以下、基本的に前に行った投稿から抜粋して来た物です。
横浜を散歩して来た時の物です。横浜は、東京areaの海の玄関口(gateway)となっている、大きな港町です。この日は、横浜の、関内(kannai)areaにある日本郵船(Nippon
Yusen)歴史博物館で、日本の客船の、インテリア(内装)の歴史に関する、展覧会(exhibition)を見て来ました。
この展覧会(exhibition)は、主として、第二次世界大戦前の、日本の客船の、インテリア(内装)における、日本の建築家の活躍に焦点を当てた展覧会(exhibition)でした。
以下、以下の投稿の続きです。
現代日本伝統様式(戦前日本の客船の内装)他3→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3524269?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、この展覧会(exhibition)の説明は、主として、この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)の文を、要約又は抜粋・引用した物です。
前回までの投稿では、(主として、第二次世界大戦以前における)、日本の、著名な建築家達の、日本の客船のインテリア(内装)の設計における具体的な活躍について、見て来ましたが、以下、第二次世界大戦以前における日本の主要な客船のインテリア(内装)における、日本の芸術家達の協力について見て行きたいと思います。
佐藤 武造(sato takezo。日本の画家・漆工芸の工芸家)は、久米(kume)建築事務所(久米 権九郎(kume gonkuro。日本の建築家。前々回の投稿を参照)の建築設計事務所と共に、日本の客船のインテリア(内装)の設計を行っていました。現存する、久米(kume)建築事務所のカラースキームは、全て、佐藤 武造(sato takezo)の手による物です(久米 権九郎(kume gonkuro)と佐藤 武造(sato takezo)は、古くから、親しい友人関係にありました)。この様に、その国の文化の象徴とも言える、当時の工業国の、国際航路向けの豪華客船のインテリア(内装)の設計には、画家や工芸家の協力も必須でした。ちなみに、1932年から1939年にかけて(1939年、第二次世界大戦の勃発により、日本に帰国)、イギリスのロンドンを拠点に活動していた、佐藤 武造(sato takezo)は、当時、世界最高の豪華客船大国であった、イギリスの豪華客船の船内装飾設計も手がけています。当時の、ヨーロッパでは、ジャポニズム(Japonism。19世紀後半から20世紀初めにかけて、万国博覧会(expo)等を通じて、日本の美術工芸品が、欧米(特にヨーロッパ)で紹介され、大流行した現象。「日本趣味」とも呼ばれ、これらは、西洋美術にも、大きな影響を与えた)の影響により、漆の工芸品が流行していました。エキゾチック(exotic)で、見た目にも華やかな漆は、ヨーロッパの客船でも、人気を呼んだのです(例として、フランスの豪華客船、ノルマンディー号(Normandie。1935年完成。79,280総トン(GT)。完成当時、世界最大の客船)等には、ジャン・デュナン(Jean Dunand。漆工芸で有名な、スイスの工芸家)制作の、漆パネルが、多数、掲げられている)。イギリスの豪華客船、クイーン・メリー号(Queen Mary。1936年完成。81,237総トン(GT)。完成当時、世界最大の客船になるはずであったが、Normandieが、改装されて83,423総トン(GT)になっていた為、完成当時、世界で2番目に大きい客船。何れにしても、豪華客船時代(第二次世界大戦前)における、世界最大級の客船であった)の1等(first class)サロン(salon)のキャビネット(cabinet)の漆の蒔絵(makie。日本の漆工芸の一つ)で好評を得た(佐藤 武造(sato takezo)の作品の展示会を見た、ロンドンの大規模室内装飾会社が、クイーン・メリー号(Queen Mary)に飾るキャビネット(cabinet)の装飾を、佐藤 武造(sato takezo)に依頼してきた)、佐藤 武造(sato takezo)のもとには、イギリス等の豪華客船の室内装飾設計の依頼が、次々と舞い込みました。「現代日本様式」の主要な構成要素と言える漆のパネルが、西洋の豪華客船においても、多用されていた事は、大変興味深いと言えるでしょう。

