なまこ(namako)壁は、日本の伝統的な、壁塗りの様式の一つで、瓦と漆喰(plaster)を使った、壁塗りの様式です。
写真以下2枚(写真は、借り物)。なまこ(namako)壁の例。
金沢(kanazawa)(人口45万人程。石川(ishikawa)県の中部に位置する)は、石川(ishikawa)県(北陸地方(日本の中部地方の北西部)に位置する県の一つ)で、最大の人口を有する都市、且つ、中心都市で、北陸地方(日本の中部地方の北西部)の中心都市ともなっています。金沢(kanazawa)は、封建制時代(19世紀半ば以前)に、日本で、最も、有力、且つ、裕福な、地方領主の家の一つ(前田(maeda)家(近代以降は、貴族階級に組み入れられ、貴族(侯爵)となる))に統治されていた事から、古くから、文化や、工芸、(今は、どうか分かりませんが、少なくとも、昔は)財力が、豊かな都市と言うイメージがあります。
金沢(kanazawa)の、金沢(kanazawa)城(castle)(歴史は、1580年に遡る)は、前田(maeda)家の城(castle)であった、城(castle)です。
封建制時代には、日本全国には、たくさんの地方領主の城(castle)がありました。しかしながら、明治(meiji)時代(1868年から1912年)に入ると、出来るだけ効率良く、迅速に、日本を近代的な国家にする事を目指す、新中央政府にとっては、(無駄に多い、維持費のかかる、前近代的な建物が、広大な敷地内に建っている)封建時代の象徴的な建物である、城(castle)は、必要の無い物(無用の長物)となります。これによって、19世紀末に、日本全国の、多くの城(castle)の、ほとんどの建物が取り壊され、かつての地方領主達の城(castle)の敷地は、他の用途の土地に転用されました(もっとも、地方領主としての地位を失うと共に、封建制時代の城(castle)等を失ったものの、多くの地方領主達は、貴族階級に組み入れられ、近代社会(19世紀末から第2次世界大戦後、間も無くまで)においても、日本の上流階級としての地位と富は、維持しました(前田(maeda)家も、例外ではなく、近代において、貴族(侯爵)となりました))。
金沢(kanazawa)城(castle)は、1873年に廃止され、日本の陸軍の所有となり、第二次世界大戦が終わるまで、日本の陸軍の施設となっていました。金沢(kanazawa)城(castle)は、日本の陸軍の施設となった後の、1881年に、火災により、建物の、ほとんどを焼失しました。
第二次世界大戦が終わるまで、日本の陸軍の施設の敷地となっていた、かつての、金沢(kanazawa)城(castle)の敷地は、第二次世界大戦後、1949年に新設された、金沢(kanazawa)大学(金沢(kanazawa)の、日本の国立の大学)のキャンパス(校舎)の敷地となりましたが、1995年に、金沢(kanazawa)大学のキャンパスが移転し、その後は、かつての、金沢(kanazawa)城(castle)の敷地は、公園として整備され、一般に公開されています。
写真は、借り物。現存する、金沢(kanazawa)城(castle)の建物の一つで、倉庫の建物の一つ。
金沢(kanazawa)城(castle)に関して、詳しくは、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
金沢城跡他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3905231?&sfl=membername&stx=nnemon2
金沢城跡他(韓国語)→
https://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_16/view/id/3905231?&sfl=membername&stx=nnemon2

