以下、「以下、以下の投稿の続きです。」と言う文までは、前回の投稿と重複します。
ちなみに、後述する、船の科学館の建物は、建物の老朽化により、今年、閉館・取り壊しが発表され、現在、建物の解体工事中です。なお、博物館自体は、場所を移転し、営業を再開する検討は、引き続き、行われている様です。
参考に、以下、「」内。私の前の投稿文より。。。
「私は、女性に、結構合わせているようでいて、その一方において、実は、女性に結構、自分の趣味に付き合って貰って来てもいます。今の彼女も含み、相手の女性は、それはそれで、私色に染まって、私の影響を受けて、私と共に、楽しんで来てくれました(楽しんでくれてます)。ちなみに、私の今の彼女は、元々、好奇心が強い性格です。」
「私は休日を外で過ごす事は好きで、美味しい物を食べる事、自然の中を散歩する事、温泉に入浴する・温泉旅館等の温泉宿泊施設に宿泊する事、芸術や花を愛でる(鑑賞する)事等は、好きなのですが、本格的な登山やキャンプ等のアウトドアは好みません。
私は、交際する女性との趣味が合うか合わないかと言う事は、若い頃は気にしなかったのですが、成熟した大人になってからは、私と趣味が合う女性を好きになるプラス交際相手の女性が、私色に染まってw、私と趣味が合って来ると言う事を合わせて、私と趣味が合う女性と交際するようになりました。」
「前述の通り、実は、私の気が多い性格から、私の今までの、恋愛の結末のほとんどが、交際相手の女性にとっては、GO
BANG‘Sの曲の、「BYE-BYE-BYE」の歌詞のような結末で終わらせてしまったのですが(本当に、ごめんなさい)、私が当時、交際していた女性(私の元カノ)と別れた原因も、私が当時、交際していた女性(私の元カノ)には、本当に、申し訳なかったのですが、私が、私の今の彼女の事を、とても好きになってしまった事です(ちなみに、その時、私の今の彼女は、とても若かったのですが、その時、私は、別に、私の今の彼女の、その点に、惚れた訳では全くありませんw)。
私は、私の元カノと、親しい友人として、現在まで、ずっと交流が続いています。ちなみに、私の元カノは、私と別れた後、今、夫となっている男性(結婚した男性)とは違う男性達との交際やデートの経験を経て(ちなみに、私は、その事に関して、よく、その元カノの相談に乗る等していました)、比較的、最近の話なのですが、優しく頼りがいのある素敵な男性(彼女の事を、十分に幸せにしてくれるであろう男性。ちなみに、その男性は、長身でイケメンですw)を見つけて結婚をし、今は、主婦として幸せに暮らしています。
また、私の今の彼女と、私の元カノは、元々、面識はあり、知り合い同士であったのですが、今は、親しい友人同士となっていて、私の今の彼女と、私が当時、交際していた女性(私の元カノ)は、二人きりで遊びに出掛けたりもしています。二人とも、趣味や価値観があって、とても仲が良いようです。それは、もしかしたら、前述の通り、私は、交際する女性との趣味が合うか合わないかと言う事は、若い頃は気にしなかったのですが、成熟した大人になってからは、私と趣味が合う女性を好きになるプラス交際相手の女性が、私色に染まってw、私と趣味が合って来ると言う事を合わせて、私と趣味が合う女性と交際するようになったのですが、その事も、関係しているのかもしれませんw」
「ちなみに、私の今の彼女(以下、彼女と書きます)とは、私が今までに交際して来た女性の中で、交際期間最長記録を更新中ですが、私が彼女に振られない限り、私は、彼女の事を、これからも、ずっと大切にして行きたいと思っています。」
以下、基本的に、2011年の10月の中旬に行った投稿の再掲で(投稿文は、2011年の10月の中旬の投稿を前提としています)、2011年の9月の下旬に、当時、交際していた、私の元カノ(以下、彼女と書きます)と、お台場(odaiba)を散歩して来た時(以下、この日と書きます)の物です。
9月の下旬に、お台場(odaiba)を散歩して来た時の物です。
お台場(odaiba)は、東京中心部の海沿いにある、住商複合地区で、1980年代から開発が始まりましたが、本格的な、開発は、1990年代に入ってからで、特に、ほぼ現在の形に整ったのは、1990年代半ばの事です。
この時の、お台場(odaiba)散歩の主目的は、船の科学館を訪れる事でした。船の科学館は、1974年に開館した、主として船に関する展示を行う、規模の大きな、海事博物館(maritime
museum)です。日本では、海事博物館(maritime
museum)は、他に、神戸(kobe)(日本の西部に位置する大都市。横浜(東京圏の南部に位置する)と共に、日本を代表する港湾都市)の神戸(kobe)海洋博物館(1987年開館。前身は1962年に開館した神戸(kobe)国際港湾博物館。海事博物館(maritime
museum)としては、世界有数の規模。wikiより。。。)等が、有名ですが、東京の、船の科学館は、建物の老朽化により、9月30日を以って、休館となりました。閉館ではなく、休館としている事から、建物を改装するか、建て替えるかして、再び開館する可能性を残していると言う事ですが、今後の詳細な計画は、発表されておらず、このまま、閉館となって、建物が取り壊される(そして、その土地が売却される、されないにかかわらず、その土地に、別の用途の建物が建つ)可能性も、ある程度の確率であると思います。
今回は、船の科学館の休館(事実上、閉館の可能性もあり)前の見納めと言う意味で、船の科学館を訪れました。
私は、子供の頃、博物館が好きで、国立科学博物館や、交通博物館、科学技術館に、よく行きましたが(幼い時は、親に連れて行ってもらいましたが、小学校4年生頃からは、同じ興味を持つ友達(達)と、小学生だけで、行く様になりました。ちなみに中学生になってからは、ほとんど行かなくなりました)、船の科学館は、国立科学博物館、交通博物館、科学技術館程は、行きませんでした。理由は、(私が、子供が頃は、まだ、お台場(odaiba)が、商業地区・住宅地区として、本格的に開発される前だったので)、交通が不便だったからです。
今回、船の科学館は、とても久しぶりに、訪れました。
以下、以下の投稿の続きです。船の科学館の建物の外観(外観は、60,000トン級の、豪華客船を模した物となっています)及び、船の科学館の屋外展示物の例に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
お台場 船の科学館1→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3873352?&sfl=membername&stx=nnemon2

