・ 翻訳を行うには、「原書」の内容を忠実に訳すために、「客観的に再検証可能¥な翻訳」を行えなければならない。
・ ハングル専用の文章は、不明部分の解釈の際、必ず「読み手の主観」による「文脈を論拠とする解釈」を伴う。
・ 上記理由により、客観的な論拠のみによる解釈が出来ない「ハングル専用」の文章は、他言語への翻訳は不可能¥。
・ 客観的な翻訳が出来ず、検証方法も無いので、ハングル専用で書かれた文学が、他の言語に翻訳され、他国に紹介される事も殆ど無い
「日本小説の版権」韓国でうなぎ上り 村上春樹の「1Q84」は1億円超 (1/2ページ)
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/090801/kor0908011927008-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/090801/kor0908011927008-n2.htm
【ソ¥ウル=水沼啓子】韓国で、日本の小説の「版権獲得競争」が激しさを増している。値段もうなぎ上りだ。
日本で全2巻の発行部数が200万部を超え、ベストセラーとなった村上春樹氏の長編小説「1Q84」の版権は、
韓国の出版界史上、最高の15億ウォン(約1億1500万円)で落札されたという。「日本小説ブーム」は続きそうだ。
韓国メディアによると、「1Q84」の版権は競争入札となり、激しい争奪戦の末に、
大手出版社「文学トンネ」が落札した。落札価格は公表¥されていないが15億ウォンとみられている。
村上春樹氏の小説は、これまでも韓国語に翻訳され出版されている。
「海辺のカフカ」の版権は6億ウォン(約4600万円)とされ、「1Q84」は2・5倍に跳ね上がった。
こうした傾向は、村上春樹氏の作品に限ったことではない。
韓国内で翻訳された日本文学の作品数は、2000年代初頭は300〜400だった。
それが06年は581、08年には837と増え続けている。
これに伴い、版権の値段も当初30〜50万円だったものが、最近では300〜500万円と10倍を付けるケースも。
(以下省略)
必要なものは、書き手の才覚とアイディア、文章を記述するためのアイテムだけ。
それが「小説」だ。
仮に、韓国国内で、韓国人が書いた小説の出版権が海外に売れた場合、「輸入原料無しで、多大な外貨を得られた」とでもなるのかな?
この記事を読んで、 遠い昔、既に物故された、作家のY.T氏、F.D氏とお酒を飲んだ事を思い出しました。
Y.T氏は自作の小説を出すと同時に、英語圏の小説の翻訳の大家でもありました。 映画化された小説も、多数翻訳されてます。
F.D氏は東欧、ロシア文学の翻訳の大家....というよりも、当時はそちら方面の、あるジャンルの小説の翻訳において、実質的に一人で立ち向かっている、という方でした。
その際、翻訳作品について、少し聞かせていただきました。
翻訳の場合、翻訳を行う方法には人それぞれにいろいろなスタイルがあるそうですが、基本は「直訳」だそうです。
作品そのものに、訳者は何も加えたり減らしたりしない。 意訳では原文と内容が一意対応しなくなるので、原則不可。
辞書には存在しない単語や、辞書的用法では辻褄が合わなくなる部分 (大概の場合、作家が勝手に作った動詞や名詞だったり(^^;) は、まとめて電話で聞き倒す。
お話を聞いた当時は、WEB環境なんて無かった。 今は電子メールでやりとりするみたいですね。
結果として、辞書や用語、例文集といった「調べるためのアイテム」は、入試をひかえた受験生のものよりも真っ黒な上、付箋で分厚くなっているのだそうです。
とにかく、「原書」に対して徹底的に辞書を引き、客観的な評価軸によって得られる訳情報を、突き詰めるのだそうです。
何だったかな....作品名は忘れてしまいましたが、「シェークスピアの小品の言い回しが理解出来ていないと、正しい翻訳が出来ない」という作品もあったらしいです。
お話しを聞いたのは、大量の情報を瞬時に検索するなどという事が出来ない時代です。 おそるべし翻訳業の方の情報量m(__)m
