東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに母は、一人っ子です)、現在は、両親が引き継いで暮らしています。既に、母方の祖父母共に、亡くなっています。
亡くなった、私の母方の祖母が、最も、好きであった、イラストレーターが、この投稿で紹介する、蕗谷虹児(fukiyakoji)です。
私の母方の祖母は、竹久 夢二(takehisa yumeji)等も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、生涯、蕗谷 虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。
私の母方の祖母は、田舎の裕福な地主の家の娘であったので、おそらく、幼い頃・子供の頃、女学校(第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる)時代、東京での大学時代、東京での独身の社会人時代(まあ、私の母方の祖母は、社会人になって間もなく結婚し、以後、ずっと主婦であったのですが。。。)に、私の母方の祖母の実家(私の母方の祖母の親)に、当時の、日本の、女性の子供向けの雑誌、少女向けの雑誌、若い女性向けの雑誌を、たくさん買って貰っていたと思います。
この投稿は、前に、kjで、行った、2011年に、横浜駅周辺(東京の南部郊外最大の繁華街)にある、規模の大きなデパートの一つ、そごう(sogo)デパート横浜店内にある美術館で行われた、蕗谷
虹児(fukiya koji)(下の補足説明を参照)の展覧会(exhibition)に関する投稿の中から抜粋して来た物です。
蕗谷
虹児(fukiya
koji):1898年、新潟(niigata)県(日本の中部地方の北端に位置する県)生まれ。1979年に亡くなる。父は、新聞記者。1920年代から1970年代に活躍した、日本の有名な、近代画家、詩人、イラストレーター(illustrator)。有名とは言っても、竹久
夢二(takehisa
yumeji)とは違って、超有名(とても有名)と言う程ではありません。雑誌・本・新聞等は、購買者別に、幼年(子供)向け・少年向け・少女向け・成人の男女向け・女性向けと大雑把に分類出来ますが、蕗谷
虹児(fukiya
koji)は、それら全ての分野に絵や文を書いているものの、幼年(子供)向け・少女・女性向けの出版物において、最も、仕事をしました(この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。)。蕗谷
虹児(fukiya koji)は、竹久 夢二(takehisa yumeji)、高畠 華宵(takabatake
kasyo)等と共に、日本の少女漫画(少女向けの漫画)の画風の原型を作った作家です。現代の、日本の、少女漫画家(少女向けの漫画の、漫画家)にも、蕗谷
虹児(fukiya koji)のファン(fan)は多く、「蕗谷 虹児(fukiya koji)を参考にした」と明言している、竹宮
恵子(takemiya
keiko)(下の補足説明を参照)は、これまた、次世代の、日本の、少女漫画家(少女向けの漫画の、漫画家)に、大きな影響を及ぼし続けている漫画家の一人となっています(この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。)。
竹宮
恵子(takemiya keiko):以下、竹宮 恵子(takemiya
keiko)に関する説明は、wiki等を参考にしました。1950年生まれ。1970年代から活躍している日本の、有名な女性、漫画家で、主に、少女向けの漫画の漫画家。日本の、少女向けの漫画の漫画界における、大御所(その業界の第一人者として強い影響力を持つ人物)の一人。5歳の頃から、日常的に、漫画を描くようになり、中学生で、本格的に、漫画を描くようになり、1967年、17歳、高校生の時に、漫画家として、デビュー(debut)した。竹宮
恵子(takemiya keiko)は、蕗谷 虹児(fukiya koji)の影響を受けている様です。
以下、蕗谷虹児(fukiyakoji)3(すぐ下でリンクを付けた投稿)の続きです。
蕗谷虹児(fukiyakoji)3→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3989520?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下の写真は、全て、この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。説明文も、基本的に、カタログ(catalogue)の文から抜粋して来た物です。
蕗谷 虹児(fukiya koji)は、少女雑誌(少女向けの雑誌)以外にも、「愛誦」、「蝋人形」等、幾つかの、日本の文芸雑誌や、「婦人画報」や「女性文化」と言った、日本の婦人雑誌(主婦・大人の女性向けの雑誌)等、様々な雑誌で活躍しました。

