慰安所の経営の多くは、民間人の朝鮮系日本人や中国系台湾系日本人で、
日本軍の経理に関わった朝鮮系や中国系の日本人から日本軍相手の風俗を経営をしたいと軍に申込みがあり、
日本軍公認で経営させたのが慰安所の始まり。
日本軍慰安所には組合があり、経営者らが組合費を払い、慰安婦たちも組合費を払っていた。

慰安所とは、旧日本軍が〃公認した〃売春宿のこと。
戦時中、炭鉱や鉱山に設置された遊郭や、日本以外の軍用売春宿についても用いられる。
「慰安所」という言葉は、
本来は「憩いの場」あるいは「慰安する場」という意味であり、
各国の軍隊同様、日本軍にも食堂、遊技場、劇場など将兵に慰安を供する為の「慰安施設(福利厚生施設)」があった。
こうした日本軍の慰安施設の一つとして、上海事変の頃から、公認の軍用売春宿が置かれるようになった。一般的に、この日本軍公認の売春宿を「慰安所」と言う。
日中戦争から太平洋戦争にかけ、炭鉱や鉱山で働く朝鮮ー人 労務者や中国人労務者の為に企業が設置した遊郭を「(産業)慰安所」と呼ぶこともある。
最近では、日本以外の近代国家の軍隊が公認あるいは黙認した軍用売春宿も慰安所と呼ばれる事がある。ただし、日本以外では単に(軍用)売春宿と呼ぶか独自の俗称で呼ばれており、慰安所とは、あくまでも日本独自の呼び方である。
日本軍の流れをくむ韓国軍では、慰安所(慰安隊)や慰安婦の呼称も受け継がれていた。
日本軍においても、慰安所という呼び名は、統一された公式のものではなく、実際には様々な名称で呼ばれていた。
第二次大戦後の日本で、米軍を中心とした進駐軍の為に設置された売春宿も、慰安所と呼ばれる。
設置地域は沖縄・中国・フィリピン・インドネシヤ・マラヤ(現在のマレーシア)・タイ・ビルマ(現在のミャンマー)・ニューギニア・香港・マカオ・仏領インドシナ。
日本軍の慰安所を5つに分類。1と2が純粋の慰安所である。
1.軍直営の慰安所
2.軍が監督・統制する軍専用の慰安所(特定の部隊専属のものと、軍が指定したものとに分けられる)
3.一定期間軍が兵員用に指定した民間の売春宿(民間人も利用)
4.純粋に民間の売春宿
5.料理屋、カフェ、バーなど売春を兼業した施設
慰安所の多くは、請負契約の形で民間人が経営し、軍がこれを管理した。
軍直営の慰安所もあったが、秦郁彦は、直営は過渡的存在で1938年中にほぼ姿を消したとしている。林博史は、太平洋諸島の小さな島や町では、駐屯部隊が地元民を採用して直営するケースも多々あったとしている。
ソウル大学の安秉直名誉教授は、経営者の半数は朝鮮ー人だったとしている。
朝鮮ー人は台湾人と共に、当時の邦人(日本人)の一部を構成しており、朝鮮ー人の他に台湾人の経営者もいた。
経営者は邦人に限るとする内部規程も残されているが(馬来軍政監部の規程)、日中が戦争中であったにも関わらず、中国人が経営する慰安所も存在した。フィリピンやインドネシアにも、現地人が経営する慰安所が存在した。
日本人や中国・朝鮮ー人の売春業者から兵隊相手の売春宿をやりたいと申し入れが相次ぎ許可した。これが慰安所の始まり。それまで上層部から設置を指示されたことはなかった」(八王子市の94歳男性)慰安所の経営権は民間で売買が可能で、慰安所経営者の組合があった。
慰安所には組合があり、組合事務所があった。選挙で選ばれた役員の下で、防空当番や常会など様々な組合活動が行われていた。
漢口では、内地人の組合長と朝鮮ー人の副組合長を中心に組合が結成され、軍は組合を通じて慰安所を監督した。漢口の組合事務所には、診療所や病室が併設されていた。
シンガポールでは、慰安婦も一人2円の組合費を納めていた(経営者=30円)。後述する「管理人の日記」の著者は、担当の憲兵が転勤の際、組合事務所に挨拶に訪れたと記している。