概要
製氷する技術が無かった時代には、冬場にできた天然の氷を溶けないように保管する必要があった。
正確な記録は残されていないが、洞窟や地面に掘った穴に茅(かや)葺(ぶ)きなどの小屋を建てて覆い、保冷したとされる。
氷室の中は地下水の気化熱によって外気より冷涼であるため、涼しい山中などではこの方法で夏まで氷を保存することができる。
このように天然のものを保管するしかない時代、夏場の氷は貴重品であり、永らく朝廷や将軍家など一部の権力者のものであった。
歴史的には『日本書紀』仁徳天皇六十二年の条に額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が
闘鶏(つげ。現在の奈良県天理市福住町)へ狩りに出掛けたとき、光るものを発見したとの記述が最初の登場とされる。
それがその後も『日本書紀』の孝徳紀に氷連という姓が登場し、朝廷のために氷室を管理した職が存在したことがうかがえる。
例えば朝廷の要職を占めた家の一つ鴨縣主家(主に賀茂神社の神官を輩出した、亦元豪族か。
賀茂神社祭神は鴨家の氏神)の家系図には氷連、氷室の記述が見られる。
奈良で出土した奈良時代の長屋王の木簡から「都祁氷室(つげのひむろ)」と書かれたものも見つかっている。
平城京では春日山に氷室が置かれ、宮中への献氷の勅祭を行った。
平安京への遷都の後に奈良にあった氷室を祀(まつ)る形で設けられたのが現在奈良市春日野町にある氷室神社である[1]。
その後も氷室とそれを管理する職は各時代において存在し(律令制においては宮内省主水司に属した)、明治時代になって消滅した。
江戸時代には、毎年6月1日にあわせて、加賀藩から将軍家へ氷室の氷を献上する慣わしがあった。
また土蔵造りの氷室が江戸市中にも作られるようになり、一般庶民に夏場の氷が供給されるようになった。
江戸は玉川上水より水道水が飲み水として供給されていたが、夏場にはぬるくなってしまう。
そのため、氷で冷やした水を売る水屋という商売が誕生した。
ただし川から汲(く)んだ水に氷を入れたものであったため、衛生面の問題により高齢者の場合は腹をこわすことがよくあり、
「年寄りの冷や水」という言葉が生まれた。
これを題材、題名とした能の演目がある。脇能物の荒神物のひとつ。
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