いつの間にか2018年の夏。自分は最近、世界の建築に興味があり、去年の夏はインドとタイに足を運んだ。逆に日本や韓国、中国の建築から遠ざかっていた。
しかし最近、2つの理由から、久しぶりに日韓中の建築を顧みることになった。その理由の1つは今後に書くとして、もう1つの理由は、清水重敦氏の論文を読んだことによる。

国宝、唐招提寺金堂(奈良時代)

佛光寺大殿(857年)
清水重敦は「建築の歴史・様式・社会」という本において、尾垂木と中備に関する考察を行っているが、それが興味深かったので少し書いてみたい。まず彼は、古代日本建築の尾垂木と、それと同時代の中国の尾垂木を比較して、その性格の違いを指摘した。

唐招提寺金堂、奈良時代の復原断面図

佛光寺大殿断面図
まずは両者の尾垂木に注目すると、唐招提寺金堂の尾垂木が入側柱上まで到達しているのに対し、佛光寺大殿の尾垂木は入側柱筋までは到達していない。というか、中国の古建築で尾垂木が入側柱筋まで到達しているのは非常に少なく、浙江省寧波の保国寺大殿などごく一部に限られる。その保国寺大殿とて、尾垂木尻が柱上の組物に突き付けて接しているだけで、入側柱と尾垂木の構造的関連は薄い。
これらにより、中国においては、尾垂木は単に軒を支える部材に過ぎないと言える。
一方、古代日本の建築においては、尾垂木を持つ建物はみな、入側まで、あるいは平等院鳳凰堂のように入側柱のない建物においてもかなり奥まで引き込まれている。興福寺東金堂は室町期の再建ながら、尾垂木が入側まで到達し、これを前身建物の名残と考えれば、古代建造の東金堂も尾垂木が入側に達していた可能性が高い。
このように、中国の尾垂木と違い、古代日本の尾垂木は入側か、かなり奥まで到達していた。

佛光寺大殿
それでは、日中を比較して何が言えるのか?
まず、唐招提寺金堂復原断面図を見ると、小屋梁は束で支えている。その束は尾垂木尻を踏んで押さえる踏束となっており、小屋荷重を受けた尾垂木が軒先を跳ね上げるという流れになる。
それに対し佛光寺大殿の小屋梁は、側と入側を結ぶ梁の上に、枠に組んだ肘木状部材を三段重ね、その上に小屋梁を乗せている(独楽寺観音閣でもこの手法が採用されている)。尾垂木はそこには関連していない。
それでは、両者どちらが合理的な構造化というと、中国であるようだ。
というのも、小屋梁の支点には垂直荷重だけでなく回転力も発生するが、中国の手法が両者に十分に対処するものであるのに対し、日本式だと小屋梁支持材の転びを避ける点が脆弱だからである。
というか、側と入側の柱の高さをできるだけ揃えるような格式高い建物においては、入側柱と小屋梁の距離が開く。それを長い束で支えるのは無理があるし、小屋構造が脆弱になる。そこで、日本式では、尾垂木を奥まで引き込むことで、その弱点を補おうとしているのではないか。日本の尾垂木は、力肘木や束と三角形を形成することにより、小屋構造を固め、小屋梁を合理的に支える部材だと考えることができるのではないか。
従って、日本式において尾垂木は単に軒を支える部材ではなく、小屋構造の弱点を補う重要な部材であったと言える。

・・・・と、清水重敦は指摘し、日本式がかつて中国に存在した形式だっただろうとし、今現存する中国式はその弱点を改良した形式だろうと推測した。日本式はその後、小屋貫が登場するまで、長い小屋束をどう対処するかに苦労したのではないかな。しかし清水の尾垂木の考察は興味深かったので、ここに提示しておきました。