巨済島で一番近くの島国日本対馬島, つかまるようバラダーボながらも必ずその道を後ろ向きになって行かなければならない遠い
天恵の自然環境がそのまま生きて呼吸する対馬島は総 109個の島で成り立っていてこの前には人も住みにくくて流刑までも送らなかったという不毛で油気がない薄土の地だった. しかし今は黄金の島になって日本の中でも自然環境が一番よく保存した所でうわさが立っている. 長崎県に属した対馬島は朝鮮王朝最後の貢主人ドックヒェオングズがお嫁になった所で政略結婚の見代わりであるドックヒェオングズは栄親王とともに朝鮮王朝の栄辱の歳月を自らぶつかりながら暮して来た皇孫たちだった.
大麻視聴のある厳原は私たちの巨済の木像浦項と似ている所だ. 宿泊施設で基盤施設は巨済島の 70年代水準よりできないが韓国観光客が大部分である対馬島は誰が何だと言っても自分たちの生の方式に別に不便さが感じる事ができなくてそらんじようと観光客たちを自分たちの吸収になるように誘導している. 特に長い海岸線は南海岸地域の台風と津波などによる被害を減らしてくれて歴史的でも多くの交流の窓口としてその役目をして来ている.
お弁当にうどん一杯寿司の含まれたお昼は対馬島シックダングチゴンこぎれいに出た. そして仲間は朝鮮通信使謝絶たちがとどまったグックブンサとナカライトシュ文学官, ハチだけ宮, ドックヒェオングズ雨, 大麻歴史博物館などを振り返ってホテルに旅装を解いた. 小さな島の中のホテルルームは狭いがこぎれいだった. 海産物バーベキューで夕飯を食べてうちの連中(巨済島チーム)は他の食べ物をチァッハ厳原港をセバクィやお金次には問って問って尋ねた所が転覆料理がお上手だという食堂だった. ところでその日に限って波が深海書なのか私たちは自然産転覆 1kgを 1600円を与えて食べて本当におつゆ味があきれたうどん一杯ずつをまた食べて宿所に帰って来た. 私はには転覆値段が我が国より安かったがこの日はかなり高かった. もちろん大きい食堂だからそれ位ほどは与えても良いろうと思ったが後がチァクドルアだ見えることは仕方なかった.
翌日味方は他のチームにはないコースであるああ母都市自然公園に向けた. 2泊3日コースであっては行くことができる所を記事様をせがんでまた超ああ母都市に行った.
ツツザキ公園とドングデがは道にあるああ母都市自然公園は言葉とおり天恵の岩盤の上を流れる谷水が一品だ. 無人販売台と無公害農産物, 対馬島で唯一に稲作ができるこの地域は稲がイックオがは姿で秋なのを感じることができるそんな所だ. 大波小波足を渡って谷水に手を浸してプロムナードを一回り回ってバンガローでありキャンプ場を見回す姿で公務員たちの雪道が尋常ではないということを感じた.
仲間はまた厳原に帰って来て万板橋に向けた. かけて二つの対馬島を渡る気持ちはさわやかそのものだ. 露日戦争のためにわざわざ島を切って水路を作ったという万板橋は狭い海域間で流れる水路だけ見てもオジルオジルするまでする. しかしこの海域を含み, 対馬島のすべての海域は清浄海域で万板橋下魚販場前海下にまで赤くて白い珊瑚礁の育つ姿はこちらがいくらきれいなのかを実感させる.(去年水産とチームと流通構造事業場を察するために訪問したことがあったら)
仲間はまた車に乗ってエボシタケ見晴らし台に向けた. 点点と置かれた島々と秋を抱いている根深い対馬島の山と海は美しいという話よりどうして我が国がこの島を捨てなければならなかったのかそれがもっと分かりたかった. バスの中で河東郡庁のリ・ゾンス係長様, 真珠視聴のキム・ヨンギュ課長, 巨済視聴朴種菌係長様, 梁山視聴催正巡課長以下仲間たちと歴史話の花を咲かせてどうして私たちが対馬島でわはヘッヌンジの解答たちを捜すために苦心たちをした.
山が深いのに完璧な煮付けることを誇る対馬島の山林は見れば見るほど舌が巻かれる. この島の木を含み日本全域のベア八面戦日本人口が 50年はそのまま食べてサンダや.... 本当にあきれる. 山林森をいくら回って行っただろうか. 春に来て見たイパブナムドルが整然と並ぶ市内に立ち寄ってこの地域の名物という樺が入っているタイ焼きを事故, 韓国のどのお寺が建築したという遠通寺に聞こえた後また仲間は韓国見込みどおり向かった. 皆天気がケクッすることだけを望んで上がったが巨済島も釜山も淡い霧に選り分けたように見えなかった. ただ携帯電話だけ裂けるのかあちこちで電話すると大目玉だ.
