袴田巌さん再審
捜査当局情報に傾斜 袴田さん 毎日新聞報道検証
朝刊2面
毎日新聞
2024/9/27 東京朝刊
静岡県でみそ製造会社の専務一家が殺害された事件当時、袴田巌さん(88)を巡る報道は過熱した。
1966年の逮捕から起訴までは捜査当局の視点に偏った記事が目立ち、袴田さんを犯人視する表現もあった。本紙(静岡県版を含む)の当時の記事を検証した。
毎日新聞は7月4日夕刊で有力な容疑者として袴田さんのイニシャルを使い「従業員『H』浮かぶ」とする記事を掲載。
逮捕を伝える8月19日朝刊では、袴田さんが容疑を否認していることを掲載する一方で「刑事たちの執念と苦しさに耐えたねばりが功を奏して(中略)逮捕にまでたどりついた」と表現した。
袴田さんが「自白」に転じたことを伝えた9月7日朝刊も「全力捜査がついに犯罪史上まれな残忍な袴田をくだしたわけで、慎重なねばり捜査の勝利だった」と、捜査当局と一体化したような書きぶりだった。自白に重きを置きすぎた報道とも言える。
袴田さんはその後、公判で起訴内容を否認。1審判決は時に1日16時間にも及んだ取り調べの手法を批判し、自白調書45通のうち44通を採用しなかった。
取り調べについては「調べ室の袴田は、朝部屋に入ってから一歩も外に姿を見せなかった。昼食、夕食も監視の警官が留置場から運び、小便用の便器まで調べ室に持ち込む有(り)様」(9月10日朝刊)と書いた記事もある。記者が実態をある程度把握していたことがうかがえるものの、捜査手法に疑問の目を向けたものではなかった。
検察側は当初、袴田さんの「自白」に基づいて事件当時の着衣をパジャマとしたが、初公判から9カ月以上たった67年8月に勤務先のみそタンクから血痕の付いた「5点の衣類」が見つかると、着衣の主張を変える異例の展開をたどった。
5点の衣類は、今回の再審無罪判決では捜査機関が捏造(ねつぞう)したとまで指摘された。しかし、1審公判当時は発見に至る経緯や、「自白」の信用性が揺らいだ点について追及した記事はなかった。
当時の静岡支局長は起訴後の署名記事で「『科学捜査』の勝ちどき」と題して捜査をたたえる一方、袴田さんの人格を否定した。支局長は1審判決後は「『袴田判決』の教えるもの」として取り調べの手法を批判する姿勢に転じているだけに、当初の書きぶりの問題が際立っている。
人権侵害、おわびします 編集局長・坂口佳代
袴田さんが逮捕された1966年当時の紙面を振り返ると、袴田さんを「犯人」とする捜査当局の見立てを疑わずに報道していたと言わざるを得ません。
発生から1年2カ月後に発見された「5点の衣類」が犯行時の着衣とされた点についても立ち止まって取材し、紙面で検証することはありませんでした。
なぜ、このような報道を続けたのか。事件から半世紀が経過し、当時の編集局幹部に確認することはできませんが、時代背景が異なっていたこともあり、逮捕された容疑者の人権に配慮する意識が希薄でした。
名前も呼び捨てにしていました。更に捜査当局への社会的信頼が厚く、捜査に問題があるかどうかを疑う視点が欠けていました。
袴田さんが逮捕された際に犯人視するような報道を続けた結果、袴田さんとご家族、関係者の名誉を傷つけ、人権を侵害しました。また、読者に誤った印象を与え、新聞に対する信頼を裏切ることにもなりました。真摯(しんし)に反省するとともに、袴田さんとご家族、関係者、読者におわびします。
毎日新聞は94年に発生した「松本サリン事件」でも、被害者の河野義行さんが事件に関わったとする誤った報道をしました。95年6月に検証記事を掲載し、河野さんに謝罪しました。
過去の反省に基づき、2009年に運用を始めた事件報道のガイドラインでは、容疑者について「無罪推定」が刑事司法の原則であることを確認し、「犯人」と決めつける表現は避けると規定しました。これに先立つ00年には、第三者機関「開かれた新聞委員会」を設置し、外部の目で報道をチェックする仕組みも作っています。
事件報道の問題に共通するのは、捜査当局の見方を確定した事実であるかのように報道してしまう恐れがあることです。当局による情報隠しが行われていないかを監視し、証拠の開示など適正な刑事手続きが行われているかをチェックすることがますます重要になっています。
袴田さんの再審無罪判決を受け、報道による人権侵害を二度と繰り返さないことを改めて肝に銘じ、記者教育を徹底し、読者の信頼に応える報道をしていきます。
https://mainichi.jp/articles/20240927/ddm/002/040/101000c
最も、「不正な手段-美人局取材」で会社傾けた変態だしなぁw
( だ い そ う げ ん
お友達の「場所も赤けりゃ中身も赤い赤坂TBS」のジャニタレ(本木)主演のドラマの元ネタ
『運命の人』(うんめいのひと)は、山崎豊子による小説。沖縄返還時の日米密約を題材に、国家権力とジャーナリズムの戦いを描いたもの。第63回毎日出版文化賞(毎日新聞社主催)特別賞受賞(2009年)。
概要
『月刊 文藝春秋』で2005年1月号から2009年2月号に長期連載され、2009年に単行本・全4巻で出版された。文庫版は2010年12月から2011年2月に同じく全4巻で刊行された。取材と執筆に約8年を要した長編作品で最後の刊行作品であり、生前に出版された最後の小説でもある(後作の『約束の海』は絶筆未完作で遺作として刊行)。
