基本的に、2015年の6月の上旬に行った投稿の再掲です(投稿文は、2015年の6月の上旬の投稿を前提としています)。私の今の彼女(以下、彼女と書きます)と、東京国立近代美術館(The National Museum of Modern Art, Tokyo)に、片岡 珠子(kataoka tamako)の作品の、展覧会(exhibition)を見に行って来た時の物です。ちなみに、当時、私は、まだ、30代の後期、彼女は、20代初めの大学生でした。
4月の中旬、個人的に休みであった日(以下、この日と書きます)に、彼女と、東京国立近代美術館(東京国立近代美術館の本館)に、この時、東京国立近代美術館(東京国立近代美術館の本館)で行われていた、片岡 珠子(kataoka tamako)(この投稿、一番下でリンクを付けた次回の投稿で、詳しく説明します)の、展覧会(exhibition)を見て来た時の物です。
この日、訪れた、東京国立近代美術館の本館は、東京都心部の中でも、中心的な地域に位置する、かつての、江戸(edo)城(castle)の敷地の中心部であった部分(現在は、皇居(天皇の宮殿)と公園として整備されている)の周辺に位置しています。
写真以下9枚。東京国立近代美術館の本館の周辺の風景例。。。この日は、昼頃までは、天気が良かったのですが、午後から、だんだんと曇りになって来ました。写真の中の、堀(moat)と石垣(stone wall)は、江戸(edo)城(castle)の遺構の一部です。江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)に、日本を、実質的に統治していた徳川(tokugawa)家の、(東京中心部にある)東京での、城(castle)であった、江戸(edo)城(castle)は、徳川(tokugawa)家の中心的な城(castle)であり、広大な城(castle)でした。江戸(edo)城(castle)は、1860年代末に、天皇の東京の住まいとなり、以来、かつての江戸(edo)城(castle)の敷地の中心部は、天皇の平常時の住まい(天皇の東京の宮殿)として整備が進められました。現在は、かつての江戸(edo)城(castle)の敷地の一部(かつての江戸(edo)城(castle)の敷地の中心部であった部分)が、皇居(天皇の宮殿)と公園として整備されていますが、それだけでも、700,000坪(tsubo)近く(2,300,000平方m)あります(皇居(天皇の宮殿)の敷地面積が約350,000坪(tsubo)(1,150,000平方m)、公園・広場等の面積が約350,000坪(tsubo)(1,150,000平方m))。かつての江戸(edo)城(castle)の建物で、現在残っている物は、極僅かに過ぎませんが、かつての江戸(edo)城(castle)の中心部の堀(moat)(江戸(edo)城(castle)は、堀(moat)に囲まれていました)と石垣(stone wall)については、よく残されています。写真の堀(moat)と石垣(stone wall)は、その一部です。
写真以下4枚は、東京国立近代美術館の本館(東京国立近代美術館の本館の窓)から眺めた、東京国立近代美術館の本館の周辺の風景。
写真以下2枚。東京国立近代美術館の本館の、すぐ近くにあるオフィス(office)用のビル、Palacesideビル。1966年に完成した、主として、毎日(mainichi)新聞(日本の、大手(大規模)新聞会社の一つ)の、東京のオフィス(office)のビルとして使われているビルです。日本に現存し、現在も活用されている、1960年代に建てられた、大規模、中層オフィス(office)用のビルの代表例の一つです。設計は、日本の世界最大級の建築設計事務所、日建設計(Nikken Sekkei)(1900年創業)です。第二次世界大戦が終って間も無い1940年代後半から、戦後復興期初めの1950年代半ば頃くらいまでは、東京や大阪では、主として、(第二次世界大戦時の、アメリカによる空襲で破壊されずに生き残った)第二次世界大戦前に建てられた、近代建築のビルを、引き続き活用していました。その後、高度経済成長に伴い、1950年代後期頃から、ようやく、戦後の現代建築のビルの建設boomが起り始め、1950年代後期から1960年代を通じて、東京や大阪では、戦前(第二次世界大戦前)に建てられた重厚な近代建築のビルが、戦後(第二次世界大戦後)に建てられた、機能的な現代建築のビルに、次々と、取り替えられる様になりました(この頃は、経済成長最優先であり、老朽化した近代建築を修理しながら、保存・活用しよう等と言う、ゆとりが無かった)。