イザベラ・バード
イザベラ・バード(Isabella L. Bird)
1831 年イギリス・ヨークシャーの牧師の長女として生まれる。妹の名はヘニー。幼少時に病弱で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅に憧 れるようになる。アメリカやカナダを旅し、1856年『The Englishwoman in America』を書いた。その後、当時の女性としては珍しい旅行家として、世界中を旅した。1893年英国地理学会特別会員となる。
1878 年(明治11年)6月から9月にかけて、東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した(連れは通訳の日本人男性1名のみ)。 山形県の赤湯温泉の湯治風景に強い関心を示し、置賜地方の風景を「東洋のアルカディア」と評した。また10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねている。こ れらの体験を1880年"Unbeaten Tracks in Japan"2巻にまとめた。第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。その後、1885年に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版 される。『日本奥地紀行』は、この普及版の翻訳である。明治期の外来人の視点を通した日本を知る貴重な文献である。特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況をつまびらかに紹介したほぼ唯一の文献である。
1885年版で省略された部分は『バード 日本紀行』として翻訳されている。
また1894年から1897年にかけ、4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、『朝鮮紀行』を書いている。
日本奥地紀行
イザベラ・バード
私は奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目に
もあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている
ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打
ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。群集にとり囲
まれても、失礼なことをされることはない。
ほんの昨日のことであったが、革帯が一つ紛失していた。もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。彼にその骨折賃として何銭かあげよう
としたが、彼は、旅の終りまで無事届けるのが当然の責任だ、と言って、どうしてもお金を受けとらなかった。
山腹を削って作った沼のわずかな田畑も、日当たりのよい広々とした米沢平野と同じように、すばらしくきれいに整頓してあり、全くよく耕作されており、風土
に適した作物を豊富に産出する。これはどこでも同じである。草ぼうぼうの「なまけ者の畑」は、日本には存在しない。
私はどこでも見られる人びとの親切さについて話したい。二人の馬子は特に親切であった。私がこのような奥地に久しく足どめさせられるのではないかと心配し
て、何とか早く北海道へ渡ろうとしていることを知って、彼らは全力をあげて援助してくれた。馬から下りるときには私をていねいに持ち上げてくれたり、馬に
乗るときは背中を踏み台にしてくれた。あるいは両手にいっぱい野苺を持ってきてくれた。それはいやな薬の臭いがしたが、折角なので食べた。
どこの宿でも、私が気持ちよく泊れるようにと、心から願っている。日本人でさえも大きな街道筋を旅するのに、そこから離れた小さな粗末な部落にしばしば宿
泊したことを考慮すると、宿泊の設備は、蚤と悪臭を除けば、驚くべきほど優秀であった。世界中どこへ行っても、同じような田舎では、日本の宿屋に比較でき
るようなものはあるまいと思われる。
私の夕食用に一羽の鶏を買って来た。ところが一時間後にそれを絞め殺そうとしたとき、元の所有者がたいへん悲しげな顔をしてお金を返しに来た。彼女はその
鶏を育ててきたので、殺されるのを見るに忍びない、というのである。こんな遠い片田舎の未開の土地で、こういうことがあろうとは。私は直感的に、ここは人
情の美しいところであると感じた。
朝鮮-人には猜疑、狡猾、嘘を言う癖などの東洋的な悪徳が見られ、人間同士の信頼は薄い。女性は隔離され、ひどく劣悪な地位に置かれてい
る。
政府、法律、教育、礼儀作法、社会関係そして道徳における中国の影響には卓越したものがある。これら全ての面で朝鮮は、強力な隣人の弱々しい反映に過ぎな
い。
大都市、首都にしてはそのみすぼらしさは名状できない程ひどいものである。礼儀作法のために、二階家の建造が禁じられている。そ
の結果、二十五万人と見積
もられている人びとが「地べた」、主として迷路のような路地で暮らしている。その路地の多くは、荷を積んだ二頭の雄牛が通れないほど狭い。実にやっと人ひ
とりが、荷を積んだ雄牛一頭を通せる広さしか無い。さらに立ち並んでいるひどくむさくるしい家々や、その家が出す固体や液状の廃物を受け入れる緑
色のぬるぬるしたどぶと、そしてその汚れた臭い縁によって一層狭められている。
それにも拘わらず、ソウルには美術の対象になるものが何も無く、古代の遺物ははなはだ少ない。公衆用の庭園も無く、行幸の稀有な一件を除けば見せものも無
い。劇場も無い。ソウルは他国の都市が持っている魅力をまるで欠いている。ソウルには古い時代の廃墟も無く、図書館も無く、文学も無い。しまいには、他に
は見出せないほどの宗教に対する無関心から、ソウルは寺院無しの状態で放置されている。一方、未だに支配力を維持しているある種の迷信のために、ソウルに
は墓がないままにされている!