上、雑誌、「愛誦」の表紙原画。1932年。下、雑誌、「愛誦」の表紙。1932年。
蕗谷 虹児(fukiya koji)は、本の装幀(design・ cover art)や、レコードジャケット(record cover・album cover)のデザイン(design)の分野でも活躍しました。
写真以下5枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)が手掛けた、本の装幀(design・ cover art)例。

吉屋 信子(yoshiya nobuko。1896年生まれ。1973年に亡くなる。1910年代半ばから亡くなる近くまで活躍した、日本の女性小説家)作、「失楽の人々」。 1930年。

鶴見 祐輔「世界少女物語」。1940年。「世界少女物語」は、1934年から1935年頃に、「少女倶楽部(少女club)」に連載されていた、「世界少女読本」を纏めた本です。

鶴見 祐輔「世界少女物語」。表紙原画(右)と裏表紙原画(左)。1939年から1940年。

アレクシス・キヴィ(Aleksis
Kivi。1834年生まれ。1872年に亡くなる。フィンランド(Finland)の戯曲家兼作家)作、「七人兄弟」。1942年。この本には、当時の、駐日フィンランド(Finland)公使(Envoy
Extraordinary and Minister Plenipotentiary)が序文を寄せています。

アレクシス・キヴィ(Aleksis Kivi)作、「七人兄弟」。挿絵原画。1941年から1942年。
写真以下2枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)がデザイン(design)を手掛けた、レコードジャケット(record cover・album cover)の例。

「L’ARLESIENNE-EXCERPS Bizet」。1937年頃。

上、「Weber Album Tango」。1937年頃。下、「Hawaiian Album」。1937年頃。
蕗谷 虹児(fukiya koji)は、少女雑誌(少女向けの雑誌)に特化せず、挿絵の仕事を始めた早い時期から、子供向けの絵も手掛けており、少女雑誌(少女向けの雑誌)で人気作家になってからも、絵本や外国童話の挿絵には、積極的に取り組んでいました。
写真以下11枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の1930年代半ばから1940年代初めの、子供向けの出版物における作品例。

小島 政二郎「メヅサの首」。「幼年倶楽部(幼年club)」の挿絵原画。1934年。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1930年代半ばから、日本の、子供向けの雑誌、「幼年倶楽部(幼年club)」の挿絵を描ました。

北川 千代「マチノテフテフ(街の喋々)」。「幼年倶楽部(幼年club)」の挿絵。1941年。

「銀座(ginza)」。「講談社(Kodansha)の絵本。東京見物」の挿絵原画。1937年。1936年に創刊した、講談社(Kodansha)の絵本シリーズ(series)は、「(日本の)一流画家を総動員して」と言われる程の本であり、これに、しばしば登用された事は、蕗谷
虹児(fukiya koji)にとって名誉な事であったでしょう。彩色の丁寧な仕事ぶりに、幼い子供にこそ、良い絵を、と言う、蕗谷
虹児(fukiya koji)の意識が、よく表れています。
写真以下8枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1940年代初めに刊行された、講談社(kodansha)の、「世界名作童話」シリーズ(series)の内、「アラビアンナイト(One Thousand and One Nights)」、「アンデルセン(Andersen)の童話」に絵を描きました。

「世界名作童話全集。船乗りシンドバッド(Sinbad the Sailor)」。1950年(第二次世界大戦後の、再刊行(再出版)版)。初版は、1941年。
写真以下2枚。「船乗りシンドバッド(Sinbad the Sailor)」。「世界名作童話全集。船乗りシンドバッド(Sinbad the Sailor)」の挿絵原画。1941年。