さて、辞書や用語集、用例集といった「客観的な論拠」によって翻訳文を得た後に、作品全体を見通し、扱っている内容や雰囲気によって、文にスタイルを与える事になります。
この部分こそが、「翻訳者の文章の見せ所」になります。
ただし、そのスタイルの変更も、基本は「意味を変えない」事にあります。
意味を加えたり減らしたりする事は、「まず、無い」のだそうです。
文字通りの「物理的な表¥現」で、そのままではtranslateが不可能¥な部分や、ことわざなどは、翻訳先の言語で、どのように表¥現すれば同一の効果を得られるかを考え、置き換えることはあるが、これは作家担当者などと打ち合わせをして、決定する。
文 のバランス上、一つのセンテンスを二つのセンテンスに分けたり、逆に複数のセンテンスを、意味を変えずに一つにしたり、代名詞/名詞の置き換えは稀にあ る。 しかしそれもまた、「原書」の内容を護るための手法としてであり、協議をした上で採用される。 原書に存在しない意味が加えられることは、無い。
基本はどこまでも原書に忠実に訳す事。 主観による解釈で得た意味は翻訳文には含めない。 主観的な意味の解釈が入り込んだものは、翻訳物としては「評価外」になる。 そのようなものを書けば、仕事が来なくなるとおっしゃっていました。
主観に満ちあふれた解釈による翻訳について、今なら、「超訳」とでもおっしゃるのかなぁ....Yさんは、そのような翻訳は好みではないと思います。
後に非常に大好きな作品の原書がどうしても読みたくなり、辞書を片手に自分で訳した事があります。 途中で挫折しましたが(--;
その際、自分の訳文の雰囲気はともかく、意味については、センテンス単位で、翻訳されて出版されたものと完全に一致していたことに、感動したりもしました。
(^^;(^^;(^^;(^^;(^^;
さて、なぜこのような事を書いているか?
その理由は、これです。
韓国国内で、朝鮮語で書かれた小説が、他の言語に翻訳され、韓国外に紹介されることは殆どありません。
その理由を、韓国人は理解出来ているのでしょうか?
朝鮮語の書物が、他言語に翻訳される事は稀な理由について、韓国人は、しばしばこういいます。
・ 朝鮮語を、他言語へ翻訳の出来る人が、非常に少ない。
・ 朝鮮語は、多彩な表¥現がある。 これを他の言語に翻訳することは難しい。
・ 朝鮮語の言い回しには独特なものがあり、他の言語に置き換えることは不可能¥。
これらの主張が、正しいものだとは思えません。
もちろん、書かれた小説に対する他国の出版社からの評価の高低や、販売数の考慮も理由としてあるのでしょう。
しかし、「翻訳される事が無い最大の理由」は「朝鮮語」そのものにあるのではないのですか?
「ハングル専用の文章が他国の言葉に翻訳出来ない理由」は、これではないのですか?
¥"主観を交えず、客観的な論拠を元に翻訳する¥"という事が、
朝鮮語、特に¥"ハングル専用¥"で書かれた文章では、不可能¥。
ハングル専用で書かれた文章について、日本人はしばしば指摘しています。
・ ハングル専用の文章は、文章だけから、書き手の意図を把握することは不可能¥だ。
日本人の指摘に対して、韓国人はしばしば同じ反論を行います。
・ 不明な部分は、文脈で理解出来る。 文章だけから、書き手の意図を把握することは可能¥だ。
*:あまりにくだらないので取り上げませんが、
「書かれた¥"状況¥"や、日常での使用頻度によって、確率論的に意味を正しく理解出来る。」
と主張した阿呆な韓国人も、ENJOYの頃にはおりました(--;
この韓国人の反論こそ、「ハングル専用の文章は、客観的な解釈が、不可能¥である」という論拠になるのですよ。
韓国人は、「文脈によって、判らない部分は解釈出来る」と言います。この主張に対して、質問があります。
「正しい解釈に必要な、引用する必要のある他のセンテンス」は、誰が決定しているのですか?
ハングル専用の書籍の全てで、「ここの解釈に必要なセンテンスは、この部分である」と、著者が注釈を書いているのですか?
書籍を読む人それぞれで違う事が想定される「不明」な部分の全てに対して、注釈が書かれているのですか?