その肩に税の重荷が掛かっている人びとつまり特権を持たない厖大な大衆が両班にひどく苦しめられているのは、疑いない事である。両班は代
金を支払わないで、人びとを酷使して労働させるばかりでなく、さらに貸し付け金の名目で、無慈悲に強制取り立て[収奪]を行なっている。ある商人か農夫が
ある程度の金額を蓄えたと噂されるか知られると、両班または役人が貸し付け金を要求する。
女の人たちと子供たちは山のようになって、私の寝台の上に坐った。私の衣服を調べた。ヘアピンを抜いた。髪を引き下ろした。スリッパを脱がした。自分たち
と同じ肉や血なのかどうか見るために、私の着物の袖を肘まで引き上げて、私の腕を抓った。私の帽子を被ってみたり、手袋を嵌めてみたりしながら、私のわず
かばかりの持ち物を詳しく調査した。
長安寺から元山への内陸旅行の間、私は漢江の谷間でよりも、朝鮮の農法を見る良い機会に恵まれた。日本のこの上なく見事な手際のよさと、中国の旺盛な勤勉
に比べて、朝鮮の農業はある程度無駄が多く、だらしない。
徳川を出発する前に、無感動できたなく、ぽかんと口を開け、貧しさにどっぷり浸っている群集に包囲されて宿屋の中庭のごみ、むさ苦しさ、がらくた、半端物
の真ん中でじっとしていた時、朝鮮-人は見込みのない、無力で哀れな痛ましい、ある大きな勢力に属している単なる羽に過ぎない、と私は感じた。そして若し
ロシアの手中に握られ、その統治の下で、軽い税金同様勤勉の利得が保証されない限り、千二百万人若しくは千四百万人の朝鮮人に希望は一つも無い、と感じて
いた。
狭量、千篇一律、自惚れ、横柄、肉体労働を蔑む間違った自尊心、寛大な公共心や社会的信頼にとって有害な利己的個人主義、二千年来の慣習や伝統に対する奴
隷的な行為と思考、狭い知的なものの見方、浅薄な道徳的感覚、女性を本質的に蔑む評価などが朝鮮教育制度の産物と思われる。
朝鮮の大きくて普遍的な災難は大勢の強壮な男たちが、少しましな暮らしをしている親類か友人に頼るか「たかり」に耽る習慣である。それを恥としないし、非
難する世論も無い。少ないけれども一定の収入がある人は多くの親類、妻の親類、大勢の友人、親類の友人たちを扶養しなくてはならない。この事が、官職への
殺到とその官職を売れ口のある必需品にしている訳を一部説明している。
要約して、以下のような意見を思い切って述べる事にする。多くの人口を抱えている朝鮮の状況は、日本かロシアの孰れかの援助を得て次第に改善されるよう運
命付けられている。
1897年の明確に逆行する動きにも拘わらず私は、この国の人びとの将来に希望が無いとは決して思わない。だが、次の二つの事が非常に重 要である。
1、朝鮮は、内部からの改革が不可能なので、外部から改革されねばならない事。
2、君主の権力は、厳しくて永続的な憲法上の抑制の下に置かねばならない事。