
→「亀船という名で、首都防衛のために臨津江に浮かべられていた」という記述があった。
※書いてあったという事がFACTであって、実際にあったかどうかがFACTということではない
『太宗実録』太宗(西暦1415年)15年7月16日辛亥条

→「亀船は敵に衝突し損害を与える。勝利を決める良策として建造された堅い船である」という記述があった
※書いてあったという事がFACTであって、実際にあったかどうかがFACTということではない
『李舜臣行録』
「板屋船とほぼ同じく上を板で覆い、その板の上には十字型の細道が出来ていて、やっと人が通れるようになっていた。そしてそれ以外は、ことごとく刀錐(刀模様のきり)をさして、足を踏み入れる余裕も無かった」
ここにはどこにも亀甲船という記載はない。
韓国では、この板屋船を当時の主力戦艦と定義し、太宗実録で不明となってる船を李舜臣が改良して運用したのもと解釈している。
なお、板屋船の登場は明宗10年(西暦1555年)となっている
『李忠武公全書』1795年
ここからようやく絵が出る
この文献より、亀甲船の構造は底板の長さ14.2m、舷板最下第一板20.6m、舳板(船尾)上4.4m、頭の広さ3.6m、最上級第七板34.2m、下の広さ3.2m、腰の広さ4.4m、高さ2.3m、尾の広さ3.2m、厚さ0.12mと解釈する。
>トレース>
なお、この資料の50年前に当たる1747年3月、「朝鮮王朝実録」内の全羅道右水営が作成したと推定される文書より、英祖16年(西暦1740年)6月18日に「海鶻船」なる高速艇の記載があるが、こちらは現状復興の目処は立っていない。

『西遊見聞』(1895年)愈吉濬
「亀甲船が天下で一番先に作られた鉄甲船」と記載
1906年、崔錫夏の‘朝鮮の魂’や1908年丹斎・申采浩(シン・チェホ)の‘大韓の希望’のような文を通じて抗日意識とかみ合い、鉄甲船伝説は当事の韓国内に広く広がったのもとみられている。(韓国科学技術院のシン・ドンウォン教授の説)なお、丹斎は鉄甲船説が*征韓論の延長線から出たことを知って1930年代、朝鮮日報に連載した‘朝鮮上古史’を通じて鉄甲船説を否定した。
<*征韓論:当事『征韓偉略』(韓国を征伐すべき)という 川口 長孺の文献が出回っていた。そこから出ている論>

そして観光化、映画化で現在に至る・・・