私の青春のすべて――韓国(小田部 チエ子)
私は明治三十九年、両親が韓国の馬山で医院を開業していたときに生まれました。
後に父が京城の鉄道病院の小児科医に招請され、家族で京城に移りました。
家には跡継ぎの姉がおりましたが、嫁いだ先が長男で家を出ましたので私が跡取りになりました。父は医師になるよう望みましたが、私は薬剤師をめざして、第一高女、京城の男女共学の薬大で学び、卒業後は府庁衛生試験室に入りました。
父は私の将来のために、漢江通りに薬局を開てくれましたが、間もなくして脳溢血で倒れました。
私は薬局のかたわら看病致しました。
が、十分なことができないので、薬局を人に譲って看護に専念いたしました。
九年間父の世話をして看取ることができました。
母と二人になりました。
頼まれて歯磨粉の会社の工場長の職に就きました。
当時は女の工場長は私一人で、工場長会に出席しても、周囲は男性ばかりでしたが、薬大での男女共学体験も役立ってか、女だからといって負けてはおらず、一歩も引けを取ることなく、いっしょうけんめいに働きました。
そのうちに時局がら、しだいに物資が不足してきました。
ずいぶん遠くへトラックに乗って材料を買いに行きました。
工場では工員やその家族に軍属並みの被服や品々を支給しました。
がある日、袋を貼る糊がなく、仕事ができなくなり、母に話すと、母は食糧のメリケン粉を全部出してくれました。
おかげで、工場を続けることができたのですが、わが母ながら頭が下がりました。
母といっしょに、文字通りの、命を張った毎日、よく働きました。
終戦後は、銀行はすぐに韓国人によって封鎖されてしまいました。
方々で所長や支店長が金目当てに、韓国人に、監禁や幽閉されました。
日本人が引揚げたあき家は、直ぐに韓国人が住みつき、引揚げていない家にも、同居させて欲しいと言ってくれば、ことわることはできない雰囲気となりました。
私の家にも何人もきましたが、米軍の接収がきまっていましたので、それを理由にかろうじてことわり続けることができました。
ある朝、窓から外を見ると、邸内の借家に、いつのまにか、韓国人が入りこんでいました。
このとき、はじめて、身の危険を感じました。韓国は生まれ育った故郷であることもさることながら、キャプテン・ダストの自覚から母と二人、この身はどうなってもよい、という思いから、引揚げが遅れておりましたが、意をけっして日本に帰ることにしました。
船が出る港までは、無蓋車ときまっていましたが、高齢の母だけでも有蓋車に乗せたいと思い、日本人世話人会へ行きました。
建物の前の道は何万という韓国人の列で埋まり、萬歳を言っていました。その頃数少なくなった日本人は命の保証のない毎日で、韓国人の服装をして、身の安全をはかるなどしていましたが、私は日本の服装で通していました。
私は列を横切って世話人会へ行こうとしたとき、列の一人が、きびしい目で私をみましたが、「ミヤノミダ(すみません)」「ミヤノミダ(すみません)」と声をかけながら進みますと、道を開けて通してくれました。
会へ行くと極東裁判のため、日本に行く、山田さん(朝鮮総督府通訳官)と出会い、母と二人同じ列車に乗せていただけることになりました。
このとき、リュックを置いて、つぎの部屋に入るようにいわれ、入ってすぐ出てきたのですが、わずかの間にリュックが失くなっていました。
漢江を見下す高台に母と住むつもりで二百三十坪ほどの土地を買って置いたのですが、今は高級住宅の一等地という。
土地は、どうなっているのだろうかと思う。
命がけで働いた若かった日々のすべてを置いて引揚げてきた韓国、観光客も多いというが、今は行きたいとも思わない。
大きな苦しみが、いまなお、心に残っている。
そして現在こうなりましたとさ、めでたし、めでたしw

ところで、「朝鮮人の人権を考える会」「北九州市民運動連帯会議」ってなんです?
活動家なのに過去広報活動の情報が1つもないとかイミフなんですけどW