船の科学館のロビー(lobby)。ロビー(lobby)も、豪華客船を意識した物となっています。
写真以下19枚。船の科学館の展示物の例。船の科学館は、規模が大きく、とても、見応えのある海事博物館(maritime
museum)です(厳密には、9月末を以って休館(事実上、閉館の可能性もあり)してしまったので、規模が大きく、とても、見応えのある海事博物館(maritime
museum)でした)。船の科学館には、非常に多くの、日本国内外(日本国内及び日本国外)の船の模型が、展示されています(厳密には、展示されていました)。展示例として、紹介した船の模型は、その極々一部です。

戦列艦ヴィクトリー(Victory)(1765年。イギリス)の模型。

豪華客船モーリタニア(Mauretania)(31,938トン。1907年。イギリス)の模型。完成当時、世界で、最も大きく、最も速い船でした(wikiより)。

これは、1925年に解体された、ロシア(Russia)の船に付いていた、船首像です。
日本の近代造船は、1853年の、石川島(ishikawajima)造船所に始まりますが(展示の説明より。。。)、その後、(島国である日本において、国防上・経済(貿易)上、重要な産業であった事から)国策事業として、国の支援を受けながら、日本の造船業は、急速に成長し、日本は、造船先進国へ追いついて行きました。

客船、天洋丸(tenyomaru)(13,402トン。1908年。日本)。東洋汽船(1896年設立。かつて日本に存在した、海運会社。現在、存在している、日本の海運会社の東洋汽船(1974年設立)とは、別の会社)の客船で、日本とサンフランシスコ(San Francisco)を結ぶ航路で活躍しました。内装には、日本の絹織物を、ふんだんに使ったアール・ヌーボー(Art Nouveau)様式の装飾が施されていました。姉妹船に地洋丸と春洋丸とがありました。

