線を見下げた列強を料理したヒロイン, 日帝の侵略野慾に抗して残酷な日本浪人の刀に悽惨に弑害された非運の国母. 国史が描いておいている ¥"明成皇后¥" 上だ.
彼女の血なまぐさい最後は列強の侵略の前で気鬱御けは朝鮮王国の非運を象徴する悲劇のように認識されて来た. 最近には彼女を立てたミュージカルが製作されて海外公演まで成り立った. それで私たちは今も彼女を思い浮かぶ度に切ない追慕の感情を抱くようになる.
しかしこんな王妃閔さんの姿は果して理性的なことで歴史的真実に符合するか. 結論から言えば ¥"列強を料理したヒロイン¥"だとか ¥"抗日愛国烈士¥"だのするもてなしは彼女にとんでもなくて似合わないというのだ. むしろ彼とは反対に自分の実家家族たちの福禄と権力維持のために無分別に外勢を引き入れて終わらせるこの地を外勢の戦地で作った日給亡国輩だったと見ることが彼女に対する正しい評価であるでしょう. 筆者は近刊された ¥"李完用評伝¥"を書きながら明成皇后の行績を接する度に ¥"あ, この女人が国を台無しにするね¥"という痛嘆を数えきれなく噴き出さざるを得なかった.
目的達成ために清-ロシアと手を取り合ったり
明成皇后弑害は, その施行は日本人がしたが ¥"巨事¥"の主犯はあくまでも大院君だった. 明成皇后弑害は一言で 1873年 11月大院君が明成皇后の策動によって権力の座で追い出された以来 22年間続いた嫁女としゅうと間の醜悪が極まったグォンリョックゼングタルグックの終決の方にあたる. こんな事情を度外視したまま ¥"日本の侵略野慾に抗して国母が弑害された¥"と言うふうに近付けば私たちは永遠に明成皇后の時して事件の実体に近付くことができない.
1882年 6月壬午軍乱が起きた時乱軍を避けて忠州で身を避けた明成皇后は彼女の甥閔泳柿と謨議して清軍隊を引き入れる. 明成皇后はソウルに進駐した清軍隊にロビーして旧式軍隊に背負われて権力の座に復帰していた大院君を清で拉致して行くようにする. 3年後の 1885年清が大院君を解いてくれようとすると閔泳柿を急に清北洋代わりイホングザングに送って大院君をずっとつかまえてくれと言って哀願する醜態をしたりした. 清が明成皇后の懇請を無視して大院君を換局させると明成皇后は目をさらにして大院君の手足たちを捜し出して処断した. 大院君が換局してから一ヶ月間にこんなに閔さん戚族の手につかまって死んだ大院君の側近人物が 30人が越える. 大院君の明成皇后に対する恨みがいくら骨にしみたのかは見当をつけるのに十分である.
1894年正月全羅道よめしゅうとめで東学百姓軍が一揆すると明成皇后は彼女の手足である戚族閔英俊をウォン三個に送って清国軍隊で東学君を討伐してくれと哀願する. 清国軍隊が出動すると日本も待ったというように大規模で軍隊を上陸させて遂にこの地は清-日両国軍の戦地になってしまう.
日本は大院君を先に立たせて閔さん戚族を権力で全部追い出した後檀君であると言う最大の開闢だと言える甲午更張を推進する. 大院君が日本に背負われて閔さん戚族を権力でとり除いたのだ. この時から明成皇后は日本に歯ぎしりしながらロシアにモーションをかけ始めた. 日清戦争が終わった直後日本はロシアを主軸にしたドイツフランスなど 3グックガンソブに屈服して戦争賠償で割譲受ける事にした搖れ半島をまた清国に返すようになる. このようになると明成皇后は自分の実家家族たちを権力に復帰させるために新しい強者で登場したロシアに本格的に付いた.
3グックガンソブ以後ロシアが清国と朝鮮の保護国を自任しながら将来朝鮮を竝合しようと思うということは当時馬鹿ではなければ誰も気づいていた. 実際に当時朝鮮に対する野慾という面では日本よりロシアがずっと露骨的で荒かったし攻撃的だった. ロシアはシベリア横断鉄道の極東側終点と繋がれることができる不凍港を朝鮮で捜していたのだ.
