
写真は、借り物。青山 光子(aoyama mitsuko・Mitsuko Coudenhove-Kalergi)。1874年生まれ。1941年に亡くなる。
以下、青山 光子(aoyama mitsuko・Mitsuko Coudenhove-Kalergi)に関しては、wikiを参考にしました。
青山 光子(aoyama mitsuko・Mitsuko Coudenhove-Kalergi)(以下、青山 光子(aoyama mitsuko)と書きます)は、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)帝国の貴族と結婚した、日本の、庶民出身の女性です。
青山 光子(aoyama mitsuko)は、1874年、骨董品店(antique shop)を営む家の、三女(3人目の娘)として、東京で、生まれました。
青山 光子(aoyama mitsuko)は、小学校卒業後(当時、日本において、義務教育は、小学校までであった)、上流階級の社交の場であった、東京の、会員制の、高級日本料理食堂、紅葉館(koyokan)(下の補足説明を参照)に、勤務していました。
紅葉館(koyokan):1881年創業。第二次世界大戦末期(1945年)の、アメリカ軍の空襲により焼失した事により閉店。敷地面積は、4,600坪(約15,200平方m)あった。現在、跡地には、東京tower(1958年に完成)が建っている。
東京towerに関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
東京都心散歩前編→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3796908?&sfl=membername&stx=nnemon2
東京都心散歩前編(韓国語)→
https://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_16/view/id/3796908?&sfl=membername&stx=nnemon2
青山 光子(aoyama mitsuko)は、1892年(17歳か18歳の時)、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)帝国の駐日大使(日本における大使)として赴任して来た、Heinrich von Coudenhove-Kalergi(貴族(伯爵)・外交官。オーストリア(Austria)の貴族の家に、長男として生まれる)に、誘われ、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)帝国の、駐日大使(日本における大使)の公邸(住居となっている邸宅)に、メイド(maid)として勤務しました。
翌年、1893年、Heinrich von Coudenhove-Kalergiと、青山 光子(aoyama mitsuko)は、結婚しました。
東京で、2人の間に、長男(1人目の、男の子供)と、次男(2人目の、男の子供)(Richard von Coudenhove-Kalergi)が生まれました。
1896年、青山 光子(aoyama mitsuko)は、夫の祖国である、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)帝国へ渡りました。青山 光子(aoyama mitsuko)は、その際には、昭憲(shoken)皇太后(当時の、日本の天皇(明治(meiji)天皇)の妻)から「異国(外国)にいても、日本人の誇りを忘れないでください」と激励されました。
Heinrich von Coudenhove-Kalergiの家は、現在のチェコ(Czech Republic)のドイツに接する地域に該当する地域に、広大な土地(領地)を持つ大地主の(とても、大規模な地主の)、貴族(伯爵)の家でした。Heinrich von Coudenhove-Kalergiの親族達は、東洋人(アジア人)で、仏教徒(仏教の信者)でもあった、青山 光子(aoyama mitsuko)を奇異の目で見ました。Heinrich von Coudenhove-Kalergiは、「青山 光子(aoyama mitsuko)を、ヨーロッパ人と同等の扱いをしない者とは決闘をする」と言い、青山 光子(aoyama mitsuko)の庇護に努めました。
その後、2人の間には、5人の子供が生まれました(東京で生まれた2人の子供と合わせて、子供の数は、合計7人)。
