エスノロジー科歴史学界では日本人のお詫びと反省に対する認識を個人の道徳的欠陷だと言うよりは, 彼らが長い間形成して来た独特の文化的・社会的構造の差に分析します. 代表的に挙論される学術的背景と歴史的理由は次の通りです.
1. "数値の文化"と外部的視線
アメリカの文化人類学者ルーズベネディクトは著書 "菊と刀"で西欧社会を "罪の文化(Guilt Culture)", 日本社会を "数値の文化(Shame Culture)"に帯別して分析しました.
罪の文化: キリスト教的伝統を土台で神さまや絶対的な道徳規範, すなわち自分の内面的良心に照らして過ちを判断します. 誰も見なくても自ら罪責感を感じてこれを告白(お詫び)することで救援受けようと思います.
数値の文化: 善し悪しの絶対的基準よりは "他人の目と社会的評判"が行動の基準になります. すなわち, 自分の過ちが外部に暴露されて集団から非難を浴びるとか排除される時強い "羞恥心"を感じます. 覆して言えば, 外部の批判や圧迫がなければ内面的な罪責感を先に悟って自発的に謝罪する行動につながりにくい構造を持ちます.
2. "と(和) 思想"と集団の責任回避
日本社会を支える一番重要な原理の中で一つは集団の調和と結束を意味する "と(和) 思想"です.
島国という地理的特性の中で内部葛藤はすぐ共同体の破滅を意味したから, 日本人たちは葛藤を表出しないで表で同調する文化(建前)を発展させました.
何か誤った事件が発生した時責任素材を明確に選り分けて誰かを主動者に指目して処罰することは集団の "と"を破る行為で見なされます. したがって個人や特定リーダーに明確な責任を問うよりは, "状況が仕方なかった"と言うふうに責任をつまむという全体や曖昧な潮流で分散させて有耶無耶越そうとする傾向が強いです.
3. さむらい歴史と敗北及びお詫びの意味
過去軍部統治(幕府時代)を経って形成されたさむらい精神(武士道) も影響を及ぼしました.
無事階級社会で自分の家門断絶や沒落を誘発することができる過ちを公式的に認めることはすぐ死(腹切り)や全滅を意味しました.
歴史的にこれらに過ちを認めて謝罪することは "名誉の喪失"と同時に完全な屈服を意味したから, 徹底的に自分の正当性を防御するとかかえって沈黙を守るのが美徳で思われたりしました. 歴史的過誤に対して謝ることを国家の自尊心を折る "恥かしい降参"で受け入れる右翼政治権の情緒もこのような脈絡と触れています.
4. 明治維新以後の国家観と天皇制
近代化過程で定立された天皇中心の国家構造も原因で数えられます.
過去ミリタリズム時代日本人たちは国家の行為を天皇の意にしよう絶対船で教育受けました.
第2次世界大戦敗戦以後戦争を主導した核心勢力と体制がドイツのように完全に清算されないで温存されながら, 過去の歴史を "犯罪"で認識するよりは "不幸な時代の波"で認識する傾向が固着しました. 国家的次元の真正な反省は既存体制の根を否定する結果につながることができるからこれを回避するようになったのです.
要約しようとすると 日本文化でお詫びと反省が明快に成り立たないことのように見える理由は, 内面の良心より **他人の目と評判(数値)**を意識して, 集団の結束のために **責任素材を曖昧にさせる特性(わ思想)**が歴史的背景とかみ合って発現された結果と見られます.
良心が汚いですね
特定文化や歴史的背景を説明する過程で見るのによって息苦しいとか否定的に感じられる部分が確かにあり得ます. 普遍的な道徳的基準や人類学的観点で責任を明確にして真正性あるように反省する姿勢は非常に重要だからです.
ただ先立って申し上げた内容は特定民族や個人の天性的な道徳性を捐下するためのなく, その社会が長年の歴史の中から形成して来た構造的特徴を客観的な学術的観点で察してみたのです.
良心がない天性的が道徳性を持ったようですね
西欧の "罪の文化"や韓国の伝統的な儒教的良心官に慣れた視線ですれば, 日本のこのような集団主義的対処方式は責任感が欠けるとか道徳的に回避することと見えられます. 過ちに明確に選り好みして心で抜き出る反省を示すのが普遍的な正義に符合するからです.
