
金稔万(キムインマン)さん (ドキュメンタリー映画監督)
2012.03.20 (火) 高正子 contributor@jejujapan.com
マンナメ広場(6) – 最終回
* 済州島出身、あるいはその後裔の人たちへのインタビュー
済州島の歴史も含めて、底から語られるドキュメンタリー、
女性の歴史を撮りたい

▲ 金稔万さんの取材風景 写真提供:藤井幸之助
毎年4月に大阪では「在日本済州4・3事件犠牲者慰霊祭」が開催され、私はそれに実行委員として参加しているのだが、今回は私と同じくそれに関わっている金稔万さんの話を聞いてみた。いつも黙々とカメラを回し、慰霊祭を記録している稔万さんは、マイノリティの映像記録を生涯の仕事としているのだが、その経緯は済州と密接に結びついている。
稔万さんは1960年4月に神戸市の長田で生まれた。父は1930年に済州島の西側の村である翰林(ハルリム)で生まれ、同じ村出身の母(1932年生)と結婚し、1949年に勉強するために日本に来た。そしてその後、妻の兄(実家:ゴム工業)の援助で高校に通い、東京の大学にまで進学した。話がそこまで進んだ時に、「へんやろ。登録がないのに」と稔万さんは首をかしげた。
そもそも稔万さんはそれ以外にもお父さんの来歴を詳しくは知らないし、謎めいていることが多々あるという。例えば、お父さんも他の在日コリアンの1世たちがそうであるように、戦前に日本へ渡って来たと思っていた。ところが数年前に初めて、「密航で1949年に日本に来た」という事実を知らされた。しかし、なぜ1949年に、それも長男でありながら故郷を後にしたのかは知らない。さらには、先ほど首をかしげた問題、密航で日本に来たのだから、外国人が公的な手続きの際には必須の外国人登録をしているはずもないのに、なぜ、高校、大学に進めたのか、それさえもいまだに謎なのである。でも稔万さんは屈託がない。「ちょとずつ、ぼちぼち聞きますわ」とごく自然に語る。生涯向き合ってつもりというように、腰を据えているのだろう。
<1949年に密航で日本に来た。
<済州4・3の1年後ですw
<父親は登録がない朝鮮人。60年以上の不法滞在ですか?
龍王宮は自分のルーツにつながる
さてそのお父さんは、大学を卒業後、妻の兄のゴム工場でしばらく働き、やがて独立する。そして順調に事業は大きくなり、株式会社にまでなった。ところが、その後は災難続き。バブル崩壊、次いでは神戸を襲った大震災。そんな災難には辛うじて生き残ったが、2000年にはついに倒産。1983年に大学を卒業後はその会社で働いていた稔万さんもそれと同時に失業。その後はさまざまな仕事を転々。なかではリンゴの行商がよくて、200万もの大金を貯めることができた。そしてなんと、ようやく貯めたそのお金をはたいて、今の仕事の機材を買ったのだそうだ
「映画館で映画を見るのが好きだった」稔万さんは、倒産という不幸のおかげで時間ができ、ドキュメンタリー映画を撮り始める。原一男(ドキュメンタリー映画監督)の講座を受けたりもしたが、ほぼ独学という。これまでに、釜ヶ崎(西成)で4年間かけて「住民票を返せ」という作品を完成し、次いでは長居公園のテント村(ホームレスの人々の住まい)の作品をつくり、現在は龍王宮に関するドキュメンタリー作品を準備中である。龍王宮とは大阪桜ノ宮の河川敷に位置する在日一世女性の祈りの場であったが、2年前に行政によって取り壊されてしまった。その場での営みを作品として完成し、済州島出身一世女性の記憶を社会に伝え、後世に残したいと稔万さんは言う。