移民船、もんてびでお丸(1926年。日本)。1920年代から1930年代に、日本から南米に、日本人移民を送った船です。

石油タンカー(oil tanker)、紀洋丸(kiyomaru)(10,820トン。1909年。日本)の模型。東洋汽船(1896年設立。かつて日本に存在した、海運会社。現在、存在している、日本の海運会社の東洋汽船(1974年設立)とは、別の会社)は、将来、石油時代の到来を予想して、1909年、日本最初の外洋石油タンカー(oil tanker)である、紀洋丸(kiyomaru)を進水させました。
1914年に第一次世界大戦が起こり1918年まで続きました。この間、日本の造船業は、空前の好況に恵まれ、1917年には、進水量において、アメリカ、イギリスに次いで、世界3位を記録しました(展示の説明より。。。)。
写真以下2枚。戦艦、大和(yamato)(基準64,000トン、満載72,900トン。1941年。日本)の模型。かなり大きな模型です。


日本は、日露戦争(1904年から1905年にかけて、日本とロシア(Russia)の間で行われた戦争。日本の実質的な勝利に終わる)後から、第二次世界大戦まで、世界有数の海軍力を持つ国でした。大和(yamato)(1941年)は、日本海軍が建造した、世界の歴史上、最大の戦艦です(ちなみに、世界の、歴史上、建造された艦艇(軍事用の船)に搭載された主砲の中で、一番口径の大きい主砲は、日本の、大和(yamato)型戦艦(大和(yamato)と武蔵(musashi)の46cm砲です)。日本海軍は、1944年に、それまでの、世界の歴史上、最大の空母、且つ、第二次世界大戦中、世界、最大の空母(1961年、アメリカ海軍の空母、エンタープライズ(Enterprise)(基準75,700トン。満載93,284トン)が登場するまで、世界の歴史上、最大の(世界の歴史上、最大の排水量の)空母だった。wikiより。。。)、信濃(shinano)(基準62,000トン。満載71,890トン。大和(yamato)、武蔵(musashi)に次ぐ、三番目の大和(yamato)型戦艦を、建造中に、空母に設計変更した物)も、建造しています。日本は、空母において、世界で、先駆的な国の一つでした。以下、「」内は、wikiを参考にしました。「空母の前段階の水上機母艦は、フランスのフードル(Foudre)(常備5,994トン。水上機母艦時6,089トン。水上機母艦としては、1912年に就役)が、世界で最初の物ですが、日本は、第一次世界大戦初期の1914年に(日本は、当時、日英同盟(日本・イギリス同盟)を結んでいた為、第一次世界大戦の勃発後、間もなく、ドイツに対して宣戦布告し、連合国側として参戦した)、日本海軍の水上機母艦、若宮(wakamiya)(基準5,180トン。常備5,895トン)を、ドイツ軍基地のあった中国の青島沖に派遣し、搭載機が攻撃を行いました(水上機母艦であるため、搭載機の発着は海面を用い、機体はクレーン(crane)で揚収した)。また、1922年に完成した、日本海軍の空母、鳳翔(housyou)(基準7,470トン。満載10,500トン)は、最初から空母として起工された船で、世界で最初に完成した物です(なお、鳳翔(housyou)は、あくまで、設計・開発段階の当初から純粋空母としての運行を目的として建造された空母(正規空母)で、世界で最初に完成した物。改造空母(既成の軍艦を改造して出来た空母)は、これ以前にもイギリスとアメリカに存在し、イギリスのフューリアス(Furious)(基準22,450トン。排水28,500トン。1917年)が、世界初の空母であり第一次世界大戦にも参加している。また、世界で最初に、最初から空母として起工された船は、イギリス海軍のハーミーズ(Hermes)(基準10,850トン)であったが、ハーミーズ(Hermes)は、鳳翔(housyou)よりも遅れて完成した(最初から空母として起工された船で、鳳翔(housyou)に次いで、世界で2番目に、1924年に完成))」。
「また、日本が、アメリカ・イギリス等に宣戦を布告し、第二次世界大戦に参戦して間も無い、1941年12月、マレー半島(Malay
Peninsula)東方沖にて、日本海軍の爆撃機隊が、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(Prince
of
Wales)(1941年。基準36,727トン。満載43,786トン)と、巡洋戦艦レパルス(Repulse)(1916年。満載38,200トン)を撃沈しました。これは、世界史上初の、航空機の攻撃のみによる、行動中の戦艦の撃沈であり、当時の、「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることは出来ない」と言う常識を覆し、戦艦への攻撃に、航空機が効果的である事を証明し、又、大艦巨砲主義(巨大な主砲を持つ巨大な戦艦を開発・建造し、保有する事は、その国の海軍力の証明となると言う、戦艦中心の考え方)の転換についての示唆を与え、その後の世界各国の戦術・戦略に大きな影響を与えました」。
しかしながら、その一方において、日本(日本海軍)は、戦艦大和(yamato)の様な船を建造・戦力として温存し、その最終的な威力を期待していました。大和(yamato)には、当時の最新技術が多数採用さていましたが、史上最大の戦艦と言う発想は、急速に時代遅れとなり、(1944年に、アメリカ軍の航空隊の、激しい攻撃を受けて沈没した、同じく、日本海軍の、戦艦武蔵(musashi)(基準65,000トン。満載72,809トン。二番目の大和(yamato)型戦艦。戦艦大和(yamato)同様、世界の歴史上、最大の戦艦。1942年)と同様)、目立った活躍をする事なく、1945年に、アメリカ軍の航空隊の、激しい攻撃を受けて、沈没しました。
なお、戦艦大和(yamato)(当時の日本の最高技術を結集し建造された)を、設計・建造する事によって蓄積された技術は、第二次世界大戦後の、日本の産業・技術に、応用され、役立てられました。