写真は、借り物(写真の作者:Aimaimyi)。静岡(shizuoka)県(日本の中部地方に位置する県の一つ)の東部(静岡(shizuoka)県の中で、比較的、東京圏に近い)に位置する、人口5,000人程の町、松崎(matsuzaki)町の、なまこ(namako)壁の例。松崎(matsuzaki)町は、なまこ(namako)壁の町並みを特徴とした町です。
松崎(matsuzaki)町に関して、詳しくは、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。
松崎町→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3905598?&sfl=membername&stx=nnemon2
松崎町(韓国語)→
https://www.kjclub.com/kr/board/exc_board_16/view/id/3905598?&sfl=membername&stx=nnemon2
坂倉
準三(sakakura
jyunzo)(1901年生まれ。1969年に亡くなる。1930年代後半から亡くなるまで活躍した、日本の有名な現代建築家)は、他の、日本の第二次世界大戦後の復興期(1950年代から1960年代初期)の、現代建築界をリード(lead)した、日本の有名な建築家達と共に、日本の現代建築設計の水準を、世界最高水準に引き上げる為の基礎を、1950年代に、固めた建築家の一人です。
すぐ下で紹介している、1937年に、フランスの、パリ(Paris)で開催された、万国博覧会(World
Expo)、The Exposition Internationale des Arts et Techniques dans la Vie
Moderneの、坂倉 準三(sakakura jyunzo)が設計した、日本館の建物は、この、万国博覧会(World
Expo)において、建築部門において、グランプリ(最高の賞・最優秀賞)を受賞しましたが、建物の壁面に、おそらく、前述した、日本の伝統的な、なまこ(namako)壁から、着想を得た、デザイン(design)が取り入れられています。
以下、2022年の6月の上旬に行った、「1937年パリ万国博覧会日本館他」と言う投稿の再掲です。

写真は、借り物。1937年に、フランスの、パリ(Paris)で開催された、万国博覧会(World Expo)、The Exposition Internationale des Arts et Techniques dans la Vie Moderneの、日本館の建物です。この、万国博覧会(World Expo)において、建築部門において、グランプリ(最高の賞・最優秀賞)を受賞しました。設計は、後述する、坂倉 準三(sakakura jyunzo)(1901年生まれ。1969年に亡くなる。1930年代後半から亡くなるまで活躍した、日本の有名な現代建築家)が行いました。

写真は、借り物(写真の作者:takato
marui)。1970年に大阪で開催された、万国博覧会(World Expo)、大阪万国博覧会(Expo
‘70)の、東芝(TOSHIBA)IHI館。設計は、後述する、黒川 紀章(kurokawa
kisyo)(1934年生まれ。2007年に亡くなる。日本の、世界最高水準の建築家の一人)が行いました。
ちなみに、大阪では、2025年に、Expo 2025が開催される予定です。