「この作品は事実を取材し、小説的に構築したフィクションである」と冒頭に記載されている。1971年の沖縄返還協定に関する取材で入手した機密情報を記事にする以前に野党国会議員に漏洩した毎日新聞記者の西山太吉らが国家公務員法違反で有罪となった実際の西山事件を想起させる内容である。
あらすじ
特ダネ記者である毎朝新聞政治部の弓成亮太は、大詰めとなった沖縄返還の取材中に、日米間で進められている密約の存在に気づく。
激しいスクープ合戦の中、弓成は証拠となる機密文書を外務省事務官の三木昭子から入手するが、二人が男女の仲であったことを材料に、国は機密漏洩を追及し、やがて世間の関心は国民の知る権利と国家権力の戦いから、二人の関係の詮索へと変質していく。
で、実際の事件
西山事件(にしやまじけん)は、1971年に外務省の女性事務官が男性の新聞記者にそそのかされ機密を漏洩した事件。
事務官は国家公務員法の機密漏洩の罪で有罪が確定し、新聞記者はその教唆の罪で最高裁判所で有罪判決が確定した。
新聞記者の名前から、西山事件、また、沖縄返還協定についての機密が漏洩したので、沖縄密約事件(おきなわみつやくじけん)、外務省機密漏洩事件(がいむしょうきみつろうえいじけん)、その他沖縄密約暴露事件(おきなわみつやくばくろじけん)、西山記者事件とも呼ばれる。
なお、「西山事件」「外務省機密漏洩事件」という呼称を、権力側から見た不適当な呼称とする主張もある。
1971年、第3次佐藤内閣はリチャード・ニクソンアメリカ合衆国大統領との沖縄返還協定に際し、公式発表では地権者に対する土地原状回復費400万米ドルをアメリカ合衆国連邦政府が支払うとしていたが、実際には日本国政府が肩代わりしてアメリカ合衆国に支払うという密約をしていた。
この外交交渉を取材していた毎日新聞社政治部記者の西山太吉 は、外務省の女性事務官から複数の秘密電文を入手し、「アメリカ政府が払ったように見せかけて、実は日本政府が肩代わりする」などとする秘密電文があることを把握。
取材源の保護のため新聞では明確な形で密約を報じなかったが、 今や「風前の灯」のミズポの所の日本社会党(現在の捨民等)議員に情報を提供した。
1972年に議員が国会で問題を追及し、佐藤内閣の責任が問われる事態となった。
日本国政府は密約を否定。東京地検特捜部は同年、情報源の事務官を国家公務員法(機密漏洩の罪)、西山を国家公務員法(教唆の罪)で逮捕した。
記者が取材活動によって逮捕された事態に対し、報道の自由と知る権利の観点から、「国家機密とは何か」「国家公務員法を記者に適用することの正当性」「取材活動の限界」などが国会や言論界などを通じて大論争となった。
一方で東京地検が出した起訴状で「(女性事務官と)ひそかに情を通じ(要するに落としてやった)、これを利用して」と書かれたことから、世論の関心は男女関係のスキャンダルという面に転換。
週刊誌を中心としたスキャンダル報道が過熱して密約自体の追及は色褪せた。毎日新聞は倫理的非難を浴びた。
起訴理由が「国家機密の漏洩行為」であるため、審理は機密資料の入手方法に終始し、密約の真相究明は東京地検側からは行われなかった。
女性事務官は一審の東京地裁での有罪判決が確定。
西山は一審では無罪となったが、二審の東京高裁で逆転有罪判決となり、最高裁で有罪が確定した。
これらの判決はメディアの取材に関する重要判例となっている。
メディア側では、女性事務官取材で得た情報を自社の報道媒体で報道する前に、国会議員に当該情報を提供し国会における政府追及材料とさせたこと、情報源の秘匿が不完全だったため、情報提供者の逮捕を招いたこともジャーナリズムの報道倫理上の問題として議論された。
政府が否定した密約の存在については、2000年代にアメリカ合衆国で存在を裏付ける公文書が相次いで見つかり、当時の日米交渉の日本側責任者だった外務省元アメリカ局長の吉野文六も密約があったことを証言している。
毎日新聞は1966年の新社屋移行の際に無理な部数拡大作戦をとったことで販売500万部を達成したが、借入金が急増し自転車操業に陥っていた、その中で起きた西山事件により朝日新聞、読売新聞から読者の切り崩しを受け、30〜40万人ほどの読者を失ったことが、さらなる経営悪化の一因になったとされる。
さらに当時は新聞各社で購読料の値上げが必要になった際、独占禁止法違反を避けるため大手紙のどこかが輪番で先行値上げする不文律があり、オイルショック翌年の1974年の値上げに毎日新聞は50%超の大幅値上げを強いられたことでさらに部数が急減。
さらに経営が悪化した。1977年(昭和52年)に、債務超過に陥って新旧分離を余儀なくされた。
(つまり「一度潰れた」w
当時週刊新潮編集部員だった亀井淳によると、新潮社のキャンペーンは極めて好評で、一般読者から無数の激励があったばかりか、毎日新聞社の内情を知らせる情報が次々にもたらされたという。
亀井は「この経験で、週刊新潮は言論によるテロリズムの効果と、その商業的な骨法を会得したのだと思う」と振り返っている。
政治部記者が職務上接点のある野党の国会議員に情報をリークしたことが特に問題視されたことから、この事件以降、メディアにおいて日本国政府の不祥事は政治部ではなく、社会部が担当するようになった。リクルート事件が代表的な例である。