Heinrich von Coudenhove-Kalergiは、子供達が、完全な、ヨーロッパ人として成長することを望み、日本人の乳母(wet nurse )を帰国させ、青山 光子(aoyama mitsuko)に、日本語を話すことを禁じました。青山 光子(aoyama mitsuko)は、多忙な夫以外に心を打ち明けられる人間がいなくなり、強烈なホームシック(homesick)にかかってしまいます。Heinrich von Coudenhove-Kalergiは、夫婦、又は、青山 光子(aoyama mitsuko)単独で、一時的に、日本に戻る事を計画しますが、長期間、幼い子供達と離れる事は、難しい事でした。夫婦仲は良かったですが、18ヶ国語を理解し、特に、哲学に関しては学者並みの知識を持つ教養豊かなHeinrich von Coudenhove-Kalergiと、小学校を卒業しただけの学力しかない、青山 光子(aoyama mitsuko)とでは教養の水準の差が大きかったです。子供達の事以外に、夫婦で繋がりを持てるものは少なかったですが、青山 光子(aoyama mitsuko)も、ヨーロッパに渡った後に、自分の無学を恥じて、歴史・地理・数学・語学(フランス語・ドイツ語)・礼儀作法等を、家庭教師を付けて、熱心に勉強しました。
1905年の、日露戦争(1904年から1905年にかけて行われた、日本と、ロシア(Russia)との間の戦争。日本が実質的に勝利した)により、日本の国際的地位が高まると、青山 光子(aoyama mitsuko)への偏見も和らぎますが、翌年の1906年には、Heinrich von Coudenhove-Kalergiが、心筋梗塞により急死しました(急に亡くなりました)。Heinrich von Coudenhove-Kalergiの遺産は、全て、青山 光子(aoyama mitsuko)が相続するように、遺言がなされていました。親族は、財産を巡り訴訟を起こしますが、青山 光子(aoyama mitsuko)は、自ら法律書を読み法律の勉強をして、これに勝訴しました。以後、青山 光子(aoyama mitsuko)は、夫の遺産を相続し、貴族(貴族(伯爵)の未亡人)として、簿記などを勉強し、家政を取り仕切りました。そして子供達の教育のため、ウィーン(Vienna)へ引っ越しました。
1914年に始まる、第一次世界大戦では、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)帝国と日本は、敵国同士として戦うことになり(日本は、第一次世界大戦において、連合国として参戦した)、青山 光子(aoyama mitsuko)への差別は、強まりました。また、3人の息子の内の2人が兵士として従軍したり(Richard von Coudenhove-Kalergiは、肺の病気で徴兵を免れた)、青山 光子(aoyama mitsuko)自身も赤十字社を通しての食糧供出に奔走する等、多難な時期を送りました。
1918年に、第一次世界大戦が終わると、次男(2人目の、男の子供)、Richard von Coudenhove-Kalergiが、有名な舞台女優、Ida Roland(ユダヤ系の(Jewish)、オーストリア(Austria)の女優)と結婚すると言い出し、青山 光子(aoyama mitsuko)と対立します。Richard von Coudenhove-Kalergiは、家を飛び出し、Ida Rolandと結婚しました。青山 光子(aoyama mitsuko)は、女優に対する、強い差別意識と偏見があり(女優の事を、旅芸人(tabigeinin)(下の補足説明を参照)と同じ様な者で、魔女と思っていた)、Ida Rolandとの結婚に激怒し、Richard von Coudenhove-Kalergiと絶縁しました。
旅芸人(tabigeinin):旅芸人(tabigeinin)は、日本の、とても古くからある職業の一つで、日本全国を、回って、演劇(大衆演劇)等の、芸を行う事を職業とする人々です。昔は、旅芸人(tabigeinin)は、蔑まれ、差別される対象であった一方で、田舎の、村の人々は、旅芸人(tabigeinin)が、訪れて来るのを、楽しみにしていた様です。ちなみに、時代の流れと共に、今は、旅芸人(tabigeinin)の数は、とても、少なくなっている様です。歌舞伎(kabuki)(日本の、伝統的な、大衆演劇の一つ)俳優等も、ルーツ(原点)は、旅芸人(tabigeinin)と同じです。したがって、日本においては、昔は(伝統的には)、歌舞伎(kabuki)俳優は、たとえ、成功し、有名となり、人々の憧れの対象となったとしても、職業的な身分としては、一般人(一般的な人々)よりも下と見られていました。