Hapkidoは元々は、その流派の歴史が真に貧弱であった。
・開祖は山中で仙人に会い秘伝を受けた。
・寺院の中で密かに伝承されていた。
・一子相伝の秘術であった。
・高句麗遺跡の壁画に描かれたものが起源だ。
(テコンドー、テッキョン、シルムも同じことを言っている)
・新羅の時代の戦士が行っていた武術だ。
(新羅文化は何も残ってない)
これは、大東流が主張する
「新羅三郎義光が創始し、甲斐武田家に伝承、その後、会津藩に引き継がれ、明治の世になって、中興の祖・武田惣角によって世に知らしめられた。その合気の術なるものは見る者を驚嘆させるに充分な神秘・強力なものであった」
韓国の主張は、その正当性に対抗するだけの力を持たない。
その動揺の中で浮上したのが韓国Hapkidoの実質的な開祖・崔龍述が大東流・武田惣角の弟子であったという事実だ。(実際は、そういう記録は無く、嘘の発言だと言われている)※1
(※1 武田惣角の弟子の中に吉田朝男という日本名は居なかったと判っている。)
そして、これを受け、上記のHapkidoの歴史は下記のように捏造した。
まず、韓国の言論や雑誌に以下の記事が載った。
「武田惣角が当時15歳の弟子の崔龍述(日本名 吉田朝男)を連れて北海道にやってきた。暴漢に襲われたが、たちどころに撃退。これを木陰で見ていたのが、後の合気道開祖・植芝盛平で、旅館を訪ね、武田惣角に教えを願ったが「おまえの人相に悪相が出ている。教えるわけにはいかない」と断られた。数度通ったが同じだった。植芝盛平はなんとかして武田惣角と崔龍述の稽古を覗き見ようとしたが、当時、大東流の道場は外から覗けない密閉した部屋であったので、出来なかった。そこで彼は崔龍述に贈り物を贈って大東流の手を習った。後に武田惣角はこれを知り、崔龍述を叱りつけ、植芝盛平を呼び出し、「子供を騙して武道の手を習うとはなんという卑怯な男か!」と叱ったので、植芝盛平は小さくなって謝った」
後日、韓国の某ハプキドサイトは、この全文を掲載し、Hapkidoの歴史とされた。
「大東流の正式な継承者は崔龍述。Hapkidoこそ正式の大東流」という説が、「大東流の始祖は新羅人である源新羅三郎義光」※2 という説とともに主張されはじめていたのだった。
(※2 そもそも源新羅三郎義光(源 義光)は新羅人ではありません。)
韓国の師弟関係というのは日本とは違う文化のようである。師匠が教えている間は厳しいほどに絶対服従であるが、独立すると全く縁を切ってしまう事が多いようだ。
「韓国武道では上の先生から離れることは縁を切ることだ」と言われる。
テコンドーも師弟関係で縁を切る者が続出して、同じような経緯を辿ろうとしたが、国家権力による強い圧力で管理・監視された為、あまりバラバラに別れずに済んだと思われる。
崔龍述の弟子も崔龍述が亡くなると、残した遺品や資料は全て捨ててしまったという。
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ハプキドの創始者 崔龍述の、ころころ変わる矛盾した証言
1962年出版「合気術」「総裁崔龍述先生修道記」
1899年7月、忠清北道・黄澗で次男とて生まれる。少年時代両親と親しかった日本人製菓業者・山田大吉に可愛がられる。
1982年米国でのインタビュー
1904年生まれ。少年時代を忠清道永東で過ごす。日本人の飴屋・森本に誘拐され日本へ連れていかれる。ずっと不平を言って泣いていたので、困った森本は山口県の門司で少年崔龍述を捨てた。言葉もわからないまま大阪まで歩いていった。
1962年出版「合気術」「総裁崔龍述先生修道記」
