日本人男性は国からの強制動員で徴用工として働いていたが、
朝鮮から来た労働者は、強制動員の対象でもなく、ただ日本人徴用工と同じ職場だっただけで、なぜか徴用工と呼ばれていた。
給料も差別なく貰えて、強制でも何でもなかった。
日本人女性慰安婦は給料をもらって1日8時間勤務して休日もあったし里帰りもしたが、
同じように韓国人慰安婦も給料をもらって1日8時間勤務して休日もあったし、朝鮮に里帰りも出来た。
給料も差別なく貰えて、強制でも何でもなかった。
1938年、国民総動員法が制定された。
1939年7月、この国民総動員法が日本(内地)男性に適用され、徴用が開始された。
1944年8月、国民総動員法が日本(内地)の女性にも適用され、女子挺身勤労令が発令された。
対象は、日本(内地)の14~40才の女性で工場などの勤労労働に従事した。
1944年9月、国民総動員法が朝鮮〜人男性に適用され、1945年から徴用が開始された。
1939年7月から日本人男性は徴用されて「徴用工」と呼ばれていた。
同時期に朝鮮では、日本企業による朝鮮総督府を通した朝鮮〜人労働者の募集が行われ、応募した朝鮮〜人労働者が内地で働いた。
この朝鮮〜人労働者たちは日本人徴用工と同じ職場で働いていたので、日本人の徴用工と同様に「徴用工」と呼ばれていた。
朝鮮〜人労働者たちは徴用ではなく、募集され、それに応募した普通の労働者だったのに「徴用工」と呼ばれていた。
(朝鮮〜人男性が徴用されて「徴用工」となったのは1944年9月から)
朝鮮における「挺身隊」と「慰安婦」の混同と流用
朝鮮での「挺身隊」と「慰安婦」の混同
「挺身隊」とは「女子勤労挺身隊」のことで、主に工場などでの労働に従事する女性を指し
「慰安婦」とは全く異なる。
太平洋戦争末期の1944年8月、労働力が逼迫する中で日本内地において日本人女性を工場などへ強制動員する「女子挺身勤労令」が出され、12歳から40歳までの日本人の未婚女子が対象となった。
朝鮮半島の女子には女子挺身勤労令は発令されなかったが、
朝鮮での強制性のない官斡旋の女子挺身隊が内地の工場に向かった事例もあったため、
挺身隊と慰安婦が混同され、
「挺身隊に動員されると慰安婦にされる」との流言(デマ)が流布した。
デマによってパニック状態[77]になった朝鮮の未婚女性や親は、学校を中退させたり、
結婚することで徴用を逃れようとした[79]。
戦後、慰安婦問題の活動を行う韓国挺身隊問題対策協議会初代代表の尹貞玉も1943年4月に入学した女学校を父親の忠告に従って同年9月に退学している。
1944年6月27日の内務省の文書では、未婚女子の挺身隊を慰安婦とするようなデマについて「荒唐無稽なる流言」「悪質な流言」としている。
当時の日本政府はそうしたデマを民族主義者による反日謀略とみなしていた可能性も指摘されている。
日本内地へ動員された朝鮮の女子挺身隊の総数は4,000人から10,000人。
こうしたデマは、慰安婦の斡旋業者が挺身隊名目で慰安婦を集めていたのも原因しており、
挺身隊=慰安婦という朝鮮での混同は戦後になっても見られる。
慰安婦の斡旋業者= 韓国人