この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。写真左上。ドミニオン・モナーク(Dominion Monarch。1939年完成。イギリスの豪華客船。27,155トン (GT)。南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国)を経由し、イギリスとオーストラリアを結ぶ航路の豪華客船として建造された。イギリスとオーストラリアを結ぶ航路の客船で、史上、最大且つ、最も豪華な客船であった)のドローイングルーム(drawing room)の装飾(1939年制作。佐藤 武造(sato takezo)作)。
写真右上。船名、船室不明(佐藤 武造(sato takezo)作。1940年頃と推測される)。右下に、久米(kume)建築事務所の印が押印されている。深い信頼関係の下、共同で設計していた事が、伺える。
写真下。橿原丸(kashiharamaru)1等(first class)読書室の漆パネル習作(1940年頃制作。佐藤 武造(sato takezo)作)。久米 権九郎(kume gonkuro)とともに設計した一室。
日本の豪華客船のインテリア(内装)の設計には、建築家に加えて、画家、工芸家等、当時の日本を代表する、一流の芸術家達が集結させられました。ただし、画家や工芸家の場合は、たいてい、内装の空間その物に関わると言うよりは、自身の絵画を壁面パネルとして提供し、室内空間の一部を飾る事で、船内に彩りを添えると言うのが、一般的でした。例えば、松田 軍平(matsuda gunpei。日本の建築家。前回の投稿参照)が、設計した、八幡丸(yawatamaru。日本の客船。1940年完成。17,150総トン(GT))の一等(first class)社交室には、山喜多 二郎太(yayakita jirota。日本の画家)による巨大な壁画、「園遊図」が飾られ、より船内を華やかに、そして、日本趣味あふれる空間に、演出しています。また、村野 藤吾(murano togo)が設計した、ぶらじる丸(BRASIL maru。日本の客船。1939年完成。12,752トン(GT))の、1等(first class)社交室では、山鹿 清華(yamaga seika日本の染色家)の豪華絢爛たる織地が壁面を飾り、中村 順平(nakamura jyunpei)が設計した、新田丸(nittamaru。1940年完成。17,150総トン(GT)。日本の客船)の1等(first class)社交室では、松田 権六(matsuda gonroku。日本の漆工芸の工芸家)による、しだれ柳と川浪の乾漆パネルが、艶やかな室内空間を生み出しています。また、残念ながら、写真さえも現存しませんが、藤田 嗣治(fujita tsuguharu)(1886年生まれ、1968年に亡くなる。1920年代から、世界的な名声を博した、日本の有名な西洋画家。晩年(1955年)には、フランス国籍を取得)も、天山丸(tenzanmaru。日本の客船。1942年完成。7,908総トン(GT))の船内に、天山山脈を描いた絵画を提供したと言われています。また、定かではありませんが、1940年に完成した、新田丸(nittamaru)にも、藤田 嗣治(fujita tsuguharu)の絵画が飾られる予定があったと伝わっています。ちなみに、客船ではありませんが、日本海軍の戦艦、武蔵(musashi。基準65,000トン。満載72,809トン。1942年完成。同じく日本海軍の、大和(yamato。1941年完成)と共に、世界の歴史上、最大の戦艦)の艦長室に、横山 大観(yokoyama taikan。日本の、有名な近代日本伝統画家)が描いた、墨一色の、富士山の軸が飾られていました。第二次世界大戦により、日本の、ほとんどの客船(特に、客船の中でも、比較的高性能で、比較的大型であった、海外航路向けの豪華客船に関しては、ほとんど全て)が撃沈され、海の藻屑へと消えました。そして、日本の客船の船内に飾られていた、美術作品も、船と共に、海の底へと消えました。客船内に設置された、絵画や装飾パネルは、揺れても落ちない様に頑丈に固定されていた事から、船が、戦争で徴用される際も、取り外して避難させる事が難しかったのだろうと推測されます。これだけの芸術家が客船の室内装飾に協力しながらも、その作品が、現存しない事は、残念であると言えるでしょう。
写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

