http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100813/acd1008131317002-n2.htm
産経新聞 2010.8.15
先の大戦の激戦地、フィリピン・レイテ島の山中に、32歳の若さで戦死した旧陸軍の山添勇夫大尉の遺徳をしのんで現地の住民が建て、大切に守り継いでいる慰霊碑がある。今年7月、慰霊の旅で現地を訪れた兵庫県西宮市の須田一彦さん(69)により確認された。

茂る草木、碑の周囲だけ清掃の跡
山添大尉は京都府岩滝町(現・与謝野町)で江戸時代から続く丹後ちりめんの製造元の末っ子として生まれた。昭和12年に召集された後、レイテ島東岸、飛行場があるドラグ市の守備隊長を務めていたが、18年4月、ゲリラとの戦闘で亡くなった。
須田さんは、叔父の須田謙吾少尉=当時(29)=をインパール作戦で亡くした。定年退職後、千島やミャンマーなど旧戦地を巡る慰霊の旅を続けている。
フィリピンを訪れたのは4年前に続き2回目で、7月8~16日にルソン島とレイテ島を1人で回った。その際、ドラグ市から内陸部に向かう途中の山中で偶然、道路沿いに立つ慰霊碑を見かけた。
碑は高さ約3メートルで、軍服姿の山添大尉の遺影があしらわれ、コンクリート製の台座には日本語の碑文も刻まれていた。付近は草木が生い茂っていたが、碑の周囲だけは刈り取られ、手入れが行き届いていた。碑文などによると、山添大尉は地元住民にも公平に接して面倒を見たため、碑はその遺徳をしのんで建てられたという。
山添大尉の兄の孫にあたる憲一さん(60)は「慰霊碑ができたことは以前に聞いていましたが、戦後65年が過ぎても、現地の方々は大尉のことを慕ってくれているのですね」。憲一さんの妻の明子さん(56)は「現地に、ぜひ一度訪れてみたい」と話している。
日本人の墓は建築資材に
http://qnet.nishinippon.co.jp/travel/busan/anaba/20091102_2087.shtml
西日本新聞 2009.11.2
韓国釜山市西区峨嵋洞(アミドン)地区。足元に目を落とすと、「国分治之墓」「西山家之墓」などと刻まれた日本人の墓石が、塀や家の基礎など、至る所に使われている。日本統治時代(1910-45年)、ここに住んでいた日本人の墓石だ。
塀に埋め込まれた墓石、プロパンガスや植木鉢の台にされた墓石、階段の一部と化した墓石。中には欠けて路上に放置されたままのものもある。
日本人の墓は墓石を囲む2、3メートル四方ほどの囲いがあるものが多く、囲いを柱にして屋根を張ると小さな家ができたというのだ。家族が暮らすには中心部の墓石が邪魔になるので取り払い、階段や塀などに使った。
西区の峨嵋洞事務所長も務めた金課長によると、同地区には300基ほど墓があったらしい。現在、目で確認できるのは100基ほど。共同墓地の管理人が持っていたという全5巻の名簿も墓地移転で紛失し、全体像はつかめない。
(抜粋)

路上に放置された墓石