なお、高層towerに関しては、日本では、既に、1950年代には、日本の様な地震地帯の大地震でも、耐えられる様な、建築設計技術が確立しており、1950年代から、1960年代初期にかけて、名古屋(nagoya )TV tower(1954年完成。高さ180m。1929年に完成した、高さ250mの日本の依佐美送信所鉄塔の様な支線式の鉄塔を除けば、完成当時アジアで最も高い建築物)、東京tower(1958年完成、高さ約333m。完成当時は、世界一高いtowerであると共に、名古屋(nagoya) TV towerを抜かし、アジアで、最も高い建築物)等、日本の大都市で、展望台付き高層towerの建築boomがありました。日本では、TV放送は、1953年に始まりましたが、1950年代から1960年代初期にかけて、日本の大都市に建てられた、6個の展望台付き高層towerの内、名古屋(nagoya) TV tower(1954年完成)、北海道(hokkaido)の札幌(sapporo) TV tower(1957年完成)、東京tower(1958年完成)は、(もちろん、展望台を有し、観光施設としての側面も有していますが)、基本的には、来るべき、TVの大衆化時代に備えて、建てられた、TV電波塔です(ちなみに、大阪areaでは、郊外の山の上に電波送信所を建てる事が出来た為、1956年に大阪に完成した、展望台付き高層tower、(2代目)通天閣(tsutenkaku)は、TV電波塔では無く純粋に観光用です)。一方、1960年代において、日本の様な地震地帯の大地震でも、大丈夫な超高層ビルを設計建築する技術が日本国内で成熟するに至り、日本初の超高層ビルが、完成するのは、1960年代後期を待たなければなりませんでした。
東京国立近代美術館の建物。東京国立近代美術館のパンフレット(pamphlet)より。。。
東京国立近代美術館は、日本の、国立の、近代美術館(近代美術・現代美術専門の美術館)の一つです(東京都心部の中でも、中心的な地域に位置する)。開館は、1952年ですが、この日、私達が、訪れた、現在の東京国立近代美術館の本館(現在の東京国立近代美術館のメイン(main)の建物)は、大規模化に伴い、1969年に完成した物です(上の写真の、右上の写真の建物)。東京国立近代美術館は、東京国立近代美術館の本館(上の写真の、右上の写真の建物)の他に、別館(annex)として、1910年に、軍の司令部として建てられた、近代建築の建物を改装した、東京国立近代美術館工芸館(上の写真の、右下の写真の建物。東京都心部の中でも、中心的な地域の、別の場所に位置する)と、東京国立近代美術館の映画部門である、フィルムセンター(Film Center)(1970年開館)(上の写真の、右、真ん中の写真の建物。東京都心部の中でも、中心的な地域の、別の場所に位置する)があります。東京では、日本の伝統美術品は、19世紀末からの歴史を有する(起源は、1872年まで遡るが、現在の場所に、恒久的かつ立派な博物館の建物(現存はしない)が建てられたのは、1881年。現在の本館(mainの建物)は、1938年に完成したもの)東京国立博物館(日本の、国立の博物館の一つ。東京都心部の北東部に位置する上野(ueno)にある。東京のみならず、日本最大級の美術館・博物館)に、膨大な量が、収蔵、展示されていますが、東京国立近代美術館は、東京で、伝統美術品以外の作品(すなわち、近代美術及び現代美術)を収蔵し展示する、日本の、国立の美術館として、1952年に開館した美術館です。ちなみに、西洋美術専門の、日本の、国立の美術館、国立西洋美術館は、1959年に、東京の上野(ueno)に開館しており(美術館の建物の設計は、歴史上、世界的に最も有名な建築家の一人で有る、スイス生まれのフランスの建築家Le Corbusier)、また、(東京国立近代美術館でも、近代美術作品と共に、現代美術作品も収蔵・展示していますが)、東京で、現代美術専門の、大規模な、公営の美術館として、現代美術専門の美術館としては、世界的に見ても規模が大きな、東京都現代美術館(Museum of Contemporary Art Tokyo)が、1995年に開館しています。
写真以下4枚。(この日、私達が訪れた)東京国立近代美術館の本館の建物。東京国立近代美術館の開館は、1952年ですが、現在の、東京国立近代美術館の本館の建物は、(東京国立近代美術館の)、大規模化に伴い、1969年に完成した物です。設計は、日本の有名な建築家、谷口 吉郎(taniguchi yoshiro 1904年生まれ、1979年に亡くなる。息子は、日本の世界的に有名な建築家、谷口 吉生(taniguchi yoshio)(1937年生まれ))の手による物です。