こうした事(こうした、伝統的な職業差別)は、現代の日本人の中でも、無意識的・意識的に、一部、残ってはおり、芸能人(俳優・女優・アイドル(idol)歌手・モデル(model)・お笑い芸人(コメディアン(comedian))等)は、幾ら、成功し、金持ち・裕福になったとしても、職業的な身分としては、一般人(一般的な人々)よりも下と見る人もいます。日本では、保守的な家庭では、子供が、芸能人(俳優・女優・アイドル(idol)歌手・モデル(model)等)になりたいと言ったら、反対する親が、少なからずいますが、もちろん、反対する理由は、他にもありますが、反対する理由の一つとして、そうした(前述した)、旅芸人(tabigeinin)・歌舞伎(kabuki)俳優等から始まる、日本人の、伝統的な(古くからの)、芸能人(俳優・女優・アイドル(idol)歌手・モデル(model)・お笑い芸人(コメディアン(comedian))等)に対する職業差別的な意識と言うのもあると思います。
青山 光子(aoyama mitsuko)は、Richard von Coudenhove-Kalergiが、財産分与の話を持ち出した際も、Ida Rolandへのプレゼント目当て(Ida Rolandへの贈り物)と分かり、余計、意地になりました。その後、Richard von Coudenhove-Kalergiは、Ida Rolandの経済的支援で「汎ヨーロッパ(Pan-Europa)」を出版し、一躍、ヨーロッパ論壇の寵児となりました(ヨーロッパの知識人の間で、有名人となりました)。なお、青山 光子(aoyama mitsuko)が、Richard von Coudenhove-Kalergiの、Ida Rolandとの結婚を反対した理由は、Ida Rolandが女優であった事に加えて(あるいは、Ida Rolandが女優であった事は、実は、表面的な理由で)、Ida Rolandが、ユダヤ人で(当時は、欧米社会において、まだ、依然として、宗教等に基づく、ユダヤ人に対する、差別意識と、強欲(金の盲者)である等と、ユダヤ人に対する偏見が根強かった?)、離婚歴が、2度有り、年齢が34歳で、19歳のRichard von Coudenhove-Kalergiと大きく年齢が離れており、当時としては、常識的に考えても、結婚を賛成し難い状況であった為であるとも言われています。
Richard von Coudenhove-Kalergiに関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を、参照して下さい。
Richard von Coudenhove-Kalergi→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/4041068?&sfl=membername&stx=nnemon2
Richard von Coudenhove-Kalergi(韓国語)→
https://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_26/view/id/4041068?&sfl=membername&stx=nnemon2
青山 光子(aoyama mitsuko)の長男(1人目の、男の子供)の、Johann Graf Coudenhove-Kalergiは、貴族(伯爵)を継いで、父(Heinrich von Coudenhove-Kalergi)が、現在のチェコ(Czech Republic)のドイツに接する地域に該当する地域に保有していた、土地(領地)の領主となりましたが、第一次世界大戦で、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)帝国が、敗戦、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)帝国が、崩壊し、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)帝国内の、諸国が独立すると、領地の多くを、チェコスロバキア(Czechoslovakia)の政府に没収され、過半の財産を失いました。
Johann Graf Coudenhove-Kalergiは、裕福な、ユダヤ系の(Jewish)、ハンガリー(Hungary)人の家出身の(ブタペスト(Budapest)の、裕福な、ユダヤ系の(Jewish)、実業家の家出身の)、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)帝国で、最初の、女性の、飛行機のパイロット(pilot)である、リリー・シュタインシュナイダー(Lilly Steinschneider)と、最初の結婚をし、女性の子供を一人を儲けましたが、66歳で離婚し、69歳で、ドイツ人の女優と再婚しました。Johann Graf Coudenhove-Kalergiは、再婚してから2年後に、ドイツで亡くなりました。Johann Graf Coudenhove-Kalergiは、変わり者(風変わりな人物)としても知られ、自宅に自分の像を模した暖炉を取り付けたり、チェンティグローリア(Centigloria)公爵のペンネーム(pen name)で、スキャンダラス(scandalous)な本を執筆したりしました。