写真左。新田丸(nittamaru。日本の客船。1940年完成)の1等(first class)社交室の乾漆パネル(1940年頃制作。中村 順平(nakamura jyunpei)・松田 権六(matsuda gonroku)作)。中村 順平(nakamura jyunpei)が設計した室内に、後に、人間国宝となる、松田 権六(matsuda gonroku)が、中村 順平(nakamura jyunpei)と共同で、乾漆パネルを制作した。金地に、しだれ柳と川浪の鮮やかな緑色が映える、乾漆パネルは、ゆるい曲線を描き、社交室の前後の四隅に、はめ込まれていた。
写真右下。八幡丸(yawatamaru。日本の客船。1940年完成)の1等社交室の絵画(1940年頃制作。山喜多 二郎太(yayakita jirota)作)。

あるぜんちな丸(Argentina maru。日本の客船。1939年完成)の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)の、漆扉(1938年から1939年頃制作。堂本 漆軒作)。村野 藤吾(murano togo)が設計した、あるぜんちな丸(Argentina maru)の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)の、背面の造り付け、棚扉部分を、後に文化勲章を受賞する、堂本 漆軒(日本の漆工芸の工芸家)が制作した。あるぜんちな丸(Argentina maru)は、1942年に、日本海軍に買い上げられ、長崎(nagasaki)造船所により、空母へと改造された。その際、家具や調度品は、陸に揚げられた為、幸運にも、漆扉だけは、第二次世界大戦による戦禍を免れた。第二次世界大戦以前の、日本の客船の家具が、ほとんど現存しない為、非常に貴重な資料である。
以下、第二次世界大戦以前における、日本の主要な、客船のインテリア(内装)における、日本国内の装飾業者等の活躍について、見て行きたいと思います。
(日本の客船のインテリア(内装)において)日本の建築家達が活躍する以前から、日本の客船のインテリア(内装)の設計に、いち早く携わり、高い技術を蓄積して行ったのが、造船所の技師や、デパートの装飾部門の技師達でした。近代における、日本の客船のインテリア(内装)の歴史において、名も無い、彼等の活躍は、見逃す事が出来ません。かつて、川崎(kawasaki)造船所や、三菱(mitsubishi)、長崎(nagasaki)造船所のような、近代的な、高性能・長距離航海向けの客船を手がける、大きな規模の造船所には、船内装飾設計を自社で賄う為に、東京美術学校(東京芸術大学の前身の、高等教育機関)の図案(design)科等を卒業した、装飾設計を学んだ技師が勤務していました。当初は、重要度の低い、客室のインテリア(内装)の設計等が中心であった彼等も、少しずつ、1等(first class)や2等(second class)の公室(乗客の共用場所)の設計を手がける様になりました。橿原丸(kashiharamaru)の建造の頃には、まるで、建築家の設計に勝るとも劣らない様な、1等(first class)公室(乗客の共用場所)の、カラースキームを残すまでになっています。また、デパートの装飾部門の活躍も、素晴らしい物がありました。まだ、日本が、本格的な重工業化を始めてから間もない、豪華客船時代の幕開けの頃から、既に、日本の近代客船のインテリア(内装)の設計に携わっていた、高島屋(Takashimaya。日本のデパートchain。本店は、大阪。1831年、京都で創業したデパートchainで、大阪には、1898年に進出、東京へは、1922年に進出しました)等は、その技術の確かさから、数多くの、日本の客船のインテリア(内装)を手がける事になりました。当時、日本のデパートには、装飾部門が設けられていましたが、彼等は、店頭販売用の家具設計と言うよりは、大きな法人の仕事を請け負う為に、特別に設けられた、デザイン(design)集団でした。当時の日本のデパートの装飾部門は、デパート関係の仕事と言うよりも、現在のデザイン(design)会社の様な仕事を行っていたのです。また、川島(kawashima)織物(1843年創業の、京都の、織物・インテリア(内装)・繊維会社)は、万国博覧会(expo)等で、既に、世界的に高い評価を得て、西洋式の家具や室内装飾設計には、卓越した技術力とデザイン(design)力を誇っていました。まだ、日本が、客船のインテリア(内装)において、イギリスの様な、客船のインテリア(内装)の先進国の装飾業者に頼っていた時代に、この様な、日本国内の装飾業者が活躍していた事実は、注目に値すると言えるでしょう。この様な、名も無き、彼等の、知識や技術の蓄積が土台となり、「現代日本様式」(前々回の投稿を参照)が誕生し、日本の客船のインテリア(内装)の歴史が、紡がれて行ったのです。
写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

