kjのバグ(不具合)により、IEで、投稿の写真が見られない現象が生ずる様です。もし、IEで、この投稿の写真が見られない場合は、Firefoxで、ご覧下さい。
2017年5月2日に、kjに行った、「大磯(ooiso)散歩&食べ物」と言う投稿の写真が、kjのバグ(不具合)により、全て、見られなくなってしまった為、再投稿です。
以下の、写真、及び、投稿文は、基本的に、2017年5月2日に行った、「大磯(ooiso)散歩&食べ物」と言う投稿、そのままの物となっています。したがって、投稿文は、全て、2017年5月2日の投稿を前提に書かれています。
以下、大磯(ooiso)散歩1(すぐ上の投稿)からの続きで、2017年5月2日に、kjに行った、「大磯(ooiso)散歩&食べ物」と言う投稿の、再投稿の続きです。

写真は、借り物。吉田 茂(yoshida shigeru)の、在イギリス日本大使時代(おそらく。。。)。左側、吉田 茂(yoshida shigeru)。右側、吉田 茂(yoshida shigeru)の最初の妻である、吉田 雪子(yoshida yukiko)(牧野 雪子(makino yukiko)(後で紹介する、牧野 伸顕(makino nobuaki)の娘(長女))。吉田 雪子(yoshida yukiko)(1889年生まれ)は、1941年に、52歳の若さで、病気(癌)により亡くなりました。

写真は、借り物。吉田
茂(yoshida shigeru)の、在イギリス日本大使時代(1936年から1939年)(おそらく。。。)。左から、吉田
和子(yosihda kazuko)(吉田 茂(yoshida shigeru)の、娘(三女))、吉田 雪子(yoshida
yukiko)(吉田 茂(yoshida shigeru)の、最初の妻)、吉田 茂(yoshida shigeru)。

吉田
茂(yoshida shigeru)の、在イギリス日本大使時代(1936年から1939年)(おそらく。。。)。左側、吉田 和子(yosihda
kazuko)(吉田 茂(yoshida shigeru)の、娘(三女))。中央、吉田 雪子(yoshida yukiko)(吉田
茂(yoshida shigeru)の、最初の妻)。

吉田 茂(yoshida shigeru)(右)と、吉田 茂(yoshida shigeru)の、2番目の妻、坂本 喜代(sakamoto kiyo)(左)。吉田 茂(yoshida shigeru)は、1941年に、病気(癌)により、最初の妻(吉田 雪子(yoshida yukiko))を亡くして、間もなく、元々、吉田 茂(yoshida shigeru)の愛人であった、元(かつての)芸者(geisha)の、坂本 喜代(sakamoto kiyo)と、同棲する(一緒に暮らす)ようになりました。牧野 伸顕(makino nobuaki)(吉田 雪子(yoshida yukiko)の父)への配慮から、吉田 茂(yoshida shigeru)は、坂本 喜代(sakamoto kiyo)との同棲(一緒に暮らす事)を、公式には、厳重に秘密にしようとしましたが、吉田 茂(yoshida shigeru)と、坂本 喜代(sakamoto kiyo)が、一緒に暮らすようになってから10日も経たない内に、新聞記者に嗅ぎつかれて(気付かれて)、同棲している(一緒に暮らしている)、証拠の写真を撮影されて、新聞記事となりました(この事を、きっかけに、吉田 茂(yoshida shigeru)は、マスコミの、カメラマン(photographer)を、とても嫌うようになった様です)。坂本 喜代(sakamoto kiyo)との関係が、公然となってしまった以上、もはや、牧野 伸顕(makino nobuaki)に配慮する必要はなくなり、吉田 茂(yoshida shigeru)は、1944年に、坂本 喜代(sakamoto kiyo)と結婚しました。ちなみに、吉田 茂(yoshida shigeru)と、坂本 喜代(sakamoto kiyo)との間には、少なくとも、公式の(正式に発表された)、子供はいません。また、間違っていたら、申し訳ありませんが、たぶん、吉田 茂(yoshida shigeru)と、坂本 喜代(sakamoto kiyo)との間には、私生児(結婚関係の無い者の間に生まれた子供)もいないと思います(吉田 茂(yoshida shigeru)程の、日本全国的に名前が知られている、歴史的な人物が、隠し子(隠している子供)がいたら、おそらく、gossip雑誌等の(tabloid系の)、マスコミが、嗅ぎつけて(気付いて)、報道をしていると思います)。上記の出来事をきっかけに、マスコミの、カメラマン(photographer)を、とても嫌うようになった、吉田 茂(yoshida shigeru)は、1952年に、演説会において、マスコミの、カメラマン(photographer)の、しつこい写真撮影に激怒して、グラス(glass)の水をカメラマン(photographer)に浴びせ、「人間の尊厳を知らないのか」と大きな声で、怒鳴ったようです。現在の日本の天皇が、皇太子の時に、皇后美智子(Empress Michiko)(現在の日本の天皇の妻)に関して、マスコミの記者に追いかけられて困ると言う話を、吉田 茂(yoshida shigeru)にした際に、吉田 茂(yoshida shigeru)は、「そう言う、マスコミの記者には、水を浴びせれば良いでしょう」と言った返答をし、それに対し、皇太子(現在の日本の天皇)は、「(立場上)、吉田(yoshida)さん(吉田 茂(yoshida shigeru))のような事は出来ない」と応じて、苦笑した(苦笑いをした)と言う話がある様です。

