経済学者がみた韓国史
(33)植民地農業政策と地主制の発達
韓国経済新聞
入力2014-10-31 17:35:38 ¦ 修正2014-10-31 17:35:38 ¦紙面情報2014-11-03 S18面
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日本は植民地朝鮮を日本本土の米不足問題を解決するために米生産基地で作ろうと思った。 日本では1880年代末から産業革命が始まって都市の工場労働者に供給する米を輸入していたが1次世界大戦で米に対する需要が大きく増えるとすぐに米値が暴騰した。 ついに1918年には米値引き下げを要求する‘米騒動’が日本各地で起きて流血事態まで広がった。このような状況で日本米と同じジャポニカ系統である朝鮮米が代案に浮び上がることになったのだ。植民地朝鮮は円通貨圏中にあったので国際収支悪化を心配する必要もなかった。
朝鮮は日本米生産基地で
朝鮮総督府の農業政策は米生産を増やして日本本土に米を供給することが核心だったから畑作は軽視されて稲作が奨励された。1910年代は多収穫品種である日本種もみを‘優良品種’と普及させる程度だったが、1920年代には‘産米増殖計画’を樹立して貯水池水路のような灌漑施設を大幅拡充した。 これに対し必要な資金は東洋拓殖会社と殖産銀行が日本大蔵省から借入れたり債権を発行して調達した後地主と農民で組織された水利組合に利子を受けて提供された。 水利組合は組合費分配を囲んで紛争が広がったりもしたが、灌漑面積を1920年3万2000余町歩で1935年22万6000余町歩で大きく膨らませた(1町歩=3千坪=9917㎡).
だが、全体灌漑答で水利組合の灌漑答が占める比重は1930年代にも20%に過ぎなかったという点は興味深い(図).
同じ期間灌漑答が34万余町歩から116万余町歩に大きく増加して全体畑で灌漑答が占める比率が22.1%から68.3%に高まったためだ。増加した灌漑答の大部分は水利組合でない一般地主·農民の自発的な努力によったことだった。 水利組合も産米増殖計画初期には日本人地主が中心となった大規模水利組合が多かったが時間が過ぎるほど朝鮮人による小規模水利組合の比重が増加した。
総督府の産米増殖計画はしかし1930年以後停滞した。 農業不況で日本本土の農家が困難を経験するとすぐに1934年から灌漑施設建設が中断されて代わりに優良品種普及と肥料投入増大政策が施行された。 興南(フンナム)の朝鮮窒素肥料工場完工は肥料使用量増加の契機になった。
灌漑施設の拡充と品種改良および肥料投入増加で米生産は起伏があるが1920年1440万席で1930年2183万席、1937年最高2680万席に大きく増加した。
ところで増加した米はほとんどの日本に販売されて国内消費量は別に増えなかった。 1916~1920年には米生産量の15.7%が移出されたが、1931~1935年には49.3%も移出されたのだ(少量の輸出含む).
米移出を主導したことは地主であった。 一般農民は自分の土地を耕作する自作農でも市場に販売できる米はいくらならなかったけれど地主は小作料でおさめた米の大部分を販売できたためだ。 1930~1933年に地主は1号党62.3席を取得したが自作農は5.4席、小作農はやっと2.2席を手に握ることができただけだ。
このような意味で植民地時代地主制は一言で話して日本に米を移出するための農業制度であった。 万一、地主制度が解体されて地主が小作農から小作米をおさめることができなくなるならば多くの米は農民の自給用で消費されて日本移出物量が大きく減るためだ。
地主制度発達で農民80%が小作農
植民地時期の経済を解放後と比較する時最も大きい差は地主制度が発達したという点だ。 地主から畑を借りて農作業をする小作地は土地調査事業が終わる1918年には全体耕地のうち50.4%だったが1942年には58.3%に増加した。 同じ期間に小作農街道37.8%から53.8%に急増した。 小作農に自作と小作を兼ねる‘自小作農’を加えればほとんど80%に達して植民地時代ほとんどの農民は小作をしたといっても過言ではない(図). 小作料は朝鮮時代にすでに‘並作半収’といって地主と小作人が収穫を半々に分けることが慣行であったのに植民地時期には50%が普通だったが70~80%である場合もあった。小作料率がさらに高まったのだ。小作料負担のために小作農生活は極貧状態を抜け出しにくかった。 春に養殖が落ちて飢える‘春宮農家’が自作農は18.4%だったが、小作農は68.1%もなった(1930年).農民大部分が小作農であったため農民の半分近くが春宮農家であった。
地主制がこのように極限まで発達することになった原因はどこにあるのだろうか? 米の商品化と移出に積極的だった総督府政策で原因を探すことができるだろうがこれだけで全部説明することはできない。 まず地主で畑を借りた小作農が農作業をまともに作ることができなくて小作料もまともに納付できないならば地主制が発達できない。 そのような側面で植民地時代地主制は朝鮮後期以来成長した小農経営の延長線で理解しなければならないだろう。 人口増加も地主制発達の一原因だ。 伝染病予防と同じ公衆衛生と医療施設が普及することによって朝鮮時代に0.22%に過ぎなかった年平均人口増加率が植民地時期(1911~1940年)に1.29%に非常に高かった(13回参照). 商工業の発達が微弱で人口大部分が農村に残るほかはなくて土地需要が増えた原因もある。 小作需要が多くて小作料を高く受けることができたので地主は余裕資金で土地を購入、小作を与えることが有利だった。 総督府の土地調査事業で土地所有権証明制度が取りそろうことによって(32回参照)土地取り引きが便利になって土地を担保で融資を得るのが容易になったのも地主制発達を促進した。
社会葛藤激しくなるとすぐに農民にも関心
地主制が極限まで発達することになるとすぐに地主と小作人間葛藤が激しくなった。 1920年代から地主、特に日本人地主を相手にした小作争議が頻繁になった。 1930年代以後には農業の深刻な不況で農村社会に階級葛藤が深くなった。 さらに1931年満州事変、1937年中日戦争·がさく烈して日本の大陸侵略が本格化するにつれ戦争遂行のための総動員体制を威嚇する階級葛藤を緩和する必要ができた。
これによって地主を主とした総督府の農業政策が農民にも関心を持つ政策に変わり始めた。1932年から‘農村振興運動’という自力更正運動を始める一方1934年には‘朝鮮農地令’を公布、小作地管理者の変更を命令できるようにして小作地賃貸借期間を3年以上に決めた。 1939年には小作料引き上げや小作条件を小作人に不利に直すのを禁止した。 1940年から食糧供出が始まるとすぐに地主制発達はこれ以上不可能になった。 しかし植民地地主制の完全な解体がなしで農民生活の改善と農村社会の安定は有り得ないことだった。
キム・ジェホ<全南(チョンナム)大学校経済学部教授>