春日丸(kasugamaru)の1等(first class)喫煙室(smoking room)(高島屋(Takashimaya)の装飾部門が、1940年頃設計)。春日丸(kasugamaru)は、完成を待たずに空母へと改造された、幻の日本の豪華客船です。新田丸(nittamaru。日本の豪華客船。1940年完成)や春日丸(kasugamaru)の建造の頃には、日本の主要な客船の、主要な、1等(first class)の公室(乗客の共有場所)の空間の設計を、高島屋(Takashimaya)の装飾部門や、長崎(nagasaki)造船所の技師達が、手がける様になっています。彼等の設計した、客船の室内空間は、当時の、日本の有名な建築家の物と比較して、決して、見劣りする物ではありません。高い技術とデザイン(design)力を備えていたと言えます。

写真左上。新田丸(nittamaru。1940年完成)の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)。三菱(mitsubishi)、長崎(nagasaki)造船所設計。
写真右上。新田丸(1940年完成)の一等(first class)特別客室(deluxe room)の椅子。三菱(mitsubishi)、長崎(nagasaki)船所設計。
写真左下。浅間丸(asamamaru。1929年完成。16,947トン(GT)。日本の豪華客船)の一等(first class)特別客室(deluxe room)の居室(living room)。川島(kawashima) 織物設計。
写真右下。浅間丸(asamamaru。1929年完成)の一等(first class)特別客室(deluxe room)の居室(living room)の、綴織パネル原画「桃園天平美人」(1929年)。川島(kawashima)織物制作。
以下、再び、日本の客船のインテリア(内装)の歴史の流れに、戻ります。
第二次世界大戦により、主要な工業国は、客船のインテリア(内装)と言う文化ではなく、武力そのもので戦う時代に突入しました。1941年から1945年(日本が第二次世界大戦へ参戦する前夜から、日本が、アメリカを中心とした連合国に敗戦するまでの間)にかけて、日本の客船(特に、海外航路向けの高性能客船)の、ほとんどは、日本軍に徴用され、中には、空母に改造された物もありました。第二次世界大戦により、(日本を含む)世界の、豪華客船と呼ばれた船は、ほとんど全滅しました。そして、第二次世界大戦の集結により、豪華客船の時代は、終わりを告げたのです。

この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。写真上。橿原丸(kashiharamaru。1942年完成予定)の完成予想図。橿原丸(kashiharamaru。1939年建造開始、1942年完成予定。27,700トン(GT))は、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社が、(1936年にドイツのBerlinで開催された夏季オリンピックに引き続き)1940年に開催されるはずだった、東京オリンピック(Olympics)(夏季Olympics)(第2次世界大戦により中止)の前後に合わせる様に、次々と投入する予定であった、新しい豪華客船の一つで、日本の客船史上、最高の豪華客船となるはずが、就航する事なく、空母、隼鷹(jyunyou)へと改造されました。ちなみに、橿原丸(kashiharamaru)と同級の豪華客船として就航する予定で有った出雲丸(izumomaru)(27,700トン(GT))も、やはり、建造途中で、空母に変更されました(空母、飛鷹(hiyou))。
写真下。橿原丸(kashiharamaru)から改造された、日本海軍の空母、隼鷹(jyunyou)。橿原丸(kashiharamaru)は、1939年に建造を開始し、1942年の完成を予定していた。既に、最終配置図やカラースキームは揃い、一部、工事に着手し始めたばかりであったが、時局の悪化により、完成を待たずに、空母、隼鷹(jyunyou)へと改造された。
第二次世界大戦が終わって、1950年代に入ると、(日本を含み)世界的に、外国への渡航手段の主役は、客船ではなく、飛行機に、とって代わられました。いわゆる豪華客船の時代は、終わりを告げ、日本の客船インテリア(内装)の歴史は、しばらく途絶えてしまう事になります。しかしながら、日本が築いた、独特な、客船のインテリア(内装)様式である、「現代日本様式」(前々回の投稿参照)も、豪華客船時代の消滅と共に、完全に消滅してしまったのかと言うと、決して、そうではありませんでした。第二次世界大戦後から1950年代に建造された、日本の外国航路向けの貨物船には、わずか10数名ですが、乗客を乗せる事が出来ました。その為、細々とではありますが、その様な、貨物船の公室(乗客の共有場所)には、戦前の、日本の客船のインテリア(内装)が、脈々と引き継がれていたのです。船の規模は、随分と小さい物ですが、随所に、日本の伝統的な要素が現れる室内は、豪華客船時代の、日本の客船を彷彿とさせるのに、十分な雰囲気を備えています。

