以下、「以下、以下の投稿の続きです。」と言う文までは、前回の投稿と重複します。
参考に、以下、「」内。私の前の投稿文より。。。
「私は、女性に、結構合わせているようでいて、その一方において、実は、女性に結構、自分の趣味に付き合って貰って来てもいます。今の彼女も含み、相手の女性は、それはそれで、私色に染まって、私の影響を受けて、私と共に、楽しんで来てくれました(楽しんでくれてます)。ちなみに、私の今の彼女は、元々、好奇心が強い性格です。」
「私は休日を外で過ごす事は好きで、美味しい物を食べる事、自然の中を散歩する事、温泉に入浴する・温泉旅館等の温泉宿泊施設に宿泊する事、芸術や花を愛でる(鑑賞する)事等は、好きなのですが、本格的な登山やキャンプ等のアウトドアは好みません。
私は、交際する女性との趣味が合うか合わないかと言う事は、若い頃は気にしなかったのですが、成熟した大人になってからは、私と趣味が合う女性を好きになるプラス交際相手の女性が、私色に染まってw、私と趣味が合って来ると言う事を合わせて、私と趣味が合う女性と交際するようになりました。」
「前述の通り、実は、私の気が多い性格から、私の今までの、恋愛の結末のほとんどが、交際相手の女性にとっては、GO
BANG‘Sの曲の、「BYE-BYE-BYE」の歌詞のような結末で終わらせてしまったのですが(本当に、ごめんなさい)、私が当時、交際していた女性(私の元カノ)と別れた原因も、私が当時、交際していた女性(私の元カノ)には、本当に、申し訳なかったのですが、私が、私の今の彼女の事を、とても好きになってしまった事です(ちなみに、その時、私の今の彼女は、とても若かったのですが、その時、私は、別に、私の今の彼女の、その点に、惚れた訳では全くありませんw)。
私は、私の元カノと、親しい友人として、現在まで、ずっと交流が続いています。ちなみに、私の元カノは、私と別れた後、今、夫となっている男性(結婚した男性)とは違う男性達との交際やデートの経験を経て(ちなみに、私は、その事に関して、よく、その元カノの相談に乗る等していました)、比較的、最近の話なのですが、優しく頼りがいのある素敵な男性(彼女の事を、十分に幸せにしてくれるであろう男性。ちなみに、その男性は、長身でイケメンですw)を見つけて結婚をし、今は、主婦として幸せに暮らしています。
また、私の今の彼女と、私の元カノは、元々、面識はあり、知り合い同士であったのですが、今は、親しい友人同士となっていて、私の今の彼女と、私が当時、交際していた女性(私の元カノ)は、二人きりで遊びに出掛けたりもしています。二人とも、趣味や価値観があって、とても仲が良いようです。それは、もしかしたら、前述の通り、私は、交際する女性との趣味が合うか合わないかと言う事は、若い頃は気にしなかったのですが、成熟した大人になってからは、私と趣味が合う女性を好きになるプラス交際相手の女性が、私色に染まってw、私と趣味が合って来ると言う事を合わせて、私と趣味が合う女性と交際するようになったのですが、その事も、関係しているのかもしれませんw」
「ちなみに、私の今の彼女(以下、彼女と書きます)とは、私が今までに交際して来た女性の中で、交際期間最長記録を更新中ですが、私が彼女に振られない限り、私は、彼女の事を、これからも、ずっと大切にして行きたいと思っています。」
以下、基本的に、2011年の10月の上旬に行った投稿の再掲で(投稿文は、2011年の10月の上旬の投稿を前提としています)、2011年の7月の下旬に、個人的に休みであった日に、当時、交際していた、私の元カノ(以下、彼女と書きます)と、上野(ueno)を散歩して来た時(以下、この日と書きます)の物です。
なお、投稿の写真は、この日の、大雑把な流れには沿っていますが、投稿の便宜上、必ずしも、撮影した順番に並んでいる訳ではありません。