伊号第15潜水艦(1940年。基準2,198トン。常備2,584トン。水中3,654トン)の模型。伊号第15潜水艦は、日本海軍の伊15型潜水艦の一番艦で、約20隻の同型潜水艦(伊15型潜水艦)が作られました。伊15型潜水艦は、小型水上飛行機が、分解・格納された潜水艦で、小型水上飛行機は、偵察等に使われました。また、伊15型潜水艦は、その長大な航続力により、東はアメリカ西海岸から西はアフリカ東岸まで活躍し、また遣独潜水艦作戦(第二次世界大戦中に遠く離れたドイツと日本とを結び、戦略物資及び新兵器や、その部品・図面等、さらには大使館付武官・技術士官・民間技術者等の日本・ドイツ両国の人材の輸送を行った、日本海軍の潜水艦による数次にわたる作戦)に、3隻が選ばれ、大西洋まで活躍の場を広げました(wikiより)。伊15型潜水艦の、第二次世界大戦中における、活躍は、以下の物等があります。1942年、WASP(アメリカ海軍の空母。基準14,700トン。満載19,166トン。1940年)を撃沈(伊号第19潜水艦)。1942年、アメリカ本土(Calif・ornia州)を砲撃(伊号弟17潜水艦)。1942年、潜水艦に搭載された、小型飛行機による、アメリカ本土(Oregon州)空襲(山林火災による延焼被害や、アメリカ人に恐怖心を与える事等を企図した爆撃であり、死者・負傷者は、出ていない)及び、アメリカ本土を砲撃(伊号第25潜水艦)。ちなみに、伊15型潜水艦(伊号第25潜水艦)から飛び立った小型飛行機による、日本軍の、アメリカ本土空襲(1942年)は、歴史上、唯一の、外国の軍用機による、アメリカ本土空襲となっています。伊15型潜水艦は、アメリカ人に、アメリカ本土が攻撃されると言う恐怖を与えた、日本軍の兵器の一つであると言えるでしょう。ちなみに、日本海軍が、第二次世界大戦末期(1944年から1945年)に製造した、伊400型潜水艦(水上攻撃飛行機を3機搭載し、潜水空母とも呼ばれている)(下の補足説明参照)は、第二次世界大戦中に就航した潜水艦の中で、世界最大の物でした。
伊400型潜水艦:説明は、wikiを参考にしました。日本海軍の潜水艦で、それまでの、世界の歴史上、最大の潜水艦、且つ、第二次世界大戦中に就航した潜水艦の中で、世界、最大の潜水艦。基準3,530トン。常備5,223トン。水中6,560トン。理論的には、地球を一周半する事が可能と言う長大な航続距離を持ち、日本から、地球上の、何処にでも出かけて、任意に攻撃を行い、そのまま、日本に帰る事が可能であった潜水艦。大柄な船体を持ちますが、水中性能は良好で、急速潜航に要する時間は、1分でした。伊400型潜水艦は、伊15型潜水艦による、アメリカ本土攻撃が成功していた1942年に、18隻の建造が計画されましたが、戦局の悪化と共に、計画は、5隻に縮小され、最終的に3隻が完成しました(伊号第400潜水艦(1944年)、伊号第401潜水艦(1945年)、伊号第402潜水艦(1945年))。伊400型潜水艦が、完成した頃は、日本海軍は、アメリカ軍により、日本周辺の制海権、制空権共に失い、壊滅的な状態となっており、伊400型潜水艦は、既に、活躍出来る機会を失っていました。伊400型潜水艦は、前述の通り、三隻が完成しましたが、いずれも、具体的な戦果を上げる前に、日本が、アメリカを中心とする連合国に対して無条件降伏し、第二次世界大戦が終結しました。アメリカ軍は、戦後間もなく、伊400型潜水艦を接収し、技術調査をした後、冷戦による、当時のソビエト(Soviet)連邦への技術情報の漏洩を恐れ、海没処分にしました(破壊し、海に沈めて処分しました)。
第二次世界大戦以前から、日本は、既に、世界有数の造船技術を持っていた為、(それを基に発展した、第二次世界大戦後の日本の)造船業は、第二次世界大戦後の、日本の経済復興と経済成長の、主要な原動力の一つとなりました。日本の造船業は、1956年に、イギリスを抜いて、世界一位となりました(展示の説明より。。。)。
船の科学館は、船の機械的な部分(エンジン(engine)や電気系統等)や、船の構造等に関する展示も充実しています(充実していました)。写真以下6枚は、その、ほんの一例です。