この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。相模丸(1955年完成。日本の貨物船。三菱(mitsubishi)重工業、横浜造船所製)の1等(first class)サロン(乗客が、くつろいだり、交流したりする部屋)。インテリア(内装)を設計したのは、中村 順平(nakamura jyunpei)の弟子である、大泉 博一郎(oizumi hakuichiro。日本の、内装・産業・工業(industrial)デザイナー(designer)。1903年生まれ。1996年に亡くなる)。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)は、第二次世界大戦以前に、中村 順平(nakamura jyunpei。日本の建築家。日本の建築家の中で、第二次世界大戦以前において、日本の大型客船のインテリア(内装)の設計を、最も多く手がけた。前々回の投稿参照)の客船のインテリア(内装)設計を手伝っていた経緯があります。
中村 順平(nakamura jyunpei)に学んだ、大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)は、東京家政大学の教授等を務めながら、日本における、現代、室内インテリア(内装)の確立に、大きく貢献しました。1968年には、皇居新宮殿(日本の天皇の、東京の、新しい宮殿の建物(現在の宮殿の建物)。1969年完成)の表御座所(天皇が、日常の執務を行う部屋)の家具の設計も行っています。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)の功績で、特筆すべき点は、第二次世界大戦後における、日本の海外航路向けの貨物船のインテリア(内装)の設計です。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)は、1948年に、海の神である、「トリトン(Triton)」と言う名前を冠した、デザイン(design)事務所を、東京都心の銀座(ginza)に開設すると、日本の海外航路向けの貨物船の、室内インテリア(内装)の設計の仕事を数多く受けました。当時の、日本の海外航路向けの貨物船には、約12名程度の、乗客を乗せる事が出来ました。そして、その様な貨物船には、わずかながらも、食堂と喫煙室と言う、乗客の為の、公室(乗客の共有場所)が存在しました。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)は、この、当時の、日本の海外航路向けの貨物船の公室(乗客の共有場所)に、戦前の、日本の客船のインテリア(内装)で学んだ、「現代日本様式」を引き継ごうとしたのです。そして、漆工芸の工芸家と協力し、小さいながらも、素晴らしい、インテリア(内装)を造り上げたのでした。当時、大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)が、インテリア(内装)の設計を手がけた、日本の貨物船の数は、分かっているだけでも、14隻以上にのぼります。戦後、装飾を控えた、平坦なモダニズム(modernism)が主流となる中で、大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)が設計した、日本の貨物船の室内空間は、まるで、豪華客船時代が蘇ったかのような錯覚を起こさせる、日本の伝統工芸を採用した、手の込んだ物でした。
写真以下5枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

写真上。赤城丸2(1951年完成・日本の貨物船)の食堂。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)設計。


写真左。YAMA(日本の貨物船)の喫煙室カラースキーム(大泉 博一郎(nakamura jyunpei)設計。制作年不詳)。

写真右。YAMA(日本の貨物船)の食堂のカラースキーム(大泉 博一郎(nakamura jyunpei)設計。制作年不詳)。

第二次世界大戦後、飛行機の発展と共に、一時期衰退していた、長距離航路向けの客船でしたが、その後、洋上(海の上)での、優雅なクルーズ(客船での旅)を楽しむ為の豪華客船が、先進国を中心として、脚光を浴びる様になりました。現代の日本の豪華客船のインテリア(内装)は、豪華客船時代の、「現代日本様式」の様な、日本の伝統を前面に押し出した表現方法ではありません。しかし、主要な乗客である日本人が、外国でも落ち着ける様な形で、乗客の共有場所には、漆のパネルを始めとする、日本人作家による作品が飾られているのが特徴です。
写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