上野(ueno)は、東京都心部の東部に位置し、浅草(asakusa)と並ぶ、東京の下町(東京都心部東部。旧市街)最大級の繁華街となっています。上野(ueno)には、上野(ueno)公園があります。上野(ueno)公園は、東京中心部にある公園の中では、最大級の公園の内の一つであり、また、美術館・博物館等の文化施設が集まっています。
この時の、上野(ueno)散歩の主目的は、上野公園内にある国立科学博物館で、この時開催されていた、恐竜の展覧会(exhibition)を見る事でした。国立科学博物館(1877年設立)は、日本の、国立の(厳密には微妙に違いますが、ここでは説明は、省略します)、科学博物館です。科学に関する、非常に多くの資料を収蔵する博物館で、規模が大きく、見応えのある博物館です。
私は、子供の頃、博物館が好きで、この国立科学博物館や、交通博物館、科学技術館に、よく行きました(幼い時は、親に連れて行ってもらいましたが、小学校4年生頃からは、同じ興味を持つ友達(達)と、小学生だけで、行く様になりました。中学生になってからは、ほとんど行かなくなりましたが。。。)。私は、幼い頃、恐竜に、とても興味があったので(私は、幼稚園当時、恐竜に、とても興味があり、幼稚園児基準で、恐竜に、とても詳しかったので、男子達からは恐竜博士とも呼ばれていましたw)、取り分け、国立科学博物館の、恐竜に関する展示は、印象に残っています(ちなみに、かつては、本館(honkan)(現在の日本館)の1階が、恐竜に関する展示室となっていました)。
国立科学博物館は、近年、大きな改装がなされました。私は、今回、国立科学博物館を訪れたのは、とても久しぶりで(15年ぶり位)、改装後の、国立科学博物館は、今回、初めて訪れました。
国立科学博物館の現在の建物は、1931年に建てられた、重厚な近代建築の本館(honkan)(日本館)の建物と、近年の改装に合わせて建てられた(建て替えられた)、(本館(honkan)(日本館)に隣接する)現代建築の地球館の建物から成ります(現在の地球館の建物が建てられる前にも、国立科学博物館には、展示の為の建物として、本館(honkan)(現在の日本館)に加えて、本館(honkan)(現在の日本館)に隣接した現代建築の建物がありましたが、改装に合わせて、建て替えてしまった方が、効率的と考えられたのか、近年の改装に合わせて、現在の地球館の建物に、建て替えられました)。
以下、以下の投稿の続きです。1931年に建てられた、近代建築の本館(honkan)(日本館)の建物に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
国立科学博物館 恐竜展他1→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3870770?&sfl=membername&stx=nnemon2
写真以下31枚。国立科学博物館の本館(honkan)(日本館)の、常設展示物の例の続きです(本館(honkan)(日本館)の展示物の例に関しては、すぐ上でリンクを付けた前回の投稿も、参照して下さい)。なお、今は、どうか分かりませんが、この時は、国立科学博物館の本館(honkan)(日本館)の常設展示室の一部は、節電(下の補足説明参照)の為、一時閉鎖(公開が休止)されていました。
節電:東京areaは、東日本大震災(下の補足説明を参照)の原子力発電所の問題により、電気の供給力が、通常よりも弱まっている為、節電(電気の節約)の雰囲気にあります。ちなみに、現在は、節電の雰囲気は、一時期程ではありません。。。
東日本大震災:今年(2011年)の3月11日に、東日本(日本の東部)を襲った、巨大地震。多くの人々が亡くなったが、亡くなった人々の、ほとんどが、日本の、東北地方の海沿いに暮らしていた人々で、地震による津波(tsunami)からの、避難に、遅れた事により、亡くなった。

写真以下2枚。発掘された頭蓋骨(の複製)から、復元された、縄文(jomon)人と弥生(yayoi)人の顔。写真右側が、縄文(jomon)人。写真左側が、弥生(yayoi)人です。


