崔南善氏の功罪について…
功績について、以下の事が考えられます。
○「独立宣言書」の起草を任された。3月1日、「独立宣言書」が朗読され、三・一独立運動が起こる。その2日後、3月3日、崔は日本当局に逮捕される。
○1921年10月8日、仮出国した崔は、朝鮮の「天下の巨人」として歓迎された。
○週刊誌『東明』や新聞『時代日報』を創刊するなど、活発な言論活動を行った。特に、1926年に刊行された時調集『百八煩悩』は朝鮮人の心を掴んだ。1927年に「朝鮮と朝鮮民族」第1集に天から下った桓雄と壇君に代表¥される「不咸文化」は朝鮮起源で、古代中国や日本で文化を形成し、ユーラシア全域に広まったとする『不咸文化論』を発表¥する。
以上が韓国側で、立派な功績とされる部分かと思います。
そして親日的(反国家的)と表¥される箇所は以下ですよね
(親日だろうと、朝鮮の発展に寄与すれば、何の問題も無いと思いますが)
○1928年12月、崔は朝鮮総督府の朝鮮史編修会の委員になる。世間はこれに対し崔を非難し、韓龍雲からは「崔南善という人は、私の中ではもう亡くなった人だ」とまで言われたという。
○1939年、日帝(大日本帝国)は満州国の長春に建国大学を設け、その教授の1人に崔を指名、崔は満州に赴き教鞭を執ることとなった。崔は、日帝の組織の中で、朝鮮の存在を正しく認識させるために尽力した、とも言えるが、人々の視線は冷たかった。
功罪のバランスを考えてみよう。私には韓国の国益に充分・寄与していると思えます。
そして、以下のような処罰も受けています。つまり日韓両国から処罰を受けた事になります。
○1944年、朝鮮に戻り、京城(ソ¥ウル)市城北区牛耳洞に居を構¥える。自宅を「素園」と名づけ、引きこもってしまう。解放後の1949年、反民族行為処罰法により処罰を受ける。
さらに、悲劇なのは
○1950年6月に勃発した朝鮮戦争で長女は共産暴¥徒に虐殺され、3男の漢倹は行方不明、長男の漢因も死亡と、不幸が続き、17万の蔵書も焼けてしまう。一時、韓国軍の陸軍大学で国史を講義するも、1955年4月、病に臥す。それから2年後の1957年10月10日、午後5時、67歳で死去した。
以上、充分過ぎるほどの「罰」を受けていたと言えませんか?
にもかからわず、近年になって「親日反民法」(私には悪法に思えるが…)なる法律により、
改めて辱めを受けているように思えるのです。
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全成坤『日帝下文化ナショナリズムの創出と崔南善』
からの記述を記しておこう。
「親日反民法」が多くの日本人の誤解を招かないことを期待しながら、あらためて私なりに親日を定義するならば、それは「日本と親しい者を」を非難したり批判したりすることではない。
「日本協力者」の意味を模索し、それを韓国人が自分自身に突きつけることである。70年生まれの私の世代は、「脱植民地化」時代の論議をそのままでは解釈しにくい。
また、過去の親日を研究する際にも、単純に「民族の裏切り者」とレッテルをはり、業績を丸ごと葬り去るようでは、歴史の再構¥築にはつながらないことも指摘しておきたい。
私は、日本に留学経験のある歴史学者崔南善が、日帝下で親日者であることを逆手に取りながら、民族アイデンティティを探ろうとしていた、との仮説を立てて、研究してきた。しかしこの研究テーマは、韓国では「日本帝国主義の肯定者側の論理に聞こえ、あなたの立場を難しくする」と忠告された。
これが現実だ。
日本の一部の新聞や雑誌では、「親日反民法」を「反日法」と呼び、この法が両国の友好関係を危うくするととらえているようだ。しかし私は、両国の相互関係のためにも親日派の問題を、ある政治体制の中、私利私欲で働いた人、思想的に変節した人たちの問題ととらえ、人間本性への警告として受け止めるような、歴史観構¥築の端緒とすべきだと思う。
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日本人は、3・1運動「独立宣言文」の起草者でもある「崔南善」氏を、満州(長春)の大学教授として、迎えた。
独立運動以降も・当然日本当局から、目をつけられていたのは間違いはないだろう。
では、なぜか?彼が親日だったからか? 違います。氏の卓越した能¥力が有ったからです…。
貴方達、韓国人は本当に能¥力の有る人間を見極める力が有るのか?
多くの「有能¥な人材」を「親日」と称し、抹殺して来なかったのか?
*****その答えは、現在の指導者層を見れば理解できるのかもしれない******