写真右端。東京国立近代美術館の本館の建物。
横から見た、東京国立近代美術館の本館の建物。写真の堀(moat)と石垣(stone wall)は、江戸(edo)城(castle)の遺構の一部です。
写真以下2枚。東京国立近代美術館の本館の建物。
写真以下2枚。この日は、この時、東京国立近代美術館の本館で行われていた、片岡 珠子(kataoka tamako)(この投稿、一番下でリンクを付けた次回の投稿で、詳しく説明します)の、展覧会(exhibition)を見ました。
ちなみに、この日、我が家で食べた朝食は、普段、働いている日に食べている朝食(パン、シリアル(cereal)、野菜サラダ(salad)、3種類程の果物、牛乳、ジュース(juice)、ヨーグルト(yoghurt))と、基本的に、同じでした。
写真以下9枚。東京国立近代美術館の本館のレストランで、のんびりと、この日の昼食を食べてから、片岡 珠子(kataoka tamako)の展覧会(exhibition)を見ました。東京国立近代美術館の本館のレストランは、三國 清三(mikuni kiyomi。1954年生まれ。日本の有名な、フランス料理のシェフ(chef)の一人。東京都心部に、「HOTEL DE MIKUNI」と言う、高級フランス料理レストラン(東京を代表する高級フランス料理レストランの一つ)を構える)が監修する(メニュー(menu)(献立)作り等の、指導・助言を行っている)、フランス料理とイタリア料理を融合した、西洋料理レストランとなっていて、三國 清三(mikuni kiyomi)が監修した料理を、手頃な値段で食べる事が出来るレストランとなっています(もっとも、美術館に入っているレストランとしては、値段は、比較的、高目です)。ちなみに、東京国立近代美術館の本館のレストランは、前は、石鍋 裕(ishinabe yutaka。日本の有名な、フランス料理のシェフ(chef)の一人)が、監修(メニュー(menu)(献立)作り等の、指導・助言)を行っていました。
写真以下7枚。東京国立近代美術館の本館のレストランで、食べた、この日の、昼食等。ちなみに、この昼食時は、飲み物は、私は、お酒(アルコール(alcoholic)飲料)は、白ワイン(wine)を飲みました(昼食後、展覧会(exhibition)を見る予定であったので、飲み過ぎないようにしましたw)。
パンに付ける、バター(butter)。
写真以下6枚。東京国立近代美術館の本館のレストランで、食べた、この日の、昼食。写真以下5枚は、全て、一人、一皿ずつです(写真は、一人分)。これに、パンが付きます。
前菜。魚の、カルパッチョ(carpaccio)。カルパッチョ(carpaccio)に使われている、柑橘類(蜜柑)系の果物は、日向夏(hyuganatsu)と言う、蜜柑です。
パスタ(pasta)。
写真以下2枚。メイン(main)料理。魚(鯛(真鯛))。
デザート(dessert)。和菓子(日本伝統菓子)の要素も入った、デザート(dessert)でした。
食後の、お茶菓子(二人分)。
東京国立近代美術館の本館の、展示風景例。東京国立近代美術館のパンフレット(pamphlet)より。
写真以下。東京国立近代美術館の本館の、収蔵・展示作品例。この日は、東京国立近代美術館の本館では、片岡 珠子(kataoka tamako)の展覧会(exhibition)を見た他、東京国立近代美術館の本館の常設展示(通常の展示・一般的な展示)も見ました。東京国立近代美術館の本館の収蔵作品の中心は、日本の、近代、及び、現代の、美術作品となっています(どちらかと言えば、近代美術の作品を重視していますが、かと言って、現代美術の作品が、疎かにされている訳ではありません)。
「麗子肖像(Reiko肖像)」(1918年)。岸田 劉生(kishida ryusei)(下の、補足説明参照)作。岸田 劉生(kishida ryusei)自身の娘(長女)を描いた作品の内の一つです。
岸田 劉生(kishida ryusei):1891年生まれ。1929年に、病気の為、38歳の若さで、亡くなる。1910年代から1920年代に活躍した、日本の有名な近代画家。
写真以下3枚は、梅原 龍三郎(umehara ryuzaburou。1888年生まれ。1986年に亡くなる。1910年代から1970年代にかけて活躍した、日本の有名な近代画家)の、作品です。
「裸婦図」(1921年)。
「Eve」(1945年)。
「裸婦とチーター」(1977年)。
写真以下2枚は、安井 曾太郎(yasui soutarou。1888年生まれ。1955年に亡くなる。1910年代から1950年代初めにかけて活躍した、日本の有名な近代画家)の、作品です。