写真は、借り物(写真の作者:Fk)。国立民族学博物館の建物。1977年完成。国立民族学博物館は、日本の国立の博物館の一つで、1970年に大阪で開催された、大阪万国博覧会(Expo ‘70)の跡地の一部に、1977年に開館した、文化人類学・民族学に関する、規模の大きな、博物館です。建物の設計は、黒川 紀章(kurokawa kisyo)(1934年生まれ。2007年に亡くなる。日本の、世界最高水準の建築家の一人)が行いました。
以下、基本的に、前に行った投稿から抜粋して来た物で、六本木(roppongi)area(東京都心部の中でも中心的な地域の西南部に位置する)の、森(mori)美術館の、「メタボリズム(Metabolism)の未来都市展」と言う、展覧会(exhibition)を見て来た時に関する投稿から抜粋して来た物です。ちなみに、後述する、槇 文彦(maki fumihiko)は、現在、93歳、磯崎 新(isozaki Arata)は、現在、90歳になっています。また、下で、「シンガポール(Singapore)で、最も高い三つのビル」とありますが(OUB center(One Raffles Place)、UOB plaza one、republic plaza。何れも、高さは280m)は、2016年に完成した、Guoco Tower(高さ約284m)に抜かされて、現在、何れも、CapitaSpring(2021年完成。高さ280m)と共に、シンガポール(Singapore)で、2番目に、高いビルとなっています。
以下、メタボリズム(Metabolism)についての説明は、wiki、展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)、日本語大辞典(講談社。1989年。私が中学生の時から大事に使っているw)等を参考にしました。
メタボリズム(Metabolism)は、日本で行われた、現代建築運動です。1950年代末に、丹下
健三(tange kenzo)に強い影響を受けた、黒川 紀章(kurokawa kisyo)、菊竹 清訓(kikutake
kiyonori)、槇 文彦(maki
fumihiko)と言った、当時の日本を代表する、有望な若手建築家達の間で提唱され始め、1960年代に、世界の建築界に知れ渡りました。建築における、メタボリズム(Metabolism)とは、現代の都市の変化を生物の新陳代謝(metabolism)に当てはめて捉える考え方です。生物の新陳代謝(metabolism)とは、生物が常に新しい栄養物質を取り入れ、消化した古い物質を排泄する事を言います。建築における、メタボリズム(Metabolism)を具体的に現代建築物に当てはめて見ると、建物の老朽化した部分を、部分的に新しい物と取り替える事を繰り返す事によって、建物が、まるで生きている様に(まるで生物の様に)、永遠に、存続し、成長し、進化し続ける様に、設計・建築すると言う考え方です。メタボリズム(Metabolism)運動に加わった建築家達は、社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案しました。黒川
紀章(kurokawa kisyo)や菊竹 清訓(kikutake
kiyonori)らの都市・建築計画では、無数の生活用ユニット(unit)が高い塔等の巨大構造物に差し込まれており、古い細胞が新しい細胞に入れ替わるように、古くなったり機能が合わなくなったりした部屋などのユニット(unit)を、まるごと新しいユニット(unit)と取り替えることで、社会の成長や変化に対応し、これを促進することが構想されました(wikiより。。。)。
メタボリズム(Metabolism)は、東京大学都市工学科、丹下(tange)研究室から生まれたと言っても過言ではありません(展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)より。。。)。都市規模での建築を考えた、丹下
健三(tange kenzo)(下の補足説明参照)は、メタボリズム(Metabolism)の誕生に、大きな影響を与えました。
丹下
健三(tange
kenzo):日本の世界最高水準の建築家の一人。1950年代から、亡くなる近くまで活躍。日本人建築家の中で、初めて世界に名が知られた建築家であると共に、1960年代に、日本を、現代建築設計の分野において、世界最高水準の国の一つに、引き上げた人物として知られています。1913年に生れ、90歳以上生きて、2005年に、亡くなりました。丹下
健三(tange kenzo)の弟子には、磯崎 新(isozaki Arata)、黒川 紀章(kurokawa
kisyo)、槇 文彦(maki fumihiko)と言った、世界的に有名な、日本人建築家達が、名を連ねています。黒川 紀章(kurokawa
kisyo)は、既に亡くなりましたし、他の弟子達も、既に、80歳代の高齢です。ちなみに、丹下 健三(tange
kenzo)は、シンガポール(Singapore)で、最も高い三つのビルの内、二つの設計を手掛けています(OUB
center(1986年完成)、UOB plaza
one(1995年完成))。シンガポール(Singapore)のスカイライン(skyline)で、目立つビルのデザイン(design)の傾向が、何となく、丹下
健三(tange
kenzo)が設計した、東京の新宿の、東京都庁ビルに似ているのは、その為です。ちなみに、シンガポール(Singapore)で、最も高い三つのビルの内、残りの一つ(republic
plaza。1995年に完成)は、丹下 健三(tange
kenzo)弟子であり、日本の、世界最高水準の建築家の一人である、黒川 紀章(kurokawa kisyo)が、設計しました。
写真以下3枚。丹下 健三(tange kenzo)の初期作品例。

丹下 健三(tange kenzo)の東京の自宅です。(個人住宅、現存せず) 1953年完成。

広島(hiroshima)子供の家(公共施設)。1953年完成。現存せず。

広島(hiroshima)平和記念資料館(展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)より)。公共施設(資料館)建築。1955年完成。都市デザイン(design)的な視点で設計が考えられ、原爆ドーム(Atomic
Bomb
Dome)へと視線を導き、歴史の記憶を継承する仕掛けが隠されていました(展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)の文を参考にしました。。。)。メタボリズム(Metabolism)が提唱され始めたのは、第二次世界大戦で荒廃した日本の復興が一段落し、豊かな社会と繁栄に向かって、日本が本格的な高度経済成長期へと突入して行った時代(日本の第二次世界大戦後の復興の総仕上げ期)です。そこには理想の都市を通じて、より良い共同体を作ろうという思いもありました(展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)の文を参考にしました)。この広島(hiroshima)平和記念資料館の様な、日本が、本格的に高度経済成長期に入る前夜の(メタボリズム(Metabolism)が提唱される前夜の)、日本の戦後の復興初期から中期における、(当時の、日本の建築家の思いが込められた)、都市デザイン(design)や共同体を意識した建築や計画案は、メタボリズム(Metabolism)の原点と言えるかもしれません。

