中国史料における任那
『日本書紀』(720年成立)よりも古い記述を含む。
『三国志』魏書東夷伝・弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説がある。
広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。
『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の『南斉書』も併記を踏襲している。
『梁書』は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
525年前後の状況を記載した『梁職貢図』百済条は、百済南方の諸小国を挙げているが、すでに任那の記載はない。
『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700〜800里の地点に並在している。」と記されている。
『通典』(801年成立)辺防一新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている。
『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。
なお、宋書wa国伝によると、451年に、宋朝の文帝は、wa王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督wa・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたという。また、478年に、宋朝の順帝は、wa王武(雄略天皇に比定される)に「使持節都督wa・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、wa王」の号を授けたという。
『日本書紀』における任那
『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が多く登場する。
崇神天皇65年と垂仁天皇2年の条は一連の記事で、任那と日本の最初の関係の起源を語る。
応神天皇7年と25年の記事のうち25年の条は『百済本記』の引用である。
雄略天皇7年のあたりからかなり詳しい伝承がふえ、同天皇8年の記事では「日本府行軍元帥」の文字がみえ、waの五王の三韓における軍事指揮権との関係が推察される。同21年の記事は有名な百済の一時滅亡と熊津での百済再建に絡んでの記事である。
顕宗天皇3年、阿閉臣事代が任那に赴いたこと、紀生磐宿禰が任那に拠って自立の勢いを示したことが見える。
継体天皇3年にも記事があり、同天皇6年の条は有名な「四県二郡割譲事件」の記事、同21年の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。23年、24年にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。
宣化天皇2年、大伴狭手彦を任那に派遣した。
欽明天皇からはおびただしく記事が増え、ほぼ毎年任那関係の事件が見える。欽明2年(541年)4月の条に「任那」に「日本府」を合わせた「任那日本府」が現れ、同年秋7月の条には「安羅日本府」も見える。同天皇23年(562年)の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。
地理上、任那が朝鮮半島における日本に最も近い地域であり、重要な地域であったことに由来し、日本の史料が最も豊富な情報を提供している。これらの史料によると日本(wa)は、任那滅亡後に新羅に「任那の調」を要求し、それに従って新羅が調(貢物)を納めていた事実が書かれている。
その他の日本史料における任那
『肥前風土記』(713年成立)松浦郡条に「任那」が見える。
『新撰姓氏録』(815年成立)は、任那に出自を持つ10氏とそれぞれの祖が記載されている。「任那」のほか「彌麻奈」、「三間名」、「御間名」と表記される。三間名公の記事には、御間城入彦天皇(崇神天皇)の「御間城」に因んだ国号だとする命名説話があり、吉田連の記事には同天皇の時に吉田氏(孝昭天皇後裔)の祖・塩乗津彦命が任那鎮守として赴任したことが見え、これが任那日本府の起源とされる。
『新撰姓氏録』に登場する任那王は以下の通りである。
賀羅賀室王
都怒我阿羅斯等
牟留知王
富貴王
尓利久牟王
龍主王
佐利王(龍主王の孫)
朝鮮半島史料は編纂の際に呼称を原資料の記述から書き換える傾向がある。任那は次の2つの記載しかなく、最も早いものでも10世紀の成立である。
『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』(924年成立):大師の俗姓について「任那の王族に連なる新金氏」としており、ここでの任那は金官加羅を指すとされている。
『三国史記』(1145年成立):本紀には現われず列伝に1例が認められるのみである(巻46・強首伝:「臣本任那加良人」)。
韓国の捏造歴史
現代韓国では民族の誇りを養う為、政府や学界が、記紀、考古学的成果、広開土王碑、『宋書』wa国伝等の史料を、積極的に曲解する民族史観を国を挙げて推進している。
1963年、金錫亨は「分国論」を発表した。この主張は、三韓の住民が日本列島に移住し、各出身地毎に分国を建てたというもので、具体的には加耶人が広島・岡山に、新羅が東北にという主張である。任那日本府の問題はそれぞれの分国がこれを争ったという解釈である。この説に対しては、『日本書紀』に登場する「任那日本府」を否認するために、『日本書紀』を批判しておきながら、『日本書紀』に登場する出雲神話、天孫降臨、神武東征などは歴史的事実と認め、そこから日本列島内の「分国」の存在を導き出しているのは自己矛盾以外の何物でもない、「分国論」が正しいなら、中国史料をはじめ、日本史料(『日本書紀』『古事記』)、朝鮮史料(『三国史記』『三国遺事』)などに何かしらの記事があるはずであるが、全くないなどの批判がなされ、全く支持されなかった。
高麗大学教授で日本古代史学者の金鉉球は、『日本書紀』にはwaが任那日本府を設置して、朝鮮半島南部を支配しながら、百済・高句麗・新羅三国の三国文化を搬出していったことになっているのに、韓国の中学校・高校の歴史教科書では、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝播される国際関係は説明がなされず、ただ高句麗・新羅・百済の三国が日本に文化を伝えた話だけを教えており、さらに百済・高句麗・新羅三国の文化を日本に伝えたとされる話は、朝鮮最古の史書は12世紀の『三国史記』であり朝鮮の古代の史書は存在しないため、すべて『日本書紀』から引用している。しかし、日本の学者が『日本書紀』を引用して、waが朝鮮半島南部を支配したという任那日本府説を主張すると、韓国の学界はそれは受け入れることができないと拒否するのは、明白な矛盾であり、こうしたダブルスタンダードゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見ているのではないか、と指摘している。