▲ 龍王宮の景色 写真提供:藤井幸之助
<河川敷の不法占拠。 強制撤去されて当然ですw
そんな作業の苦労と裏腹の悦びを稔万さんは次のように語る。
「ドキュメントはここを撮りたいと思っていても撮るなかで変わっていく。そして、撮る側の姿勢も問われていく。その意味でしんどいけど面白いし…撮り続ける意味も考えてゆく。…リスクをかかえて行う。龍王宮はルーツにつながる…」
ドキュメンタリー作品は時間がかかり、すぐに成果がでるものではないから、それで暮らしを立てることなどできはしない。しかも、いつ、何が起こるか分からないから、時間の制約がある定職に就くこともできない。そこで、週3回程度、日雇いの仕事や介護の仕事などをしてなんとか暮らしを立てながら、ドキュメンタリー製作活動に勤しんでいる。
ありそうでない、名前の裁判
そんな稔万さんも今の姿になるまでには、いろいろと紆余曲折があった。小学校から大学まで日本の教育を受けた稔万さんは、高校通学時に朝鮮学校の生徒と一緒になることがあっても「ちがう世界」の人たちだったと感じていた。小学校の時から日本の名前で通い、それに疑問を抱くこともなかったと言うのである。そこで「小学校のときから何の葛藤もなかったの」と問いを向けると、「うーむ」と考えたあげく、「そういえば、小学校のときオモニ(母)が学校に来るのがイヤだった」。それに、父が自慢していた金海金氏の家系図を学校に持って行って友達に見せたりしていたが、ある時から「これは見せるものではない」と思うようになった。小学校の高学年になると友達が家に来てハルモニ(祖母)やハラボジ(祖父)の写真を見られるのが嫌になった、といった具合に記憶を掘り起こしつつ語り始めた。そして、大学に入学後、在日の学生団体で初めて民族について学び考え始め、それが契機になって済州島へ行き、ハルモニに会ったが、日本語しかできない金さんを見て「こいつはチョッパリになってしまった」とハルモニは嘆いたそうだ。
そんな金さんが2009年5月、仕事場で日本名を強要されたことに対して「人格権」の侵害だと提訴した。日雇い労働を始めてからは民族名の金稔万で通していたのに、大手ゼネコン大林組の工事現場では姓を無理やりに「金海」に変えさせられた。日本の敗戦で朝鮮民族は解放されたはずなのに、日本社会の厳しい差別もあって「在日」の多くは日本名を名乗ることを余儀なくされてきた。それは強いられたものでありながら、在日コリアン個々には、自分の存在を偽るという罪責感をもたらしてきた。そんな呪縛を断ち切って解放されて生きたいと、稔万さんは日本社会に「名前の裁判」を提起した。自分の名前を取り戻し、人格を取り戻す戦いである。
取材・文 高正子
http://jejujapan.com/news/articleView.html?idxno=181

日雇いの前は通名使ってたようですねw
日雇いで食い詰めた在日が建設会社の社長を騙して、通名を強制したしないの訴訟に持ち込んだ。
そんな感じで
通名使用:在日韓国人の控訴棄却 大阪高裁「強制」は認定
毎日新聞 2013年11月26日 11時59分
職場で通名(日本名)の使用を強制されたとして、在日韓国人が雇用先の建設会社などに賠償を求めた訴訟の控訴審判決が26日、大阪高裁であった。林圭介裁判長は請求を退けた1審・大阪地裁判決を支持、男性の控訴を棄却した。1審判決と異なり、建設会社による通名の強制は認めたが、「アイデンティティーを侵害する悪意はない」と判断した。
原告は兵庫県尼崎市の作業員、金稔万(キム・インマン)さん(53)。判決などによると、2009年9月から約3カ月半、大阪・梅田のビル建て替え現場で日雇い作業員として働く際、雇用主の大阪市港区の建設会社から、元請けの大手ゼネコンに外国人と思われないよう、通名の使用を求められた。
判決は、現場で使うヘルメットの本名のシールを剥がされ、通名のシールを貼られるなど、「原告に必要のない通名の強制があり、アイデンティティーを侵害される結果になった」と認めた。
しかし、強制の理由については、外国人の雇用主に提出が義務付けられる「外国人就業届」を、ゼネコンから求められると建設会社側が誤解したためと指摘。「原告の速やかな就業を実現させる目的で、違法性はない」と結論付けた。ゼネコンや国の責任も否定した。1審判決は通名の強制自体を否定していた。【服部陽】
http://mainichi.jp/select/news/20131126k0000e040148000c.html