「京都郊外」(1923年)。
「金蓉」(1934年)。以下、この絵の解説については、東京国立近代美術館の、この絵の解説等を参考にしました。この絵の、モデル(model)となっているのは、小田切 峯子(odagiri mineko)と言う名前の、日本人の女性です。日本の、上海(Shanghai)総領事の娘で、五ヶ国語に堪能な才能を活かして、南満州鉄道株式会社(The South Manchuria Railway)(下の、補足説明参照)の社員として、1937年から1945年まで、満州国(1932年から1945年に存在した日本の傀儡国家。中国の東北部に当たる)の、ハルビン(Harbin)のヤマトホテル(Ymato Hotel)(下の、補足説明参照)に勤務していました(時代を象徴する女性として、当時の、日本の、政財界では、有名であった女性です)。絵の題名の、「金蓉」は、その女性の名前の、中国風の愛称です。
南満州鉄道株式会社(The South Manchuria Railway):満州(中国東北部地域)に、存在した、日本の、(実質的に、植民地経営の)国策会社。1906年設立。1945年解散。鉄道事業を中心として、様々な事業を展開し、日本の満州(中国東北部地域)経営の中核を担っていた。
ヤマトホテル(Ymato Hotel):南満州鉄道株式会社(The South Manchuria Railway)が経営していた、高級ホテルのチェーン(chain)。最盛期には、満州(中国の東北部地域)に、20以上の、高級ホテルを展開していた。
「舞妓林泉」(1924年)。土田 麦僊(tsuchida bakusen)(下の、補足説明参照)作。
土田 麦僊(tsuchida bakusen):1887年生まれ。1936年に亡くなる。主として、1910年代から1930年代初めに活躍した、日本の、有名な、近代、日本伝統画家。土田 麦僊(tsuchida bakusen)は、画家だけでなく、芸術作品の、コレクター(collector)としての、一面もあり、ルノワール(Renoir)、セザンヌ(Paul Cezanne)等の、絵画を収集していました(wikiより。。。)。
写真以下2枚は、川瀬 巴水(kawase hasui)(下の、補足説明参照)の作品です。
川瀬 巴水(kawase hasui):1883年生まれ。1957年に亡くなる。主として、1910年代から1950年代初めに活躍した、日本の、近代、浮世絵(ukiyoe)(日本の伝統的な、大衆版画)、版画家。
「田子の浦橋」(1930年)。
「吉田の雪晴」(1944年)。
「鉄工場の裏」(1931年)。長谷川 利行(hasegawa toshiyuki)(下の、補足説明参照)作。
長谷川 利行(hasegawa toshiyuki):1891年生まれ。1940年に亡くなる。1920年代から1930年代に活動していた、日本の、近代画家。亡くなった後に、作品の評価が、高まる(生前は、東京のスラム街(slum)で、酒を飲みながら、荒んだ生活をしていた)。
写真以下4枚は、上村 松園(uemura syouen)(下の、補足説明参照)の作品です。
上村 松園(uemura syouen):1875年生まれ、1949年に亡くなる。1890年代から1940年代に活躍した、日本の有名な、女性、近代、日本伝統画家。
写真以下3枚。「母子」(1934年)。
「静」(1944年)。
写真以下3枚。「夕」(1934年)。三谷 十糸子(mitani toshiko)(下の、補足説明参照)作。
三谷 十糸子(mitani toshiko):1904年生まれ。1992年に亡くなる。1920年代後期頃から1980年代に活躍した、日本の有名な、女性、近代及び現代、日本伝統画家。
写真以下5枚は、北脇 昇(kitawaki noboru)(下の、補足説明参照)の、作品です。
北脇 昇(kitawaki noboru):1901年生まれ。1951年に亡くなる。1930年代から1940年代に活躍した、日本の、有名な、現代画家。
「空の訣別」(1937年)。
「聚落(観相学シリーズ)」(1938年)。
「形態学の為に」(1939年)。
「(A+B)意味構造」(1940年)。
「周易解理図(乾坤)」(1941年)。
以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)に続く。。。
国立近代美術館 片岡珠子展他後編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3931682?&sfl=membername&stx=nnemon2