「アリババと四十人の盗賊(Ali Baba and the Forty Thieves)」。世界名作童話全集。船乗りシンドバッド(Sinbad the Sailor)」の口絵原画。1941年。

「世界名作童話全集 おやゆび姫(Thumbelina)」。1950年(第二次世界大戦後の、再刊行(再出版)版)。初版は、1942年。
写真以下2枚。「おやゆび姫(Thumbelina)」。「世界名作童話全集 おやゆび姫(Thumbelina)」の挿絵原画。1942年。



「海つばめ」。「世界名作童話全集 おやゆび姫(Thumbelina)」の口絵原画。1942年。
雑誌、「令女界(reijyo
kai)」の読者の、中流層以上の家庭の、10代後半から20代前半の女性が、華やかな化粧やファッション(服装)で、近代日本の少女・若い女性文化を満喫出来た時代は、1937年に勃発した日中戦争(日本と中国の間の戦争)以降、少しずつ消滅して行きました。戦争によって、物資が乏しくなる時代において、華美な物や贅沢な物は、悪であるとする風潮が、はびこり、それは、雑誌の世界にも影響を及ぼしました。1938年に国家総動員法が施行され、出版統制が厳しくなると、華美で繊細であると言うだけの理由で、少女雑誌(少女向けの雑誌)は、存在を危うくされ、蕗谷
虹児(fukiya koji)も、1939年以降、「令女界(reijyo kai)」の表紙を描く事が出来なくなりました。蕗谷
虹児(fukiya
koji)は、戦時色が濃くなるにつれ、制作の変更を余儀なくされます(軍から睨まれて、絵を描けなくなったら、どうしようもない為)。この様な時代の流れは、近代的で、お洒落な、また可憐な少女を描く事を得意としていた、蕗谷
虹児(fukiya
koji)にとって、大きな打撃でした。1940年12月6日に設置された内閣情報局を中心として、言論や報道への規制が徹底され、それに伴い、蕗谷
虹児(fukiya koji)の活動する雑誌も検閲対象下に入りました。
1930年代後期から1940年代初めにおける、蕗谷
虹児(fukiya
koji)の、少女雑誌における作品には、軍国主義と少女らしさの折衷を模索する、苦心の跡が感じられる作品が見られます。特に、「令女界(reijyo
kai)」における作品には、軍国色の強くなる時流の中で、いかに、従来、「令女界(reijyo
kai)」が持っていたエレガント(elegance)さを表現するかと言う葛藤が感じ取れる、軍から睨まれず(軍の意向に反発せず)、それでいて、「令女界(reijyo
kai)」の読者である、少女・若い女性が目にするに相応しい物、その、ぎりぎりの境界を探っている様な作品が見られます。

「彼への贈り物」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」の口絵。1937年。

「そして今年も逝く」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」の口絵。1937年。

「お店の、お嬢さん」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」。1938年。戦争下、女性の服装から華美な物が、徐々に排斥されていきました。初めは、推奨服であった、もんぺ(monpe)が、1940年代以降、強制圧力が強まり、戦局悪化に伴い、空襲時の防空用に女性の着用が義務付けられ、半ば強制されました(女学生(現代の、中学生と高校生に当たる)については強制)。最も、お洒落に敏感で、可愛くある事が必須である、少女・若い女性達にとって、もんぺ(monpe)を身に着ける事は、辛い事であったでしょう。この絵は、もんぺ(monpe)を着なければならないのならば、せめて、少しでも素敵に着ようと言う、説得効果を、「令女界(reijyo kai)」の読者である、日本の、少女・若い女性達に対してもたらしたと思われます。