これは、船用の、ガスタービンエンジン(gas turbine)の仕組みを説明する展示です。
写真以下4枚。1954年に、当時の三菱(mitsubishi)造船株式会社が、実用化(製品化)した、新型の、船用、大型ディーゼルエンジン(diesel
engine)の、開発の原動力となった、船用、大型ディーゼル(diesel)機関の実験機です。以下、この実験機の説明については、展示の説明文を参考にしました。当時としては、全く新しい、排気加給機を装備した為、従来の同様の機関では、1気筒当たり、700馬力の物が、1,350馬力まで、出力を増大させる事が実証されました。この大型実験機関の成功により、実用機の開発が進められ、1954年に、新型の、船用、大型ディーゼルエンジン(diesel
engine)が、実用化(製品化)されました。





石油タンカー(oil tanker)、ユニバース・アイルランド(Universe Ireland)(326,000トン。1968年。アメリカ)の模型。とても巨大な模型です(写真に写っているのは、その極一部)。ユニバース・アイルランド(Universe Ireland)は、日本製の、石油タンカー(oil tanker)で、当時、世界最大の、石油タンカー(oil tanker)であった、同じく日本製の、出光丸(idemitsumaru)(210,000トン。1966年。日本)を追い抜いて、世界最大の、石油タンカー(oil tanker)となりました。ペルシャ湾(Persian Gulf)からヨーロッパへの石油輸送に従事しました。