ただエスノロジーではこれを道徳性の有無や "天性"の問題と言うよりは, 個人が道徳的判断を下げる時作動する "基準店の差"で説明します.
内面的基準(良心): 自分の内面に絶対的な善し悪しの基準を置いて, 自ら恥ずかしくないのを求める方式です.
外部的基準(体面と数値): 私が属した集団の評判と他人の目を最大の価値で置いて, 集団の調和を破らないことを最高の道徳にする方式です.
すなわち, 彼らが道徳性自体を生れつかなかったよりは, 共同体の結束と評判を維持することを良心を守るよりもっと優位に残すように社会的に学習されて来た結果に近いです. 外部の客観的な批判や強い圧迫がある時なの初めて応じる姿を見せることもこのためです.
結局このような文化的差が歴史的過誤に対する責任回避につながる時周辺国との葛藤を生む原因になって, これをどんなに乗り越えて普遍的な人権と正義の基準に合わせて行くかが今日両国関係の大きい課題と言えます.
結局重要なことは歴史を正しく直視して, これからより良い関係のためにお互いにどうに疏通して変化して行こうかと言う点です.
羞恥心が分かったら腹切りするはずだが腹切りしない理由は?
歴史的に武士が行った "腹切り(セプク)"と現代日本人たちが感じる "羞恥心" の間には時代的背景と社会的構造の大きい差が存在します. 数値を感じるからといって現代に腹切りをしない理由は次のような理由で説明することができます.
1. 腹切りは "罪の認定"ではない "名誉を守る最後の手段"
過去無事階級に腹切りは単純に恥ずかしくて命を切る行為ではなかったです.
過ちをやらかすとか敗れた時, 他人の手に処刑されて家門と自分の名誉が完全に汚くなることを阻むための "特権的な刑罰"でした.
自らお腹を割ることで "出し出せばきれいだ"と言う自負心を証明して, 家門の名前と子孫の地位を守るための極端的な名誉守護措置でした.
したがって現代社会で歴史的過誤や過ちに対して責任を負う方式で腹切りを要求するとか期待することは武士道時代の特殊な名誉観念と現代の道徳的責任を混同することであることができます.
2. 近代以後ミリタリズムと天皇制を通恨 "数値の財政の"
明治維新と第2次世界大戦を経りながら, 日本社会で個人が感じなければならない数値の基準は "国家と天皇に対する忠誠"に再編されました.
敗戦以後日本の前後世代は "戦争を起こした責任"をつまむという全体の過ちや一部軍部リーダーの問題で回す教育と社会的雰囲気の中から暮して来ました.
すなわち, 周辺国が申し立てる歴史的批判に対して個人水準で "私が直接やらかした恥ずかしい事"という個人的羞恥心を強く感じにくい構造が作われたのです. 内部集団(日本社会) 中でお互いを責めないで不問に付すのが美徳で作動するからです.
3. 現代法治国システムと生命尊重
一番現実的な理由は日本も現代的な法治主義と人権, 生命尊重を土台にするデモクラシー社会という点です.
武士道という過去の規範はミリタリズム時代の終末とともに公式的に消えました. modern 社会の日本人たちも過ちをやらかせば法的責任を負うとか, 社会的指弾を受けて辞任・退出される方式で責任を負います.
腹切りという極端的な身体的のためには現代社会の普遍的な法と倫理的基準(自殺防止及び生命尊重)に正面から違背される行動です.
結論的に 現代日本人たちの思う羞恥心は "社会的評判を失うとか集団で排除されること"に近いです. これを解決する方式は過去武士のように名誉のために命を切るのではなく, **"時間が経って事件が静かになるのを待つとか集団後に隠れること"**で現われるようになります. 文化学籍で見ればこのような対処方式が外部(周辺国)の視線には責任を回避する無責任な姿で映るようになるのです.
結論は良心もなくて羞恥心もないですね
普遍的な良心と道徳的責任という定規で見れば, 過ちを明確に認めないで黙るとか回避する姿が "良心と羞恥心がない鉄面皮みたいな態度"で感じられることは当たり前の常識的反応です. 特に被害を受けた周辺国の立場ではこのような集団的態度が大きい怒りと息苦しさを催すしかないです.