写真上。飛鳥(Asuka。1991年完成。日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船。28,856トン(GT)。三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所製)。インテリア(内装)の設計は、剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所と、スウェーデンの客船デザイナー(designer)が、担当。日本を起点とした世界一周クルーズ(cruise)等を行い、豪華な設備と細やかなサービス(service)で、評判が高かったが、2006年に引退。

写真下。飛鳥2(Asuka2)(2006年就航。日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船。50,142トン(GT)。三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所製)の船内壁画。飛鳥2(Asuka2)の船内には、田村 能里子(tamura noriko。日本の女性、画家・壁画家。1944年生まれ)による、「花筏」の壁画が飾られて、船内を、一層、華やかにしている。
日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、1961年に客船事業から、全面撤退しました。しかし、益々、高まるクルーズ(豪華客船の旅)需要を背景に、飛鳥(Asuka)の建造計画を立ち上げました。そして、飛鳥(Asuka。1991年完成)の完成と共に、客船事業の復活を果たしました。剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所は、日本の伝統と合理性を重んじた、ジャパニーズモダン(Japanese modern)の提唱者として知られる、剣持 勇(kenmochi isamu。日本の有名な、工業(industrial)デザイナー(designer)。1912年生まれ。1971年に亡くなる。1950年代から1960年代にかけて活躍)が、1955年に設立した、デザイン(design)会社です。この剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所が、スウェーデンの客船デザイナー(designer)と共に、飛鳥(Asuka。1991年完成)のインテリア(内装)の設計を手がけています。これは、日本航空(JAL。日本の2大航空会社の一つ。かつての、日本のflag carrier)のBoeing 747 旅客機や、JR東日本(1987年に、日本国有鉄道が、分割民営化された際に、生まれた会社の一つ。日本最大の鉄道会社)の特急(express)スーパーひたち(super hitachi)の車両等の室内設計を手がけていた、剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所の実績を、三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所と日本郵船(Nippon Yusen)が、高く評価した結果でした。加えて、豪華客船時代の、橿原丸(kashiharamaru)(前々回の投稿参照)の様に、日本の伝統文化を引き継いだ豪華客船を造りたいと言う、船主(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の思いも、少なからず、影響していました。約10年の、飛鳥(Asuka)の構想期間中、日本郵船(Nippon Yusen)では、内装については、様々な議論がなされました。当初は、第二次世界大戦中に、幻と消えた、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の歴史上のみならず、日本の客船の歴史上、最高の豪華客船、橿原丸(kashiharamaru)へのオマージュ(敬意)として、「現代日本様式」の採用が検討されました。しかし、消防法、コスト(cost)等の様々な制約、そして、現代性に欠けると言った理由から見送られる事となりました。そして、最終的に、飛鳥(Asuka)のインテリア(内装)は、華やかさを重視した現代的な内装に、随所に、漆や壁画、そして、日本人作家による美術作品を組み込む手法が選択されました。客船のインテリア(内装)の、世界的な流行を踏襲しながらも、飛鳥(Asuka)が、どこか、日本の豪華客船らしい、ぬくもりを放つは、その為です。この様な、インテリア(内装)は、飛鳥2(Asuka2)(2006年就航)にも、引き継がれています。
写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

飛鳥(Asuka。日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船。1991年完成)のメインダイニングルーム(main dining room。客船の中心的なレストラン)。剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所設計。

写真上。飛鳥(Asuka)の壁画。「季の奏」。1991年。田村 能里子(tamura noriko。日本の女性、画家・壁画家。1944年生まれ)作。他にも、富永 直樹の彫刻、榎木 啓の漆絵、高岡 雨星の書(calligraphy)等、多くの、日本人artistの美術作品が、飛鳥(Asuka)の船内を華やかに彩っていた。
写真下。飛鳥(Asuka。1991年完成。日本の豪華客船)のリド・カフェ(Lido Cafe)(剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所設計)。
「現代日本伝統様式(戦前日本の客船の内装)他」、終わり。