したがって日本を排斥してロシアに付いたということが愛国的だったという仮説は成立されない. 明成皇后が日本を排斥してロシアに付いたことは決して国の自主独立のための百年大計から出たのでもなかったしぼろを着て飢える民たちを求めようとする苦肉の策はドドグンダやなかった. 彼女にこんな考えはエシダングチォから毛頭もなかった. 彼女の唯一の行動同期は自分の実家家族たちをまた権力に復帰させて低能児に違いない自分の息子(後の従順)を無事に王位に座らすのだった. 彼女はこの目的のためなら誰とも手を取り合った. それで日本が威勢を使う時はソウル駐在日本工事Inoueにモーションをかけたりした.
明成皇后が露骨的に日本を排斥してロシアに付くと大院君と日本は明成皇后除去という共通目標に合議するようになる. 明成皇后の時して事件当日の 1895年 8月20日(陽暦 10月8日) 夜明け 3時, 大院君は ¥"アムヨウ(明成皇后)を殺しなさい¥"と叫ぶ一応の日本浪人たちと朝鮮軍訓練台軍卒たちの護衛を受けて自分の居所だった麻浦功徳里別荘を離れて景福宮に向ける. 大院君は一緒について行くのを懇請する宗孫者李峻縁にお前はここに残っていている途中今日の巨事が失敗すれば日本で亡命して後日をはかりなさいと言った後お御輿に上がった.
大院君は出発に先立って自分の巨事主旨を明らかにする ¥"故幽門¥"を発表してこれをソウル市内に掲示しなさいと指示した. 故幽門は ¥"閔さん戚族が権力を取って甲午更張の改革を無為で回して国を危なげにさせているからこれらを清算してしまう¥"と言う内容だ.
これより四日前の 8月16日には大院君の功徳里別荘愛で日本人宮内部顧問官岡本リュウノ−スケが明成皇后除去と係わった 4項目の覚書きを大院君に提示して大院君の自筆署名を受け出した. 各では巨事の後大院君が国王を補助して宮廷を監督するが情事は内閣に任せて一切の干渉しないということが核心内容だった. 日本は明成皇后をとり除いた後大院君が政治に関与することができないようにあらかじめいら虫を打ち込んでおいたのだ. この日大院君が覚書きに自筆署名する席には大院君の長男である異才面と長孫者李峻縁も一緒にいた.
理性失ったしゅうと-嫁女の権力闘い
景福宮盛るノムオドルオが光化門を開きあけた日本ナングインペと朝鮮軍訓練台兵士らは直ちに明成皇后の沈澱である屋号塁で乱入して彼女を弑害した. 彼女が最後の死ぬ場面を目撃したことは訓練台第2大隊長禹範善(肉腫学者禹長春のお父さん)だった. 明成皇后が殺害されたということは軽服宮内綱領前にとどまって休息を取っていた大院君に直ちに報告された.
こういうわけで 22年間続いたしゅうとと嫁女の理性失った権力闘いは大院君が日本ナングインペと訓練台兵士らを導いて景福宮に入って来て明成皇后を殺すことで幕を閉じた. 大院君は怖気ついた高宗が彼を呼ぶ形式を借りてこの日朝軽服宮内乾清宮で息子と対面するようになる. 大院君が乾清宮で向けたまさにその視覚, 明成皇后の死体は一重布団に包まれたまま大闕松森に移されて石油が振り撤かれた中に初秋の夜明け空で一筋延期になって消えていた. 大院君は高宗と対面した席で自分の長男異才面を宮内部代わりに座らしてまた政権を掌握する.
当時朝鮮に駐在していたアメリカロシアイギリスドイツフランスなど欧米国家外交官逹は明成皇后弑害と係わって日本側の責任を追窮しながらもこの事件の主犯が大院君というところには異見がなかった. それで彼らは皆大院君を忌避人物にした.
¥"明成皇后また表示¥"を提案しながら重ねて言うが, 大院君を擁護するつもりはみじんもない. ただ ¥"国母¥" ¥"ヒロイン¥" などのイメージで最近復活している明成皇后の行績を厳正に計算して見る必要があるという考えだ. それはすなわち亡国の責任所在を正確に明らかにする事であり, 私たちが ¥"大まかに飛ばした¥" 日製清算作業を新たに急き立てるきっかけになることもできるでしょう. 歴史の真実をそっぽを向くことはできない.
明成皇后を殺した犯人は日本人ではなくて朝鮮の.
ユンドックした/ 民族問題研究所研究員