そして私はその所で去る春ゴゼムンヒョブ李永好電池部長とその仲間たちをマンナッドレッダ. 当時行ったチームは巨済島チームだったが 3-4年ぶりに会った文人たちなのでそうか嬉しいのがかぎりがなかった. 彼らはソウルから釜山まで汽車に乗って下ってまた対馬島で船に乗って来たの. 朝鮮通信使たちが馬に乗って来た途中をこれらは汽車に乗って来たのだ. 日本自衛隊が勤める海軍レーダー基地前島々を見てその所で波に荒されて帰った多くの朝鮮の歴官たちと通信社らの愛国の長さ, ここに韓国戦望台公園のやや小い碑石の中の名前に記憶されている事にすまないことが先に進む.
旅行はこんなのだろう. 分からなかった人が知って, 前に感じることができなかった生の悔恨と心の荷物を減らして自分自身がどうやって暮さなければならないはずなのかを考えさせる ... そういうもの. 今度旅行に公務員ではないアウトサイダーに一緒に一巨済タイムズ朴チュン光社長, バックムンギル関税士, 金・ヒョングテック社長, 彼らは私たちの連中のまた他の感じを見せてくれた人々だった. 写真も撮って運ぶことが地域人々の生と哀歓を文で残そうとするゲッククンドルだった.
Miura海水浴場の美しい砂浜を歩いて, 温泉も, してヒタカズで一番おいしい寿司お弁当弁当(この家は対馬島で本一番伝統的な日本食堂なら)も食べて食堂おばさんの明るいほほ笑みとあまりにも清潔で静かにお客さんを迎える食堂雰囲気と, その家主人の感じがそのまま染みているトイレ(とてもきれいでゾングガルしたら)を鑑賞しながら私たちの食堂文化がいくら複雑でうるさなのかをもう一度感じた. 1泊 2日間の短い日程は言葉とおりあっという間に過ぎ去った. 高い波のため 1時間 30分なら来る波路が約 3時間が充分にかかった. 吐き気に皆大変だったが勇ましい巨済チームたちは誰も吐き気をしなかった. ゲッが人々なのでそうするのかと陸地人々が聞き返した.
이금숙씨이국땅. 50킬로미터도 채 안 되는 바닷길을 사이에 두고 우리나라 사람들은 제주도보다 더 힘들게 대마도로 간다. 대마도는 한반도와 일본 큐슈사이의 대한해협 중간에 위치한 섬으로 큐슈내 나가사키현 사도가시마, 카고시마현의 아마미오오시마에 이어 3번째로 큰 섬이다.
열 번도 더 넘나 든 대마도지만 매번 가는 손님들이 다르고 가는 시절이 다르다보니 새롭다. 가을의 끝자락을 붙잡고 경남도내 각 지역 시청가족들과 함께한 이번 여정은 가을 날씨덕분에 더운 줄을 모르고 여행을 했다. 새벽바람에 8시 30분 배를 탄 일행들은 이즈하라에 도착해 점심을 먹고 도보여행에 나섰다. 섬은 가을 날씨 탓인지 서늘한 바람이 불어 찌는 여름에 왔던 때를 비교해 너무 편안한 관광이라고 생각됐다. 썬 플라워호를 타고 이즈하라에 내린 시간은 12시 10분경, 걸어서 최익현 선생의 순국비가 세워진 수선사를 방문하고 골목을 돌아 점심식사를 하러 갔다.
가이드로 함께 간 일본랜드 유해린 과장은 우리 여행사 전담 가이드라 벌써 몇 번째 만나는 사람들도 있어 한 집 식구나 마찬가지, 다른 일행들과 슈퍼도 돌아보고 먹거리도 사고 나름 신경을 쓰느라 분주하다.
이즈하라시 전경
가이드의 설명을 들으며 일행은 다시 와따즈미 신사로 내려와 일본 천황의 전설과 일본의 역사, 백제계 아비루라는 성씨를 갖고 살았던 후손의 얘기들과, 가야계, 신라계 사람들의 일본 진출, 또 고려계 사람들의 일본 진출 얘기들을 들으며 어찌 보면 대마도나 일본 모두가 우리의 선조들이 건너가 개척한 땅이 아니었을까 생각해 본다.
가을을 안고 떠난 대마도 여행길이 다시 가을을 안고 왔다. 사람들은 말한다. 여행이 끝나면 또 다른 여행을 시작하자고... 그러나 그 길이 언제일지는 알 수 없다. 또 언제 만나게 될런지도 모른다. 다만 떠날 수 있다는 기대감으로 꿈을 꾸고 살면, 언젠가는 또 다시 다른 여행의 길목에서 만나게 되지 않을까. 함께 한 공무원들 모두 이번 여행으로 삶의 재충전이 되기를 기대한다. 그리고 예쁜 양산멤버들, 그들에게도 안부를 묻고 싶다. 혹여 거제도로 놀러 오실 일이 있거들랑 꼭 연락 주시기를 고대하며 지금 글을 쓰는 이 시간, 가을의 끝에서 만가(輓歌)를 부르며 나는 또 어디론가 떠날 채비를 서두르고 있다. <필자:이금숙/시인/세계항공 거제지사장>
와따즈미신사
아유도모시 자연공원 숲길
와따즈미신사앞에서
한국전망대서 바라본 바다 풍경
한국전망대서 바라 본 해상자위대 기지
하찌만 신궁
이즈하라 항 여객부두
아유도모시 자연공원 내 계곡
전망대에서 바라 본 대마도의 섬들(아소만)