1908年、山田大吉が製菓業を中断し日本に帰国する際、少年崔龍述を連れて行く。山田氏の故郷、九州・八幡市?(このような名前の地名は無い)で少年は望郷の念にかられ帰りたがり、山田夫妻を困らせた。夫妻は元武士であった寺の住職・山本秀雄に崔龍述少年を預け、旅立った。山本と少年には情が通い、山本は少年を養子とした。4年経ち14歳の時、山本の友人であった武田惣角が来訪した。山本は崔龍述を門下に勧めた。武田惣角は崔龍述を含む5人の門下生を連れて新潟県信州市信州山?に入り、8年間武術修行をした。
1982年米国でのインタビュー
警官に保護されたが身寄りがないと知ると警官は彼を京都の寺に預けた。住職は渡辺金太郎と言い、そこで2年間暮らした。渡辺は武田惣角と親しく、彼を養子 にすることを勧めた。惣角は吉田朝男という日本名を与えた。この時11歳であった。この後、惣角の家と道場があるアケダのシンス山に行き、彼の家で20年を過ごした。
1962年出版「合気術」「総裁崔龍述先生修道記」
大正8年下山、東京日本橋に6年間居住。この間、武田惣角は皇室で大臣たちを教授。以後、武田惣角は全国に巡回。北海道北見沢市に8ケ月居住。旭川で5年過ごし、合気術を練磨・教授した。小樽市色内町1丁目45で渡辺金太郎が営む旅館で崔龍述は武田惣角に父のように仕え
1943年、武田惣角は高齢と病で重態となり、北見沢市に住む息子に連絡をとった。惣角は虻田村で87歳の生涯を閉じた。崔龍述は韓国へ帰国
1960年3月、大韓合気術武道会と道場に命名し合気術を広め、大韓合気術武道総本部を大邱に置いて全国の合気術道場を統轄した。
1982年米国でのインタビュー
28歳の時、惣角や高弟たちとハワイへ行き演武をした。惣角は日本の敗戦を恥じ、自ら食を絶って死んだ。その時、惣角は大東流のすべての技を伝承したのは崔龍述ただ一人であると言い残した。」
武田惣角はシンス山(存在しない地名)等の山に入山した形跡は無く、その頃は湧別で大東流を佐川幸義、堀川幸道、植芝盛平らに教えている。武田惣角が皇族・大臣に教授したりハワイで演武した事実もなく、青森で客死するのは1943年、83歳であった。
「合気術」は崔龍述が監修している。
この中には日本中の合気術の有段者たちは沖縄戦に投入し惨死させられた、と訳のわからない記述もある。(だから大東流の伝承者は崔龍述しか生き残っていないという主張が生まれた。)
実は崔龍述が誰から大東流を習ったかについての有力な証言がある。
吉田幸太郎の弟子であった米国の空手家リチャード・キム(沖縄の人ですので「金武」と表記すると思います)が、ハワイのハプキド道場の指導者の問い合わせに対する回答されたものだ。

その中で彼は吉田幸太郎と崔龍述=吉田朝男との縁組関係は否定したものの、崔龍述が吉田幸太郎の優秀な弟子であったことを述べている。
http://www.potku.net/forum/viewtopic.php?f=7&t=5461
崔龍述が何ゆえ「自分は武田惣角の一番弟子」と語り、この吉田幸太郎のことを語らなかったかは本人の事情だろうと考えるほかは無い。武田惣角のほうが武術家として名を知られた人物であったからという単純なものであったかもしれない。また吉田幸太郎門下で、どのような生活を送っていたかも、今となっては判らない。
崔龍述には独立回復後、外国帰りの独立運動家が政権を牛耳り、ナショナリズムが高まった韓国では、売国奴を意味する「親日」と弾劾されかねない経歴があり、それを隠す目的があったのではないかと想像する。』
韓国の多くの武術が韓国起源と主張している背景は、親日派粛正と関連があると推測できる。