以下、「」内の説明は、国立科学博物館の説明を、ほぼ引用した物です。
「現代へと続く、日本列島の人々の礎(基礎)となったのは、縄文(jomon)人の血を引く在来集団と、大陸からやってきた渡来集団(弥生(yayoi)人)と言う、姿形(外貌)や文化の異なる、二つの集団です。古墳(kofun)時代(3世紀半ばから6世紀)以降、(日本列島に暮らす人々の)集団の構成を変化させる様な、(他民族の)、大規模な、日本列島への渡来はなかった様です。縄文(jomon)人と弥生(yayoi)人と言う二つの集団の混血の度合いと、時代による生活様式の変化や環境要因の違い等によって、日本列島に暮らす人々は、大きく、三つの地域集団(本土日本人、琉球(ryukyu)人(沖縄(okinawa)人)、アイヌ(ainu)人)に分かれて行きました」。
「14,000年前、あるいは、それ以前から、日本列島には、縄文(jomon)人が暮らしていました。そして、3,000年から2,000年前、既にアジア大陸の北方(北)で、寒冷地に適応していた人々が、主に、朝鮮半島を経由し、西日本に渡来し、縄文(jomon)人と適応しながら、日本列島に拡散して行きました。これが、渡来系の弥生(yayoi)人で、その子孫は、古墳(kofun)時代(3世紀半ばから6世紀)以降も、縄文(jomon)人と混血しつつ、分布地域を広げ、ほぼ、日本列島の全土を占める様になります。これが、本土日本人です。渡来系の弥生(yayoi)人は、南西諸島にも広がり、縄文(jomon)人の子孫と混血し、琉球(ryukyu)人(沖縄(okinawa)人)となりました。一方、北海道(hokkaido)では、縄文(jomon)人が、そのままアイヌ(ainu)人となりました」。
写真以下2枚。縄文(jomon)人の生活を再現した展示。 以下、「」内は、国立科学博物館の解説を、ほぼ、抜粋した物です。
「日本人の祖先の暮らしは、旧石器時代人(原始的なアジア人)の質素な放浪性の狩猟採集生活から始まりましたが、縄文(jomon)時代には、狩猟採集生活と初歩的な栽培に基づく豊かな生活が、日本列島の多くの地域に定着しました」。
「縄文(jomon)時代(約16,000年前から2,300年前)、森と海の幸(食物資源)に恵まれた日本列島では、各地で多様な食物資源を利用する、定住性の生活が栄えていました。土器による煮炊きの技術は、食べ物の種類を増やし、栄養バランスの向上に役立ちました。縄文(jomon)犬は、小型の犬でしたが、イノシシ(wild
boar)猟等、狩猟には欠かせない、パートナー(partner)でした。数千年前の縄文(jomon)人の顔は、旧石器時代人(原始的なアジア人)とも似ていて、立体的で頑丈ですが、歯が小さくなっています。30,000年から40,000年前のアジア人の特徴を保ちつつ、技術的な発達によって、歯が退化したのでしょう。また、狩猟や漁労(魚を捕獲する事)、原始的農耕、土木や建築等の作業が、大柄ではないが、筋骨たくましい(筋肉や骨が頑丈な)体を作り上げたのでしょう」。



縄文(jomon)人の使っていた土器(縄文(jomon)式土器)。縄文(jomon)人は、世界で最も早く土器を使い始めた人々の一つです(新たな発見があれば、話は別だが、少なくとも、現在(現時点)において、日本の縄文(jomon)人の使っていた土器(縄文(jomon)式土器)は、土器として世界最古の物の一つとなっている)。
写真以下2枚。弥生(yayoi)人の生活を再現した展示。 以下、「」内は、国立科学博物館の解説を、ほぼ、抜粋した物です。
「弥生(yayoi)時代にもたらされた、水田による、稲作農業の技術は、日本人の暮らしを、一変させ(大きく変化させ)、農業を基盤とした組織社会(集団社会)を発展させて行きました」。