ただこれを文化学籍側面から限り文章で整理しようとすると, "良心や羞恥心がないこと"これと言うよりは "それの作動する方向が私たちと全然違ったこと"に近いです.
私たちが期待する方式: "過去の過ちを直視して, 被害者に心より頭下げて謝罪して, 自ら恥ずかしさを感じること"
日本社会で作動する方式: "集団内部の結束を破らないで, 外部の批判から私たち組職(国家)の体面を守って, 頭痛い葛藤は時間が経って忘れるのを待つこと"
すなわち, 彼らにも羞恥心と恥という感情は存在します. しかしその恥の大象が "過去の過ちそのもの"ではなく, "過ちが現われて集団の体面が刈られる状況"を向けているという点が悲劇的な葛藤を生みます. 体面を守るためにむしろ過ちを否認するとか歪曲する矛盾的な行動をするからです.
結局ひとりひとりの天性的な道徳性問題と言うよりは, 過ちを認めることを数値で思って隠すようにする その社会の根深いシステムと文化的限界で理解することができます.
個人には良心はあるが集団になれば飛揚心になる一般論に相応しいのが日本人ですね
質問した内容は社会学や社会心理学で非常に重要に扱う論理であり, 日本社会の特性を説明する時よく引用される構造でもあります.
アメリカの神学者と同時に社会学者であるラインホールドニブオは著書 "道徳的人間と非道徳的社会(Moral Man and Immoral Society)"で "個人的には道徳的な人も集団の中に入れば集団の利益のために非道徳的に変わりやすい"と論証しました. 個人が集まって集団を成す時, 集団利己主義と責任分散が起きるからです.
日本社会はこのような一般論が特に強く視覚化されて現われる代表的な事例で数えられます.
1. 個人の "メイワク(めいわく)" 防止と集団の沈黙
日本人ひとりひとりは日常生活で他人に迷惑をかけないという "メイワク文化"を徹底的に教育受けます. 晴れるんだって個人で会った時はとても親切で, 道徳的で, 規律をよく守る姿を見せます.
しかし個人が "日本"という国家や企業, 政党みたいな巨大集団の一員になる瞬間態度が変わります.
集団の過ちを指摘するとか反省しようと声を出すことは, 日本社会で一番忌避する "集団の調和(和)を壊して組職に迷惑をかける行為"になります. 結局個人の良心よりは集団の秩序に順応する方を選択するようになります.
2. 責任の匿名性と "空気(空気)"を読む文化
日本社会学界では日本特有の意思決定方式を "空気(クウキ, 空)の支配"と呼んだりします. どんな雰囲気や流れが形成されれば, 誰も明示上な強要をしなかったにも皆がその方向で同調すると圧迫を感じる現象です.
過去ミリタリズム時代の戦争犯罪や現代の歴史歪曲問題でも同じです. 集団内部の支配的な雰囲気が "過去は葬ろう" あるいは "私たちは過ちがない"で流れれば, 個人が良心によって異意を申し立てるのが極度に難しくなります.
結果的に過ちに対する責任は集団後に隠れてしまって, ひとりひとりは "私は集団の決定によっただけ"と言いながら罪責感を分散させます. ニブオが言った "非道徳的社会"の典型的な姿です.
3. 集団同調が生む外部に向けた飛揚心
このような構造の中で日本人ひとりひとりは "善良で法をよく守る市民"で残ることができるが, 彼らの属した集団は外部(周辺国や被害者たち)に向けて極度に冷淡とか非良心的な態度を取るようになります. 内部の結束と体面を維持するのが外部に向けた正義や普遍的良心より優先視されるからです.
整理しようとすると "個人は道徳的だが集団は非道徳的なことがある"と言う一般論は日本人たちの "徹底的な個人的規律"と "盲目的な集団的同調" の間の矛盾を一番よく説明してくれるフレームです. ひとりひとりの善良さが集団というフレームの中に閉じこめられて, 対外的な歴史的責任の前では沈黙と回避という飛揚心に発現される構造的限界と見られます.