各地で始まる再建・復活の動き
日本統治時代に、無数の神社が台湾に建てられたが、日本人が去ると管理する者もないため急激に荒廃し、のちの1972年の日華断交(日本と中華民国の国交断絶)によって日本に反発した国民党政権はその2年後、「台湾における日本帝国主義の優越感を表す植民統治記念遺跡の除去の要点」という内政部通達によって、多くの神社遺跡も破壊してしまった。
ところが、ここ5年ほど、失われた神社を再建・復活させようという動きが、台湾各地で続々と始まっているという。
現地をまずは訪ねてみた。台湾・東部にある台東県鹿野郷。フィリピン海プレートとユーラシアプレートがぶつかる場所にできた細長い谷間平原を利用し、熱気球の国際大会の開催地にもなっている風光明媚な観光地である。
緑の多い鹿野郷のなかでも、異様なほど丁寧に碁盤の目の区画整備が行われているのが、今は龍田村という名称で、日本時代は「鹿野村」と呼ばれた場所だ。貧しい日本の農村から活路を求めて台湾に渡った人々の「移民村」の一つだった。先住民との対立やマラリアに悩まされながら、鹿野村の日本人たちは一生懸命田畑を開墾し、豊かな農村集落を築いた。その中心にあったのが1923年に建立された「鹿野神社」で、祭られていたのは自然神である。
日本の敗戦後、神社の社殿部分は取り壊された。コンクリートの土台だけが雑草に囲まれて残っていたが、神社の存在は忘れられていた。ところが、2010年ごろから村の若者たちが地域おこしの一環として「神社をよみがえらせたい」と地元政府に掛け合って、鹿野神社の復活運動を始めた。
彼らが協力を依頼したのは、日本留学経験を持つランドスケープデザイナーの郭中端さん。台湾で日本建築の保存や活用に実績のある郭中端さんは、昔の写真を元に鳥居を含めた神社全体の復元計画を立てた。
復元に使う木材は、日本から檜を輸入し、宮大工も日本から招いて台湾の作業員たちと共同で作業した。2015年10月に社殿など全体の神社の復元作業は完了した。除幕式の様子は台湾メディアにも大きく報じられた。
現在の鹿野神社は、ちょっと不思議な空間だ。こぎれいな木造の社殿と鳥居が、公園のような平たく広い空間に突然現れる。中華風の灯籠も混在する。荘厳な神社がよみがえったというより、テーマパークのようなイメージである。
郭中端さんは言う。
「鹿野神社の復元は、古いものを元通りにする修復ではなく、『新しい観光資源を造る』という目的だからこそ、成功したと思います」
台湾では、日本の植民地統治の肯定とも捉えられかねない「神社」の復活は、一つ間違えれば、政治問題に発展しかねないリスクが存在していた。だから、あくまでも観光資源を造るという建前部分と、再建を期待する住民の熱い思いの本音部分の両方があって、うまく実現できたと郭中端さんは見ている。
そこには、台湾における「日本」問題の複雑さが垣間見える。
台湾には戦前、当時の記録にあるだけで、200カ所以上の神社があった。日本統治初期の日本文化を浸透させようとした時期や、戦争に突入した後の皇民化運動の時期など、いずれも政治的な意図をもって建てられた大型の神社と、移民たちが自らの生活と信仰のために自ら欲して建てた小型の神社の二種類がある。前者の神社の大半は、台湾への派遣軍を率いて亡くなった北白川宮能久親王を祭ったが、後者の神社の方の祭神は様々だった。もちろん後者の神社の方が数は多く、復活された神社の多くも後者の地域密着型の神社である。
http://news.yahoo.co.jp/feature/245