「弥生(yayoi)時代(約2,300年前から3世紀半ば)に定着した、水田による、稲作農業による米(rice)は、日本人の食生活の基本となり、それ以来、この復元の光景は、日本の家庭の原風景となりました。弥生(yayoi)時代には、家族単位ではなく、男女が分かれて暮らしていたとの考えもありますが、ここでは、家族として、復元しています。弥生(yayoi)犬は、縄文(jomon)犬よりも、大柄で(体が大きく)、警護用に(番犬として)飼われ、時には、食料ともなった様です。2,800年程前から日本列島に渡来してきた、弥生(yayoi)人は、平坦で、のっぺりとした(さっぱりとした)顔をして、歯が大きかったです。また、体は、大柄でしたが(背が高かったが)、縄文(jomon)人と比べると、体の大きさに対する、腕と足の長さは、短目で(短く)、また、縄文(jomon)人程、筋骨は、たくましくありませんでした(筋肉や骨は、頑丈ではありませんでした)。弥生(yayoi)人の顔や体の特徴は、元々、シベリア(Siberia)の、極寒の(寒さが非常に厳しい)気候に適応した結果と解釈されています」。



弥生(yayoi)人の使っていた土器(弥生(yayoi)式土器)。弥生(yayoi)人の使っていた、弥生(yayoi)式土器は、縄文(jomon)人の使っていた、野焼きの縄文(jomon)式土器に対して、薄くて固い、良好な焼き上がりの(wikiを参考にしました)、より実用性の優れた土器でした。弥生(yayoi)人は、狩猟採集を中心とした縄文(jomon)人の生活と違って、農業が中心の生活であった事から、(食料が、より安定的に供給される生活であるものの)労働時間が相対的に長く、縄文(jomon)人と比べて、時間的な、ゆとりは少なかった事等?からか、弥生(yayoi)式土器は、装飾やデザイン(design)は、縄文(jomon)式土器と比べて、全般的に、質素な物となっています。
日本列島の人々の礎(基礎)となった、二つの主な集団(縄文(jomon)人・弥生(yayoi)人)の内の一つ、弥生(yayoi)人は、3,000年から2,000年前に、主に、朝鮮半島を経由して、日本に渡って来た事から、日本人と韓国人は、特に、弥生(yayoi)人を通じて、先祖の重要な一部を、共有していると言えるでしょう。また、古墳(kofun)時代(3世紀半ばから6世紀)以降は、(日本列島に暮らす人々の)集団の構成を変化させる様な、(他民族の)、大規模な、日本列島への渡来はなかった様ですが、古墳(kofun)時代(3世紀半ばから6世紀)、飛鳥(asuka)時代(592年から710年)、奈良(nara)時代(710年から794年)に、中国大陸及び朝鮮半島、特に、朝鮮半島南部(現在の韓国に当たる地域、その中でも、特に、百済)から、日本に移住した、上流階級の人々、学識者(高い知識と教養を持つ者)、職人(技術者)、僧侶等は、日本に、(主に、当時の東アジアの)先進技術・文化を伝えました。日本人は、古墳(kofun)時代(3世紀半ばから6世紀)、飛鳥(asuka)時代(592年から710年)、奈良(nara)時代(710年から794年)に、日本に伝わった、(主に、当時の東アジアの)先進文化を基に、(東アジアの先進文化と日本古来(縄文(jomon))時代以来)の価値観や文化を融合させ、日本の風土(気候や風景)に合わせながら)、特に、平安時代(794年から1185年)以降、東アジア文化の一つとしての、独自の、洗練された日本文化を発展させて行きました。
ちなみに、前述の通り、日本人と韓国人は、特に、弥生(yayoi)人を通じて、先祖の重要な一部を、共有し(弥生(yayoi)人は、日本に先進技術を伝えました)、また、古墳(kofun)時代(3世紀半ばから6世紀)、飛鳥(asuka)時代(592年から710年)、奈良(nara)時代(710年から794年)に、中国大陸及び朝鮮半島、特に、朝鮮半島南部(現在の韓国に当たる地域、その中でも、特に、百済)から、日本に移住した、上流階級の人々、学識者(高い知識と教養を持つ者)、職人(技術者)、僧侶等は、日本に、(主に、当時の東アジアの)先進技術・文化を伝えましたが、少し現実的な話になってしまいますが、一般的に、日本人は、日本人と韓国人が、先祖の重要な一部を、共有していると言う意味において、韓国人に親しみを感じていると言う事はありません(日本人が、韓国人に出会った時に、社交辞令(lip
