「総督府年報 1941」「第9章 産業」「第1節 農業に関する施設」「大綱」

朝鮮は古来農業を以て国を立て、その経済は今尚殆ど農業によって支えられている。しかし、併合以前に於いては長年の実の無い政治の結果、農民の知識は低く、その経済力もまた極めて薄弱であり、農業の改良を企画する考えは無く、官僚の指導はその実績を挙げるのが難しく、加えて古来山林は荒廃に任され、水資源が枯渇し、旱魃や水害を被ることが甚だしく多い。
農業の開発は朝鮮統治上最も重要な綱目の一つであり、総督府は朝鮮の統治開始以来力をここに入れ、農業技術員の配置・農業試験場の設置など農業に関する諸種の指導奨励および試験調査の機関を設け、民情を察し民度に鑑みて農民に対して、実行方法が簡単で効果が大きく確実であり、現金支出の少ない事項を主として奨励し、指導に努めた結果、米・麦・大豆・綿などの農作物と養蚕・家畜・水利事業・果樹栽培など特に異例の発達を見て、その収穫は数年にして概ね倍になり多い物では数倍になった。
日帝は朝鮮の各地に農事試験場を設け、農業上の指導と講習を行い、農事の改良と発達を促し、朝鮮の風土に合った農作物の試験調査と適した種類の育成・配布などを行った。農業指導員は併合以来その増員を行い、1939年時点で、地方に駐在する国費技術員が1171人、各地の道(日本の県に相当)の費用で技術員が2085人にまで増員され、各種の農業の企画策定や現地指導を行っている。
米 :1910年 1040万石 ⇒ 1938年 2414万石 2.32倍
麦 :1910年 620万石 ⇒ 1939年 114万石 2.12倍
大豆:1910年 データなし 1938年 403万石
小豆:1910年 データなし 1938年 42万石
粟 :1910年 データなし 1939年 503万石
綿 :1910年 2100万斤 ⇒ 1939年 2億1032万斤 10倍
麻 :1910年 174万貫 ⇒ 1939年 347万貫 1.99倍
林檎:良い品種は無かった ⇒ 1939年 2214万5295貫
梨:良い品種は無かった ⇒ 1939年 547万7120貫
葡萄: 良い品種は無かった ⇒ 1939年 59万8889貫
1910年から28年間で米や麦などの農作物の生産量が約2倍以上に増加し果樹は美味しい品種を日本から取り入れ、国際的な商品と成った。李氏朝鮮時代は、農民が少しでも豊かになったと噂されるだけで、官僚や両班に目を付けられ、理由を付けて搾取されるので、農民は貧しさを装うことが自衛手段となっていた。この農産物の生産量の約2倍の増大が、同じ期間の人口の1.68倍の増加を支えていたと言える。1938年の農家の戸数は302万3133戸だが1910年の農家戸数が不明の為1923年の農家戸数270万2838戸(『THE NEW KOREA』449ページより)を基準に比較して。
農家戸数
1923年 270万2838戸 ⇒ 1938年302万3133戸(1.12倍)
生産量
米:1923年 1517万石 ⇒ 1938年2414万石(1.59倍)
麦:1923年 771万石 ⇒ 1938年1314万石(1.70倍)
一戸当たりの生産量
米:1923年 5.61石/戸 ⇒ 1938年7.98石/戸(1.42倍)
麦:1923年 2.85石/戸 ⇒ 1938年4.35石/戸(1.52倍)
豆類や粟なども同様に生産量が増えており、朝鮮の農家は日本の統治時代に豊かに成った。農業が庶民にとって魅力のある職業になり、併合の13年後の1923年を基準にしても、農家の戸数が1938年時までの僅か15年で、32万戸も増えた。