石油タンカー(oil tanker)、日石丸(nissekimaru)(372,000トン。1971年。日本)の模型。日石丸(nissekimaru)は、建造された当時、世界最大の石油タンカー(oil tanker)でした。
展示に、1950年代半ばから1980年にかけての、世界最大の石油タンカー(oil
tanker)の移り変わりを示す図があったのですが、それによると、1950年代半ばから1980年にかけての、世界最大の石油タンカー(oil
tanker)の移り変わりは、シンク・レア・ペトロロア(Sinclair
Petrolore)(55,000トン。1955年。アメリカ)、ユニバース・リーダー(Universe
Leader)(85,500トン。1956年。アメリカ)、ユニバース・アポロ(Universe
Apollo)(103,000トン。1959年。アメリカ)、日章丸(nisyomaru)(132,000トン。1962年。日本)、東京丸(tokyomaru)(154,000トン。1966年。日本)、出光丸(idemitsumaru)(210,000トン。1966年。日本)、ユニバース・アイルランド(Universe
Ireland)(326,000トン。1968年。アメリカ)、日石丸(nissekimaru)(372,000トン。1971年。日本)、グロブティック・トーキョー(Globtik
Tokyo)(477,000トン。1973年。イギリス)、日精丸(nisseimaru)(484,400トン。1975年。日本)、シーワイズジャイアント(Seawise
Giant)(564,763トン。1980年。香港)となっています。以上の11隻の石油タンカー(oil
tanker)は、全て、日本製(日本の造船所で建造された物)です。ちなみに、シーワイズジャイアント(Seawise
Giant)は、世界の歴史上、最大の石油タンカー(oil tanker)且つ、世界の歴史上、最大の船で、シーワイズジャイアント(Seawise
Giant)以降、現在に至るまで、シーワイズジャイアント(Seawise Giant)よりも大きな、石油タンカー(oil
tanker)、及び、船は、世界で、建造されていません。
現在は、日本の造船業が勢いを失ってから、しばらく経ち、韓国と、急速に力をつけて来ている中国が、世界の造船国大国の一位と二位を争う関係にあります。日本は、現在は、世界有数の造船国と言えるかどうかも、少し微妙になって来ており、(日本の造船業が、盛り返せば、話は別ですが)、最終的には、日本は、ヨーロッパの規模の大きな造船産業を持つ国々と共に、世界の有力な造船国の一つに落ち着く(悪く言えば、世界の有力な造船国の一つに過ぎなくなる)可能性もあると思います。現在は、技術力と生産量の総合評価において、正に、韓国が世界一の造船国と言えるでしょう。

しんかい2000(深海(shinkai)2000)の模型。以下、しんかい2000(shinkai2000)、しんかい6500(shinkai6500)、トリエステ号(Trieste)についての説明は、wikiを参考にしました。しんかい2000(shinkai2000)は、1981年に完成した、日本の深海調査用の有人潜水調査艇(潜水艇)です。最大2,000mの深さまで潜る事が出来ます。この、しんかい2000(shinkai2000)の運用実績を元に開発され、1990年に完成した、日本の深海調査用の有人潜水調査艇(潜水艇)、しんかい6500(深海(shinkai)6500)は、最大6,500mまで(設計上は、15,000m手前まで)潜る事が出来き、現在、世界で、運用中の有人潜水調査艇(潜水艇)の中で、最も深く、海に潜る事が出来る物の内の一つとなっています。ちなみに、歴史上、最も、海に深く潜った記録を持つ有人潜水調査艇(潜水艇)は、スイスで設計された、トリエステ号(Trieste)(1953年)で、1960年に、10,911mの記録を残しています(もっとも、トリエステ号(Trieste)は、安全に深く潜る事に重点をおいた潜水艇だった為、後に開発された、深海調査用の有人潜水調査艇(潜水艇)に比べると、持続性と汎用性(実用能力)の面では劣っていました)。
まだ、船の科学館は、続きますが、以下、おまけで、この時の、お台場(odaiba)散歩時に食べた夕食を紹介します。
写真以下4枚。この日の夕食は、お台場(odaiba)蛸焼き(takoyaki)ミュージアム(museum)で食べました。
お台場(odaiba)蛸焼き(takoyaki)ミュージアム(museum)は、お台場odaiba)にあるショッピングモール(shopping
mall)の一つの、昭和30年代(下の補足説明参照)の、日本の庶民的な商店街や街をイメージしたareaの一角(一隅)にあります。
昭和30年代:1950年代半ばから1960年代半ば。第二次世界大戦直後の混乱は、一段落したけど、まだ、経済復興の途中で、日本は、まだ貧しく、第二次世界大戦以前や第二次世界大戦直後の貧しさの名残があった時代。その一方において、誰もが、日本が急速に経済成長をしている事を実感出来て、いつかは、日本が欧米の富裕な先進国に追いつき追い抜くだろうと言う希望と、いつかは、日本を欧米の富裕な先進国に追いつき、追い抜かせて見せると言う気迫に満ち溢れていた時代と言った感じでしょうか。。。日本は、第一次世界大戦(1914年から1918年)が終る頃には、名実共に、工業国且つ世界の大国(列強)の一つとなりましたが(日本は、第一次世界大戦後は、戦勝国且つ資本主義工業国且つ大国として、イギリス、フランス、イタリアと共に、国際連盟(League
of
nations)の発足時の常任理事国となりました)、その一方で、日本と、(日本よりも遥かに前から、強力に工業化やインフラ(infrastructure)整備を推し進めていた)イギリス、ドイツ、アメリカ等との差は、ずっと大きく、また、日本は、途中、第二次世界大戦において、各産業が壊滅的な損害を被った事等もあって、(日本は)、1960年代初め頃まで(特に1950年代頃まで)は、南欧諸国(イタリア、スペイン、ポルトガル(Portugal)、ギリシア(Greece))等と共に、資本主義工業国(若しくは、資本主義的な工業国。第二次世界大戦後は、西側先進工業国)の中では、最も貧しく後進的なグループ(group)に属していました。