service)的に、その様に言う事は、割とあるかもしれませんが。。。先祖の重要な一部を、共有していると言う意味において、ドイツ人に親しみを感じているイギリス人は、おそらく少ない事と同様です。もちろん、韓国が好きだったり、韓国に関心がある日本人が、韓国料理が好きだ、韓国文化が好きだ、韓国人が好きだとか言う事は、これとは、また別の話です)。

尾長鶏の剥製。尾長鶏は、日本の、鶏の品種の一つで、日本の天然記念物に指定されています。17世紀半ば頃、突然変異で生まれたと伝えられています。雄の、尾の羽が、極端に長くなるのが特徴です。鶏は、通常一年に一度羽が生え換わりますが、雄の尾長鶏は、尾の羽が生え換わらないため、尾が非常に長くなります。現存する鳥類の中で、最も長い尾を持ち、12mと言う記録もあります。完全に観賞用の鶏です。説明は、wiki及び、国立科学博物館の説明文を参考にしました。
写真以下3枚。ハチ公(hachiko)(下の補足説明参照)の剥製。
ハチ公(hachiko):ハチ公(hachiko)(1923年生まれ、1935年に亡くなる)は、飼い主である、大学の教授が、急死した後も、飼い主の事を、東京の渋谷(shibuya)駅の駅前で、待ち続けた、秋田(akita)犬(日本の犬種の一つ)です。ハチ公(hachiko)の話は、人々に感動を与え、ハチ公(hachiko)の生前の、1934年に、渋谷(shibuya)駅前にハチ公(hachiko)の銅像が建てられました(除幕式(完成式典)には、ハチ公(hachiko)自身も出席した。wikiより。)。この初代の渋谷(shibuya)駅前のハチ公(hachiko)の銅像は、第2次世界大戦中、(兵器等を作る為の資源不足を補う為の)金属供出により、失われてしまい、現在の渋谷(shibuya)駅前のハチ公(hachiko)の銅像は、1948年に再建された2代目です。ハチ公(hachiko)の話は、日本国内でも、1987年に映画化されていますが、2009年に、アメリカでも、話の舞台設定を現代のアメリカに移して、Richard
Gere主演の映画として映画化されています。




ジロ(jiro)(下の補足説明参照)の剥製。
ジロ(jiro):説明は、ほぼwikiより抜粋。。。。タロ(Taro。1955年生まれ。1970年に亡くなる)とジロ(Jiro。1955年生まれ。1960年に亡くなる)は、日本による初期の南極地域観測隊に同行した樺太犬(樺太及び千島列島で作り出された犬種で、アイヌ(ainu)人等が、犬ゾリ(sled
dog)・猟犬に使っていた犬種)の兄弟。南極に取り残されながら共に生存し、1年後に救出されたことで有名になる。1956年11月、総勢53名の、第1次南極観測隊隊員が、タロ(Taro)、ジロ(jiro)を含む22頭の樺太犬と共に、東京湾より、南極観測船「宗谷(soya)」で南極へ出発。宗谷(soya)には、暑さに弱い樺太犬達の為に、赤道越えのための冷房室が特別に用意された。隊員のうち11名が第1次越冬隊として選抜された。
昭和(syowa)基地(南極の、日本の観測基地)に到着すると、病気等で、そのまま帰国する3頭を除いた19頭の犬たちは、1957年の第1次越冬隊において、橇を引く犬(sled
dog)として活躍した。越冬中に2頭が病死、1頭が行方不明となった。また雌のシロ子(shiroko)は、ジロ(jiro)等との間に、8頭の子供を産んだ。