写真は、借り物。吉田
健一(yoshida kenichi)(1912年生まれ。1977年に亡くなる)。吉田 茂(yoshida
shigeru)の息子(長男)。日本のイギリス文学者。母の、吉田 雪子(yoshida yukiko)が亡くなった後、父の吉田
茂(yoshida shigeru)が、長年、吉田 茂(yoshida shigeru)と交際していた、愛人の、坂本 喜代(sakamoto
kiyo)と結婚した事に反発していた為、父の吉田 茂(yoshida shigeru)とは、仲が良くなかった様です。また、吉田
茂(yoshida shigeru)の、私設の秘書として、いつも、吉田 茂(yoshida shigeru)の側にいた、妹の、吉田
和子(yosihda kazuko)とも、仲が良くなかった様です。
写真以下3枚(写真は、借り物)。牧野 伸顕(makino nobuaki)。

若い頃の、牧野 伸顕(makino nobuaki)。

牧野 伸顕(makino nobuaki)(左)と、牧野 伸顕(makino nobuaki)の妻(右)。吉田 茂(yoshida shigeru)の妻(最初の妻。吉田 雪子(yoshida yukiko))の両親です。牧野 伸顕(makino nobuaki)の妻は、鹿児島(kagoshima)県(九州(kyusyu)(日本の南部)の南部に位置する県)の、侍(samurai)系の、貴族(子爵)の家系出身の女性です。牧野 伸顕(makino nobuaki)は、元々、貴族ではありませんでしたが、外交等の功労により、貴族となり、男爵から始まり、最後には、伯爵となりました(ちなみに、近代の日本の貴族の階級は、上から、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵)。