そのような注釈など、書かれていません。
意味を理解するために必要な引用部分は、「読み手」が決める事になります。
この部分こそ、「読み手」の主観が混じってしまう部分になります。
翻訳の場合であれば「翻訳者の主観が混じる事」と言い換えられるでしょう。
翻訳者は、原書の著者、原書の内容に対して敬意を払います。
だからこそ、「訳者の主観」や、「訳者の、属人的な基準による、意味の決定」が、翻訳物に入り込む事を嫌います。
しかし、ハングル専用で書かれた文章は、辞書等による客観的な評価基準だけによる翻訳物を、作成出来ません。
もしも内容に「訳者の主観」が混じったものになれば、それは既に「原書を翻訳した物」ではありません。
翻訳者の主観的解釈が入り込んだものは、内容はほぼ同じかもしれませんが、「原書を引用した、二次創作物」になってしまいます。
韓国人の主張する「文脈による不明部分の解決」という方法こそ、韓国国内で書かれた文学作品が翻訳不可能¥である理由になるのです。
漢字は、朝鮮語で発生する「同音・同字・異義語」の解決手法でした。
そして、文字通り「文章だけによる、書き手の意図の把握」を実現する手段でもありました。
それを、韓国人は、くだらないナショナリズムの発露として日常生活から追放しました。
結果として「同音・同字・異義語」の解決が出来なくなった。
漢字の廃絶によって
・ ハングル専用で書かれた朝鮮語は、客観的な解釈を行う手がかりを失った。
もっと笑えることは、
・ 文章の内容を認識する際に、主観によって記述内容を決定している事に気がつかなくなった。
極論を言ってしまえば、「文章を書いた本人さえ、文章だけからでは、書いた内容を、きちんと理解出来ない」 という事になるのです。
そんなもの、誰が読もうと思うのかね(00;
こういう事を書くと「日本人は漢字を誇っている」などと書く阿呆が出てくると思います。
そんな事など、考えた事もない。
漢字を誇る? 「道具」を用いて作ったものを誇る事は、いろいろな国であるでしょう。
「道具そのもの」を誇る馬鹿は、韓国人だけですが?
もしも例えるなら、こうなるのです。
韓国人はナショナリズムのため、
ライターやマッチを捨て、原始時代の摩擦式火起こし機を使う事にした
日本人の認識は、このように例える事が適切なのですよ。
そして、実際に、韓国ではこんなことになっています。
「火星で白骨死体が発見された」という新聞の見出しに驚いている。
(「華城」という地名と「火星」という惑星の名前の区別がつかないんだとさ)
「空で起こる地震」という解釈を披露する人がいる。
(「深発地震」の反意語をハングルで書いたものを「天発地震」と理解する人がいるんだとさ)
「防水と放水」の区別がつかない事件が起きている。
(今さら説明の必要もないかな)
native speakerである「韓国人」さえ、「想像」や「主観」をまじえなければ意味を特定する事が出来ない、ハングル専用で書かれた小説。 どのような方法で、主観を交えずに、他の言語に翻訳出来るのですか?
仮に翻訳を行ったとしましょう。 翻訳された文章が、元のハングルの文章に対して「主観を交えたものになっていない」という検証は、どのような方法によって、可能¥なのですか?
もしも「韓国人は優秀である」という主張が正しいのであれば、
何故、韓国人は、日本人に指摘されないと、
「ハングル専用で書かれた文章には、言語上の欠陥がある」と、認識出来ないのですか?
(長文読了、多謝m(__)m)
あんまりあっちいんで、涼しげな玉を(w
neptuneの画像@NASA
雲みたいなものはドライアイスなんだとか。
p.s.(for japanese only)
もともと「原典」という言葉を使ってこの文章を書いたのですが、翻訳してみたら「原典」が「原子力発電所」と機械翻訳されていました。 あまりに馬鹿馬鹿しいので言葉を変える事にしましたが....「原書」も「願書」と機械翻訳されています(--;
まぁ、「原書」も「願書」も、ハングルの文章では同一の綴りになるんですが。
不思議なのは「原書/願書」を「日本語→ハングル→日本語」と機械翻訳すると「願書/院で」になるのです。
翻訳したハングルでの記述は、どちらも同じ表¥記でですよ? 頭が痛い。
たまに思うのです。
韓国人に非常に多い「機能¥性文盲」の人は、本当は頭がいい人なんじゃないかなと。
機能¥性文盲の理由は、ハングル専用で書かれた朝鮮語の持つ「意味固定の機能¥に対する欠陥」に気づいているから、意味が特定出来ないと知り、理解出来ないのではないのかな?
もしかしたら、漢字混交の朝鮮語、または「まとも」な他の言語であれば、普通に読み書き出来るのでは?
そして、普通に「ハングル専用の文の意味を理解出来る」韓国人こそ、頭が悪い人なんじゃないかと。