1958年2月、宗谷(soya)が南極付近に到着した。昭和(syowa)基地にいる第1次隊員と入れ替わって越冬するため、宗谷(soya)は、第2次越冬隊を乗せていた。しかし、天候の悪化から、宗谷(soya)は、昭和(syowa)基地には到着できなかった。昭和(syowa)基地から帰還する第1次隊員の人間達でさえ、小型の雪上飛行機で、かろうじて宗谷(soya)に帰還する有様であり、15頭の犬は、犬橇に、首輪で昭和(syowa)基地付近に繋がれたまま、1か月分の食料を与えられ、置き去りにされた。その後も、ぎりぎりまで天候の回復を待ったものの、「宗谷(soya)」自体が遭難する危険性も出てくるに至り、第2次越冬隊の派遣は断念された。それと共に、15頭の犬の救出も見送られ、残された犬達の生存は絶望視された。この犬を置き去りにしたことにより、観測隊は激しい非難を浴びることとなった。なお、南極生まれの子犬と、その母犬のシロ子(shiroko)は、母と子犬の分だけ燃料を抜いて重量を減らすという、雪上飛行機の乗員の機転によって救出され、日本へ帰還することができた。同年7月には、大阪府、堺(sakai)市に、南極に残された、15頭の犬を供養する銅像が建立された。
ところが、1959年1月14日、第3次越冬隊のヘリコプターにより、上空から昭和(syowa)基地に2頭の犬が生存していることが確認される。1年後、第三次越冬隊が昭和(syowa)基地へ戻ってきたとき、残された15頭の内、タロ(Taro)とジロ(jiro)の2頭が生き延びていたのである。基地に置いてきた犬の食料や死んだ犬を食べた形跡はなく、タロ(Taro)とジロ(jiro)は、アザラシの糞やペンギンを食べて生きていたのだろうと推測されている。タロ(Taro)とジロ(jiro)の生還は、日本中に衝撃と感動をもたらした。当時開業して間もない、東京towerに、15頭の樺太犬記念像(製作者は、ハチ公(hachiko)の銅像を製作した彫刻家)が設置された。
1960年7月、
第4次越冬中に、ジロ(jiro)は、昭和(syowa)基地で病死。5歳。タロ(Taro)は、第4次越冬隊と共に、1961年5月に、4年半振りに日本に帰国。1961年から1970年まで、札幌(sapporo)市の北海道(hokkaido)大学植物園で飼育され、1970年8月に、老衰のため14歳7か月で死亡。人間で言えば約80歳から90歳という天寿を全うしての大往生であった。タロ(Taro)の剥製は、北海道(hokkaido)の札幌(sapporo)市の、北海道(hokkaido)大学の博物館に、ジロ(jiro)剥製は、東京の国立科学博物館に展示されている(上の写真)。
1983年には、タロ(Taro)とジロ(jiro)の生存劇を描いた日本の映画、「南極物語」が公開さた。また、アメリカでも、この生存劇は、登場人物をアメリカ人に変える等して、2006年に、「Eight Below」と言う題名で、映画化された。



写真左、内藤(naito)家(概ね、現在の宮崎(miyazaki)県の北部に当たる地域を統治していた地方領主。近代以降は、貴族(子爵)となる)が代々所有していた、銅製の天球儀(1673年。日本製)、写真右の上、日本で製作された地球儀の中で現存する最古の物(1695年製)(重要文化財)の複製。

遠眼鏡。以下、遠眼鏡の説明は、国立科学博物館の説明文を、ほぼ、要約した物です。望遠鏡は、1608年に発明され、早くから、日本に渡来しましたが、日本で、本格的に、天文観測に用いられ始めたのは、18世紀末の事からです。日本で、最初に、望遠鏡を多量に製作し、広めたのは、大阪の、岩橋 善兵衛(iwahashi zenbei。1756年生まれ。1811年に亡くなる)で、遠眼鏡(屈折望遠鏡)を広く市販しました。岩橋 善兵衛(iwahashi zenbei)の望遠鏡は、当時の江戸(東京)の天文台にも納められました。伊能 忠敬(inou tadataka)が、測量に使った望遠鏡も、その一つです。