青山 光子(aoyama mitsuko)の、三男(3人目の、男の子供。ジャーナリスト(journalist)をしていた)は、青山 光子(aoyama mitsuko)の7人の子供の中で、唯一、貴族と結婚しました(妻は、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)帝国の貴族の家の娘)。青山 光子(aoyama mitsuko)の、三男(3人目の、男の子供)の孫(イギリスのロンドン(London)で生まれた)は、2009年に、Charles I of Austria(オーストリア(Austria)の皇帝)の曾孫と結婚しました。
青山 光子(aoyama mitsuko)の、長女(1人目の、女の子供)は、オーストリア(Austria)の独裁者、エンゲルベルト・ドルフース(Engelbert Dollfuss)首相の秘書を務めていましたが、エンゲルベルト・ドルフース(Engelbert Dollfuss)は、1934年に、ナチス党(Nazi Party)を支持するオーストリア(Austria)・ナチス(Nazi Party)党員によって暗殺されました。
青山 光子(aoyama mitsuko)の、三女(3人目、女の子供。ベルリン(Berlin)出身の、ドイツ人の技師(engineer)と結婚した)は、後に、作家として成功しました。
青山 光子(aoyama mitsuko)の、四男(4人目の、男の子供)は、ウィーン(Vienna)出身の女性と結婚しました。
青山 光子(aoyama mitsuko)は、第一次世界大戦の、オーストリア=ハンガリー(Austria-Hungary)帝国の敗戦により、家が没落した事に加え、1925年には、脳溢血により、右半身不随となる等、不幸な生活を送りました。
青山 光子(aoyama mitsuko)は、その後は、ウィーン(Vienna)郊外で、唯一の理解者であった、次女(青山 光子(aoyama mitsuko)の2人目の女の子供)の介護により、静養の日々を過ごすようになりました。日本のウィーン(Vienna)総領事の娘によると、青山 光子(aoyama mitsuko)は、質素な暮らしだったと言います。青山 光子(aoyama mitsuko)の、次女(青山 光子(aoyama mitsuko)の2人目の女の子供)は、母(青山 光子(aoyama mitsuko))の介護の為、婚期を逃し(結婚する機会を失い)、生涯独身でした。青山 光子(aoyama mitsuko)の、その頃の、唯一の楽しみは、ウィーン(Vienna)の日本大使館に出かけて、大使館員たちと日本語で世間話をし、日本から送られてくる新聞や本を読むことでした。その後、オーストリア(Austria)はドイツに併合され、青山 光子(aoyama mitsuko)の、次男(2人目の、男の子供)、Richard von Coudenhove-Kalergiが、汎ヨーロッパ(Pan-European)の思想で、ドイツから犯罪者扱いを受けていましたが、青山 光子(aoyama mitsuko)は、日本政府に守られました。
青山 光子(aoyama mitsuko)は、1939年に、第二次世界大戦が始まった後は、ドイツ難民として、次女(青山 光子(aoyama mitsuko)の2人目の女の子供)と共に、中央ヨーロッパの、あちこちを放浪しました。1941年、青山 光子(aoyama mitsuko)は、次女(青山 光子(aoyama mitsuko)の2人目の女の子供)に見守られながら、67歳で、亡くなりました。青山 光子(aoyama mitsuko)は、ついに、日本に帰ることはありませんでした。青山 光子(aoyama mitsuko)の葬儀(葬式)の世話は、(青山 光子(aoyama mitsuko)と、離れて暮らし、青山 光子(aoyama mitsuko)と疎遠になっていた)青山 光子(aoyama mitsuko)の子供達(次女(青山 光子(aoyama mitsuko)の2人目の女の子供)を除く)は、何もせず、住んでいたアパートの住人が手分けして行う有り様だったと言います。