牧野 伸顕(makino nobuaki)。
牧野 伸顕(makino nobuaki)(1861年生まれ。1949年に亡くなる)は、吉田 茂(yoshida shigeru)の妻(最初の妻。吉田 雪子(yoshida yukiko))の父です。牧野 伸顕(makino nobuaki)は、日本の、貴族(伯爵。鹿児島(kagoshima)県(九州(kyusyu)(日本の南部)の南部に位置する県)の、侍(samurai)系の、貴族)、政治家です。牧野 伸顕(makino nobuaki)は、外務省勤務から仕事の経歴が始まり(1880年に、大学(後の東京帝国大学)を中退し、外務省に入り、間もなくロンドン(London)に赴任)、政府高官、外務大臣、天皇の側近等を務めました。牧野 伸顕(makino nobuaki)は、特に、外交面において活躍し、1919年、第一次世界大戦後のパリ講和会議(Paris Peace Conference)に次席全権大使として参加。パリ講和会議(Paris Peace Conference)では、日本の次席全権大使として人種的差別撤廃提案(人種あるいは国籍によって、法律上、事実上、いかなる差別も、してはいけないと言った内容)を行っています(ちなみに、この時、日本が、提案した、人種的差別撤廃提案(国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初。理想主義的な一面もあったと思いますが、主目的は、海外移民も含めた、日本人の利益の為だったと思われます。なお、西洋列強の圧力に苦しんでいたアイルランド人、Liberia人等は、この提案に感謝し、支持した様です)は、人種差別主義的な、イギリスやオーストラリア等が反対する中、出席者16名中11名の賛成多数(賛成は、日本、フランス、イタリア、それぞれ2票ずつ。ブラジル、ギリシャ、Serbia、Czechoslovakia、中華民国、それぞれ、1票ずつの、合計11票)を得たが、議長を務めたアメリカは突如として全会一致を主張、多数決を無視して本提案を退けました)。牧野 伸顕(makino nobuaki)は、親アメリカ、親イギリス派で、アメリカ・イギリス型の、自由主義を支持した穏健派でした。牧野 伸顕(makino nobuaki)は、天皇からの信頼は、厚かった様です。
写真以下3枚。写真は、借り物。近衞 文麿(konoe fumimaro)。近衞 文麿(konoe fumimaro)は、長身の男性でした。


1937年。左は、当時の日本の、海軍大臣。

近衞
文麿(konoe fumimaro)(1891年生まれ。1945年に亡くなる)は、日本の貴族(公爵)、政治家です。近衞 文麿(konoe
fumimaro)は、日本の、古くから続く(12世紀から続く)、とても有力な、貴族の家(家柄)出身です。近衞 文麿(konoe
fumimaro)は、1937年から1939年と、1940年から1941年に、日本の、総理大臣(prime minister)を務めました。近衞
文麿(konoe
fumimaro)は、1938年に、「東亜(東アジア)新秩序」と言う声明を発表しました。以下、「東亜(東アジア)新秩序」に関する説明は、wikiを参考にしました。「東亜(東アジア)新秩序」は、反共主義(反共産主義(共産主義に反対・対抗する))ものと、アジア主義によるもの、両方を含みます。アジア主義に関しては、東洋(アジア)文化の、道徳・仁義に基づく、「東亜(東アジア)における、国際正義の確立」と、東洋(アジア)古来の、精神文化と、西洋近代の物質文化を融合した、「新文化(新しい文化)の創造」を唱えました。ただし、東洋(アジア)文化に関しては、日本文化を、ますます(益々)、純粋に、素直に発展させ、中国文化、その他に、新生命(新しい生命)を吹き込んで、更生再建させる所に、「新文化(新しい文化)の創造」の要点があるとされました。近衞
文麿(konoe fumimaro)は、第二次世界大戦中は、吉田 茂(yoshida
shigeru)等と共に、戦争終結工作グループ(group)を結成し、戦争の、早期終結を唱えました。近衞 文麿(konoe
fumimaro)は、第二次世界大戦中における、和平運動グループ(group)の中心人物として、(日本の、政府・軍部等の)重臣グループ(group)と、吉田
茂(yoshida
shigeru)を中心とした民間人グループ(group)の、両方の、和平運動グループ(group)を纏める役割を果たしました。
第二次世界大戦後、総理大臣(prime
minister)時代における、中国に対する政策により、A級戦犯として、極東国際軍事裁判(International Military
Tribunal for the Far East)で裁かれる事が決定された事(白州 次郎(shirasu jiro)や、吉田
茂(yoshida shigeru)は、近衞 文麿(konoe fumimaro)を助けようとしましたが、失敗に終わりました)を不服として、近衞
文麿(konoe fumimaro)は、1945年12月、自宅で、自殺をし、54歳で亡くなりました。
大磯(ooiso)散歩3(すぐ下の投稿)へ続く。。。