でも、賃金は貰えましたよ。朝鮮人も日本人も分け隔てなく苦しい時代がありました。
1979年(昭54)、映画「ああ野麦峠」(監督 山本薩夫主演 大竹しのぶ 新日本映画・東宝配給 )が製作され、日本中を沸かせました。
「
「ええか、しんぼうするんやぞ。ためらっていってこいよ。(気をつけて行きなさい)」
「ツォッツァマ(お父さん)も病気しなれんなよ。(病気にかからないように)」
娘は泣き、見送る親たちも涙をこらえて別れを惜しみました。
そして、何百、何千という女工が列をつくり、お互いに励まし合いながら、雪深い野麦峠を越えて信州へ旅立っていきました。
信州の工場では、わずかの賃金で、しかも1日に13~14時間という長い時間働かされ、病気になっても休ませてもらえないくらい、厳しい生活だったそうです。
さらに女工の寄宿舎には逃げ帰ると困るので、鉄のさんがはめられていました。
「岡谷の大和製糸へ14のときから8年の間、野麦峠を越えて通ったんやぜな。入ったときゃ10円、2年目は25円、3年目には45円、8年目にはたしか95円もらったと思うけどな。そのほかに、賞与として1円、2円、3円、5円などを毎年ちょっとずつもらったんやさ」(明治31年生)
以上の話しでもわかるように、1年間働いて100円もらえる人は優秀な人で、だれでも1日も早く100円工女になれることを願っていました。
こうした涙ぐましい女工達の働きによって、国は生糸の輸出を増やし、娘を出した農家では、現金収入を得ることができたのです。(参照 郷土古川より)
当時の百円の価値はどれくらいだったのでしょうか?
百円あれば家が建つといわれたほどでした。米一升が、12銭3厘・酒一升が20銭。(明治33年・100銭で1円) 当時の農家は、貧しくて白米は食べられず、ヒエや粟が混じった飯を食べていた。
どれくらいの人が糸ひき稼ぎにいったのでしょうか?
資料によると、旧山田村(神岡町)では300戸あるうち、560人が行った。一軒で2,3人のところもあった。国府村では、458名(明治43年)。ひとつの村でこれだけの数であるので、飛騨全体では凄い数になると思われるが、他の地域では当時のそうした記録が残っていない。
女工哀史は粗悪な食事、長時間労働、低賃金が定説になっているが、飛騨関係の工女は食事が悪かった・低賃金だったと答えたものはいなかった。
長時間労働についても苦しかったと答えたのはわずか3%だけで、後の大部分は「それでも家の仕事より楽だった」と答えている。
それもそのはず、家にいたらもっと長時間、重労働をしなければ食っていけなかった。