文玉珠お婆さんの証言記録
文玉珠お婆さんは、現在価値で1億円に迫る貯金通帳を持っていた事で知られる「自称性奴隷」お婆さんですが、当時の慰安婦研究者の聞き取り調査でも色々と面白いことを語っていたようです…
「文玉珠 ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私」
慰安婦問題研究家 森川万智子著 梨の木舎 1996年 ISBN 978-4-8166-9519-3
より
文 玉珠(ムン・オクジュ、문옥주)
1924年大邱生まれ。
生活が苦しく12歳の頃、九州へ働きに行ったが翌年逃げ帰った。
キーセンになろうと思ったが兄に反対された。
1940年16歳で日本人と朝鮮.人の憲兵に呼び止められ、朝鮮.人の刑事と一緒に列車にのり、朝鮮.人の運営する中国東北部(満州)の慰安所へ強制連行された。
1941年17歳で朝鮮半島に逃げ帰り、スリッパ工場で働いた。
18歳でキーセン学校へ行き1年で終了し座敷に出るようになった。
「食堂で働けば金儲けが出来る」という誘いにのり、1942年7月10日釜山港から船に乗った。
ラングーンで慰安婦にさせられる事を朝鮮.人の日本軍兵士から聞いて、騙された事を知ったが、同時にやはりそうかと妙に納得した。
仲間とビルマに渡り慰安婦にさせられた。
注)韓国挺身隊問題対策協議会の聞き取り調査に対し、この時期の事として
同行したのは朝鮮.人業者である事、彼女を騙した朝鮮.人業者はまもなく「居なくなり(理由不明)」、軍が直接管理するようになったとしている。
↓軍が管理するようになった後…↓
ビルマでは、チップが貯まったとして、
「千円あれば大邱に小さな家が一軒買える。
母に少しは楽をさせてあげられる。
晴れがましくて、本当にうれしかった。
貯金通帳はわたしの宝物となった」
と語り、
母親に小さな家が何軒も買える大金を送金したことや、
許可を得て5千円を実家に送ったことを
語っている。
また
「週に一度か二度、許可をもらって外出することができた。人力車に乗って買い物に行くのが楽しみだった。」
「ワニ革のハンドバックとハイヒールに緑のレインコート。こんなおしゃれな恰好でサイゴンの街を闊歩した。だれがみたって、私を慰安婦だとは思わなかっただろう。いまも思い出してはなつかしく、得意になってしまう。」
「ビルマは宝石がたくさん出るところなので、ルビーや翡翠が安かった。(中略)わたしも一つぐらいもっていたほうがいいかと思い、思い切ってダイヤモンドを買った。」
と現地での楽しみを語っている。
そう言えば、
馬鹿な韓国人達が
「日本政府に拠る組織的な女性狩り」
みたいな事を言い出したのは
今世紀に入ってからだったかなあ?