「慰問品売り場にて」。雑誌、「少女倶楽部(少女club)」。1938年。

「いくさ(戦)の物語」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」の口絵。1939年。

「荒磯」。雑誌、「令女界(reijyo kai)」の口絵。1940年。
蕗谷
虹児(fukiya
koji)は、出版統制が厳しくなってからも、雑誌の口絵や挿絵の仕事において、時流との折衷点や打開策を模索しながら制作を続けていましたが、1942年頃からは、雑誌の仕事は、日本の、文芸雑誌である、「あきつ」と「防人」を主とする様になり、代わりに、軍事色の強い、絵や、書籍の装幀(design)を手掛けました。しかし、1944年には、一切の制作を止め、神奈川(kanagawa)県(東京圏の南部を占める県)、山北(yamakita)町に疎開し、第二次世界大戦が終わるまで、作品を発表する事はありませんでした。

「天兵神助」。1943年。この作品は、第3回航空美術展覧会に出品された作品で、従軍画家ではなかった蕗谷
虹児(fukiya
koji)にとって、軍国主義に身を置いて描いた、数少ない作品です。航空美術展覧会は、1941年から1943年までの、全三回、東京都心の、デパートの一つ、高島屋(Takashimaya)デパート、日本橋(nihonbashi)店で行われた、展覧会(exhibition)です。この絵は、崩れ落ちる航空兵を、古代兵が、胸に抱きながらも敵に向かおうとしている(あるいは、味方を鼓舞している)所が、描かれています。
以下、この展覧会(exhibition)の展示作品の内、蕗谷
虹児(fukiya koji)の、第二次世界大戦後の作品例を紹介します。蕗谷 虹児(fukiya
koji)は、1920年代から1930年代における、少女雑誌での活躍が華々しい分、第二次世界大戦後の仕事は、斜陽時代の様に見えますが、第二次世界大戦後、活動を再開させてから、晩年まで、多くの作品を描きました。蕗谷
虹児(fukiya koji)は、戦前は、主として、少女雑誌(少女向けの雑誌)等で、少女や若い女性向けに描いてきましたが、戦後は、(蕗谷
虹児(fukiya koji)の)活動媒体が、少女雑誌(少女向けの雑誌)から児童書(子供向けの本)等に移行した為、(蕗谷 虹児(fukiya
koji)が)描く対象となる読者の性別の枠が外れると共に、低年齢化し、幼稚園児から小学生の男女向けの絵の仕事が、主体となりました。
第二次世界大戦後、蕗谷
虹児(fukiya
koji)は、挿絵画家ではなく、本格的な画家として再出発を図ろうとしていました。しかしながら、戦争で一時休刊していた雑誌が発行を再開すると、出版社から熱望されて、1946年に挿絵の仕事を再開しました。「少女倶楽部(少女club)」や「令女界(reijyo
kai)」、1947年に創刊された、「ひまわり(向日葵)」等、様々な、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌)に描いて行くと共に、「名作少女小説」や「世界名作童話」等の、日本の子供向け書籍の装幀(design・
cover
art)や挿絵も手掛け、第二次世界大戦後も、再び、挿絵画家として活躍していきました。しかし、芸能人記事と漫画によって、少女雑誌(少女向けの雑誌)のヴィジュアル(visual)化や娯楽化が進展していくと、1950年代中頃には、雑誌での活躍の場がなくなり、「講談社(Kodansha)の絵本」等、日本の子供向けの絵本が、仕事の主軸になりました。数々の昔話や童話を鮮やかな色彩と精緻な表現で描き出すと共に、アニメーション(animation)と言う、新たな分野にも挑戦しました。また、晩年には、悲願だった絵画制作に、意欲的に取り組みました。
以下、蕗谷 虹児(fukiya koji)の、第二次世界大戦後の活動について、細かく見て行きたいと思います。
蕗谷
虹児(fukiya
koji)は、第二次世界大戦後、挿絵画家として復帰する事に対しては、積極的ではありませんでした。その背景には、1937年に勃発した日中戦争(日本と中国の間の戦争)以降、戦時体制が色濃くなって行く中、日本の、少女雑誌(少女向けの雑誌)の言論が統制されて行った事に対する、嫌気があったものと思われます。蕗谷
