とりあえず、資料の紹介です。


九州鉄道は日露の風雲急を告げる頃、軍の戦略上の要請から、
八代線(今の鹿児島本線の一部)の大里~小倉間から分岐し
小倉平野を斜断して、再び八代線と結ぶ「小倉裏線」の建設にとりかかった。
この小倉裏線は、富野信号所から左折して足立駅を通り、
豊州線(今の日豊本線の一部)の紫川信号所に至る線と、
足立駅から豊州線の南篠崎信号所に至る線、
豊州線の北篠崎信号所から八代線の板櫃信号所に至る線の
3線から成っており、第12師団や練兵場に近い足立駅の機能を
十分に発揮させるために計画されたものである。
足立駅は、日夜にわたって建設され、
1904年2月10日の対露宣戦布告直後の2月12日には開業、
直ちに12師団将兵の輸送に活躍し、
輸送が一段落した2月19日には閉鎖してしまった。
僅か1週間のことではあったが、
この間、列車はほとんどが足立駅経由となったため、
当時、大変な賑わいをみせていた小倉駅は、
哀れな寂れようであったと言われる。
この小倉裏線は、その後も陸軍病院関係の輸送に時々使われていたが
戦争の終結、大蔵線の廃止などのために必要性を失い、
1916年6月にはまったく姿を消してしまった。
「九州鉄道史」より抜粋。