請うた。
倭 王は、兵士百名を伴わせて、護送した。
※『三国史記』 (新羅本紀) 57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解) 立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。
脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千 里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭 国東北一千里にあり。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の 子、未斯欣を人質として倭に送った。
405年 倭兵が明活城を攻める。 407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六 月にまた南辺を攻める。
三国史記 (列伝)
402年 壬寅の年に、倭国と和親を結ぶ 時、倭王は奈勿王の子の未斯欣を人質として請うた。
実聖王はかつて奈勿王が自分を高句麗へ人 質としてつかわした事をうらんでいたので、その恨みをその子ではらそう思っていた。
それ故に、倭王の請いを拒まないで未斯欣 を倭国に派遣した。