お台場(odaiba)蛸焼き(takoyaki)ミュージアム(museum)は、蛸焼き(takoyaki)に関する説明展示等を伴う、大阪の5つの人気の蛸焼き(takoyaki)店が集まった、フードコート(food court)です。類似の施設は、前から、大阪のショッピングモール(shopping mall)に存在していた様ですが、(おそらく、その姉妹施設である)、お台場(odaiba)蛸焼き(takoyaki)ミュージアム(museum)は、割りと最近オープン(open)しました(割りと最近と言っても、もう、オープン(open)してから、一年弱位経つのかな。。。ちなみに、このショッピングモール(shopping mall)の、昭和30年代の庶民的な商店街や街をイメージしたareaは、前から有りました)。お台場(odaiba)蛸焼き(takoyaki)ミュージアム(museum)は、この時、初めて利用しました。
蛸焼(takoyaki)は、今は、日本全国的な食べ物となっていますが、大阪(日本の西部に位置する大都市。東京に次ぐ、日本第二の都市圏人口を有する都市)の大衆食の代表的な物の一つで、大阪は、日本の他地域に比べ、蛸焼(takoyaki)店の密度が圧倒的に高くなっています(おそらく。。。)。
写真以下3枚。この時、私達が、お台場(odaiba)蛸焼き(takoyaki)ミュージアム(museum)で食べた、蛸焼き(takoyaki)。これと(写真の蛸焼き(takoyaki)以外に)、くくる(kukuru)と言う蛸焼き(takoyaki)店の、明石(akashi)焼き(蛸焼き(takoyaki)に似た食べ物だが、蛸焼き(takoyaki)に比べて玉子の比率が多い事、具が基本的に蛸だけである事、お吸い物に似た出汁に浸して食べる点等が、蛸焼き(takoyaki)と異なる。説明は、wikiを参考にしました)を、食べました。全て、二人で分けて食べました。

十八番(jyuhachiban)と言う、蛸焼き(takoyaki)店の、蛸焼き(takoyaki)。十八番(jyuhachiban)の蛸焼き(takoyaki)は、この時、初めて食べました。女性店主の店で、蛸焼き(takoyaki)の生地に牛乳が加えられる事、蛸焼き(takoyaki)に、天かす(天麩羅を揚げる時に副産物として生じる、揚げかす。説明は、wikiから借りて来ました)と桜海老の粉末が、大量に入れられる事等が、特徴の、蛸焼き(takoyaki)店なのだそうです。

やまちゃん(yamachan)と言う、蛸焼き(takoyaki)店の、葱が、たくさん載った、蛸焼き(takoyaki)。やまちゃん(yamachan)の蛸焼き(takoyaki)は、この時、初めて食べました。

蛸焼き(takoyaki)工房Sea&Sunと言う、蛸焼き(takoyaki)店の、蛸焼き(takoyaki)。蛸焼き(takoyaki)工房Sea&Sunの蛸焼き(takoyaki)は、この時、初めて食べました。個性的な、蛸焼き(takoyaki)を揃えている店でしたが、この店では、あえて、普通の(標準的な)蛸焼き(takoyaki)を買ってみました。

おまけ。蛸焼き(takoyaki)味のスナック(snack)菓子。前に、kjにアップ(uplaod)した事があったかな。。。日本に、結構古くからあるスナック(snack)菓子です。
以下の投稿(すぐ下にリンクを付けた投稿)に続く。。。
お台場 船の科学館3→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3873350?&sfl=membername&stx=nnemon2