虹児(fukiya
koji)が描いていた、日本の、少女雑誌(少女向けの雑誌)の内、「少女倶楽部(少女club)」は、第二次世界大戦中、休刊を免れましたが、蕗谷
虹児(fukiya koji)の同誌における仕事は、1941年4月までとなりました。しかし、蕗谷 虹児(fukiya
koji)は、戦時中、全く仕事が無くなった訳ではなく、「少女倶楽部(少女club)」を発行する講談社(kodansha)に依頼され、同社の、「世界名作童話」シリーズ(series)の他、「幼年倶楽部(幼年club)」に、挿絵を、1944年2月まで描き続けており、戦局が緊迫化する中でも、子供向けの分野では、引き続き、起用されていました。第二次世界大戦後、間も無く、戦時中、一時休刊していた雑誌が、再び発行される様になると、蕗谷
虹児(fukiya koji)の下に、いち早く訪れたのは、講談社(kodansha)の「幼年倶楽部(幼年club)」の編集長でした。蕗谷
虹児(fukiya
koji)は、挿絵の仕事を依頼されますが、一旦は、断っています。しかし、「長かった戦時下の欠乏に耐えてきてくれた日本の子供たちに、せめては先生の絵を見せてやりたいと思って、お伺いしたのでした」と訴えられると、蕗谷
虹児(fukiya koji)は、さすがに断る事が出来ませんでした。蕗谷 虹児(fukiya
koji)が、再び、「幼年倶楽部(幼年club)」の仕事を引き受けた背景には、子供達に、もう一度、綺麗な絵を見せたいと言う思いと共に、戦時下でも、長く描く事が出来た、「幼年倶楽部(幼年club)」への恩義があったのかもしれません。いずれにせよ、これを機に、蕗谷
虹児(fukiya koji)は、戦後、挿絵画家として復帰して行きました。
蕗谷 虹児(fukiya
koji)は、1946年3月号の「幼年倶楽部(幼年club)」に挿絵を描いて復帰しますが、同じ、講談社(kodansha)が発行する「少女倶楽部(少女club)」に描かない訳にもいかず、1946年4月号から、再び、少女雑誌(少女向けの雑誌)を、手掛けて行く事になりました。蕗谷
虹児(fukiya
koji)は、「少女倶楽部(少女club)」には、1954年12月号まで、ほぼ、毎号のように描き続け、「少女倶楽部(少女club)」は、蕗谷
虹児(fukiya koji)が、戦後、最も多くの仕事をした雑誌となりました。
写真以下2枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、「少女倶楽部(少女club)」における作品例。

「ぼんおどり(盆踊り)」。口絵原画。1952年。

「ほたる」。1953年。
「令女界(reijyo kai)」が、1946年4月に発行が再開されると、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1947年10月号から、同誌に、復帰しました。「少女倶楽部(少女club)」、「ひまわり(向日葵)」の他、「令女界(reijyo kai)」も、戦後の、蕗谷 虹児(fukiya koji)にとって重要な雑誌でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、1920年代から、「令女界(reijyo kai)」に絵を描く、主要作家の一人として活躍し、戦後も、雑誌の顔と言うべき表紙絵を始め、挿絵等を描き続けました。
写真以下6枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、「令女界(reijyo kai)」における作品例。

「マロニエの構図(虹児(koji)抒情画選)」。口絵原画。1946年。

西條 八十「わかれ」。口絵原画。1947年。

勝 承夫「アラビヤン・ナイト(虹児(koji)名作画選)」。口絵原画。1948年。

表紙原画。1949年。

表紙原画。1949年。

表紙。1949年。
蕗谷虹児(fukiyakoji)5(すぐ下でリンクを付けた投稿)に続く。。。
蕗谷虹児(fukiyakoji)5→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3989518?&sfl=membername&stx=nnemon2