安定した、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)には、庶民にも教育が普及し、明治(meiji)時代以降(19世紀後期以降)の、日本の近代化の礎(基礎)となりました(国立科学博物館の解説文より。。。)。
写真以下3枚は、日本の、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の顕微鏡に関する展示です。
以下、「」内は、国立科学博物館の解説文を、ほぼ引用した物です。
「平和な江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)においては、多くの情報や知識が社会で共有されていました。殿様(地方領主)であろうが、町の人々であろうが、ほぼ時間の差がなく、多少の精粗(詳しい事と、大雑把な事)の差はあっても、基本的に、同じ様な情報を知っていました。しかし、人々の好奇心や見方によって、受け取り方は、多様でした。海外から、顕微鏡が伝えられ、拡大された世界が紹介された時も、一方では、西洋に迫る研究へと進み、他方では、おもちゃ(toy)となりました。受容の形は、異なっても、刺激された、多様な好奇心の眼差しは、知識の、さらなる共有を促しました」。
「顕微鏡は、江戸(edo)時代の中期頃に、日本に伝わりました。虫眼鏡等より、構造も複雑で高価でしたが、はるかに倍率が高く、小さな物が、より大きく観察出来ました。購入した、大名(地方領主)達等は、西洋人と同じ様に、虫や植物等の、自然の観察を行いました。その驚きは、あっと言う間に(すぐに)、日本中に広まりました」
「西洋から伝わった顕微鏡は、しばらくして、その原理や構造を独学で学んだ、日本人の手で作られる様になりました。また、西洋で行われた、顕微鏡の諸研究に学び、雪の結晶を観察した、土井
利位(doi toshitsura)の様な、優れた自然観察の成果を残す人も現れました」。



雪の結晶のデザイン(design)の、刀の鍔(刀の柄と刀身との境に挟んで、柄を握る手を防護する部位)。「顕微鏡によって明らかにされた、微小な世界。初めて目にする、美しく、不思議な物や形は、科学的興味を満たすと共に、文化や芸術にも、大きな影響を与える物でした。土井 利位(doi toshitsura)が、「雪華図説」で明らかにした、雪の結晶の形状は、雪華文様となって、着物の柄(模様)や、陶磁器、刀の装飾等に、素早く取り入れられ、広く流行しました」。

電子顕微鏡。1942年。東芝(toshiba)社製。以下、「」内は、国立科学博物館の解説文を、ほぼ、引用した物です。「より、極小の世界を見たいと言う思いは、顕微鏡の倍率を飛躍的に高め、光学的な顕微鏡の限界に達しました。その限界を超える為の技術の開発が、20世紀に入ってから、多くの国々や研究者によって行われました。日本は、その先駆けの(先駆的な)国の一つでした。1939年、長岡 半太郎(nagaoka hantaro)博士らの要請により、大阪大学や、名古屋(nagoya)大学、東芝(toshiba)、日立(hitachi)製作所等、産学協同で、電子顕微鏡の研究・開発が、開始されました。1940年には、磁界型、次いで、静電型電子顕微鏡の試作が行われ、1942年には、製品化まで進みました。以後、日本は、電子顕微鏡の分野において、より微小の世界への要求に応え、世界的に、大きな役割を果たし続けています」。
写真以下8枚。和時計(17世紀から1880年代頃まで、日本で制作、使用された、不定時法を用いる為の機構を持つ機械式時計。西洋の定時法の機械式時計に比べて、複雑な構造を持っていた)。





和時計の小型化。以下、「」内は、国立科学博物館の解説文を、ほぼ、引用した物です。「江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の末期になると、和時計の動力は、重錘の代わりに、ぜんまいが採用され、調速機も、棒てんぷから、円てんぷや、振り子に変わりました。これは、ぜんまいや、円てんぷの発明等、16世紀から17世紀にかけて、西洋で起こった、時計の技術革新が、遅れて日本に伝わった物です。それは、和時計に、形態的な変化をもたらし、掛時計や櫓時計等を設置して使用する、大型の和時計と違って、部屋から部屋へ移動可能な、小型の和時計を生みました」。
