日東壮遊歌
、江戸時代の1764年(明和元年)に第11次朝鮮通信使として来日した金仁謙が書いた記録である。
特に有名なのが下記の記録である。当時の中華思想のため、全般的に日本人を見下しつつも、当時の日本の大都市の繁栄ぶりに驚いている。 (昔も今も朝鮮人は同じ。. . . . . .)
摂津大坂(大阪)を見た時の記録
三神山の金闕(きんけつ)銀台(ぎんだい)とは、まことのこの地のことであろう。
人家が堀や軒をつらね、その賑わいの程は、わが国の鍾絽(漢城の繁華街)の万倍も上である。
北京を見たという訳官が、一行に加わっているが、かの中原の壮麗さもこの地には及ばないという。
我が国の都城の内は、東から西にいたるまで一里には及ばない。富貴な宰相らでも、100間をもつ邸を建てることは御法度。屋根を全て瓦葺にしていることに 感心しているのに、大したものよ倭人らは 1000間もある邸を建て、中でも富豪の輩は 銅を以って屋根を葺き、黄金を以って家を飾り立てている その奢侈は異常なほどだ。
穢れた愚かな血を持つ 獣のような人間が、周の平王の時にこの地に入り、今日まで二千年の間世の興亡と関わりなく一つの姓を伝えて来て、人民を次第に増えこのように富み栄えているが、知らぬは天ばかりなり、嘆くべし恨むべしである。
この国では高貴な家の婦女子が厠へ行くときはパジを着用していないため、立ったまま排尿するという。お供のものが後ろで、絹の手拭を持って立ち、寄こせと言われれば渡すとのこと。聞いて驚きあきれた次第。(朝鮮では家舎に制限があり、最高権力者の大君とその嫡子でも60間まで)
京の都を見た時の記録
惜しんで余りあることは、この豊かな金城湯池が、倭人の所有するところとなり、帝だ天皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである、この犬にも等しい輩を皆ことごとく掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳をもって礼節の国にしたいものだ。
倭王は奇異な事に、何一つ知る事無く、兵農刑政の全てを関白に委ね、自らは関与せず。
尾張名古屋を見た時の記録
山川広闊にして、人口の多さ、田地の肥沃、家々の贅沢なつくり、遠路随一といえる中原にも見あたらないであろう朝鮮の三京も大層立派であるが、この地に比べれば、寂しい限りである。
人々の容姿の優れていることも 沿路随一である
わけても女人が 皆とびぬけて美しい 明星のような瞳 朱砂の唇 白玉の歯 蛾の眉 茅花の手 蝉の額 氷を刻んだようであり 雪でしつらえたようでもある
(蛾の眉=蛾の触角のような美しい曲線の眉 美人の眉の形容) (蝉の額=秋の蝉の羽のように透き通って美しい額の形容)
女人の眉目の麗しさ 倭国第一といえる
若い名武軍官らは 道の左右で見物している美人を 一人も見落とすまいと あっちきょろきょろこっちきょろきょろ 頭を振るのに忙しい まるで幼児のいやいやを見ているようであった
武蔵江戸を見た時の記録
楼閣屋敷の贅沢な造り、人々の賑わい、男女の華やかさ、城郭の整然たる様、船や橋にいたるまで、大坂、西京(京都)より三倍は勝って見える。