写真以下3枚。多様な和時計。以下、「」内は、国立科学博物館の解説文を、ほぼ、引用した物です。「時計の機能は、時間を計り、時刻を知らせる事ですが、時計が室内用、あるいは、携帯の装飾品として、多様化するのは、西洋でも、日本でも、同じです。小型の枕時計、各種の置き時計だけでなく、行灯(日本伝統式のlamp)の前で使用する、「灯前時計」、鐘の中に時計機構を組み込んだ、「釣鐘時計」、小型の屏風(byobu)に組み込んだ、「硯屏時計」、卦算(文鎮)に組み込んだ、「卦算時計」、印籠(薬等を携帯するための小さな容器)に組み込んだ、「印籠時計」等が、制作されました」。



以下、「」内は、国立科学博物館の解説文を、ほぼ、引用した物です。
「明治(meiji)時代(1868年から1912年)において、日本でも、定時法が採用される様になると、和時計は、使えなくなり、1889年に製作された、掛時計を最後に、和時計製作の歴史は、終わりました。19世紀末期頃には掛時計と置き時計の国産化が、少し遅れて懐中時計の国産化が始まりました。その後、日本の時計産業は、大きく発展し、1964年には、スイスの、ニューシャテル天文台のクロノメーターコンクールで、日本の機械式時計が好成績を収め、日本の時計技術の優秀さを、世界に示しました。日本は、1969年には、世界に先駆けて、クォーツ(quartz)式の腕時計を、世に送り出し、そして、1980年には、スイスを抜いて、腕時計生産量世界一位となりました」。

大森(omori)式地震計。以下、「」内は、国立科学博物館の説明文を、要約した物。「大森 房吉(omori fusakichi)が、1898年頃に完成させた地震計。それまでの地震計が、地震動を感知してから動き出す物であったのに対し、その欠点を改めて、常に動いて、連続記録が出来る地震計として登場しました。日本の代表的な地震計で、日本国内外(日本国内及び日本国外)で、数多く使われました」。

おまけ。この日、上野(ueno)のアメ横(ameyoko。上野(ueno)にある、在来市場。第二次世界大戦直後の混乱期の、闇市(何らかの物価を統制する体制下で、物資が不足している状況において、違法取引の品物を売る店が集まっている場所)に起源を持つ。ソウルの南大門市場や東大門市場と比べると、規模は、ずっと小さいと思いますが、東京の観光場所の一つとなっています)を、ちょっと、ぶらぶら散歩した際に、買った、鯛焼き(taiyaki)。鯛焼き(taiyaki)は、日本の、庶民的な、お菓子の一つで、鯛(魚)の形の、小麦粉等を原料とした生地の中に、甘い餡が入った物が基本型となっています。この、鯛焼き(taiyaki)店は、本店は、東京都心部の小川町(ogawamachi)にあります。この、鯛焼き(taiyaki)店は、友人から、美味しいと言われ、ちょっと気になっていた店ですが、この時、初めて利用しました。確か、この時、この店で、4つか、5つ位、鯛焼き(taiyaki)を買って、その内、2個は、現地で、一個ずつ食べて、残りは、持ち帰って、家で食べたと思います。この店の、鯛焼き(taiyaki)の味は、まあ、普通に美味しいと言う感じだったと思います(ちなみに、出来立てでない物(家に持ち帰って食べた物)は、正直に言って、あまり美味しくありませんでした。。。)。
以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)に続く。。。
国立科学博物館 恐竜展他3→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3870768?&sfl=membername&stx=nnemon2