スカイハウス(sky
house)(展覧会(exhibition)の絵葉書から。。)。個人住宅。1958年完成。設計、菊竹 清訓(kikutake
kiyonori)。菊竹 清訓(kikutake kiyonori)(下の補足説明参照)が設計した、菊竹 清訓(kikutake
kiyonori)の東京都心部の自宅です。以下、スカイハウス(sky
house)についての説明は、wikiから、抜粋しました。スカイハウス(sky
house)の居住空間には仕切り壁はなく、その四周は廊下となっており、キッチン(kitchen)、浴室、収納等が交換可能に取り付けられています。また、居住階の下部は当初はピロティ(pilotis。2階以上の建物において地上部分が柱(構造体)を残して外部空間とした建築形式)とされ、家族構成の変化に応じて、居住階からカプセル(capsule)を吊り下げる形で増築が可能になっており、実際、この方式で子供部屋の増築が行われました。これらは菊竹
清訓(kikutake kiyonori)の唱えるメタボリズム(Metabolism)を体現したものでした。スカイハウス(sky
house)の増改築の経過は、以下の通りです。ピロティ(pilotis)の空間には事務所が設けられていましたが、事務所の移転を機に子供部屋のカプセル(capsule)が増築されました。その後、冷蔵庫の大型化などの設備の発展に対応してキッチン(kitchen)が中二階に移されました。また、蔵書の増加に伴い、ピロティ(pilotis)の空間に図書を置く個室が設けられ、個室の近くに主寝室(master
bedroom)が移されました。この結果、1994年時点では、ピロティ(pilotis)の空間に個室、主寝室(master
bedroom)及び浴室(bathroom)、中二階に玄関、キッチン(kitchen)、ダイニング(dining
room)、最上部に書斎、接客室が設けられた状態となりました。
菊竹 清訓(kikutake
kiyonori):1928年生まれ。2011年に亡くなる。日本の有名な建築家。菊竹 清訓(kikutake
kiyonori)設計事務所から、伊東 豊雄(ito
toyo。1941年生まれ。現在活躍中の、日本の世界的に有名な建築家)を始めとする多くの著名な建築家を輩出。ちなみに、現在活躍中の世界の建築家の中で、最高classに有るSANAA(妹島
和世(sejima kazuyo。1956年生まれの日本の女性建築家)&西沢 立衛(nishizawa
ryue。1966年生まれの日本の建築家))は、(菊竹 清訓(kikutake kiyonori)設計事務所出身である)伊東 豊雄(ito
toyo)の、建築設計事務所の出身です。
メタボリズム(Metabolism)が提唱され始めたのは、日本が戦後の高度経済成長により、大量生産・大量消費の大衆社会に、本格的に突入し始めた時代です。また、メタボリズム(Metabolism)が盛んであった1960年代は、急速な都市化と大量生産・大量消費を伴う高度経済成長により、(上手く表現出来ませんが)日本が伝統的な農村共同体的な社会から現代的な都市市民的社会へと急速に変化し、豊かになった大衆が社会の中心となって行った時代です(第二次世界大戦後の荒廃からの完全な復興を遂げると共に、第二次世界大戦前の階級社会とは、全く異なる、大衆が中心となる新時代の繁栄と豊かさへ、日本が突き進んで行った時代です)。
メタボリズム(Metabolism)が、世界の建築界・デザイン(design)界に知れ渡るきっかけとなったのは、1960年に、日本で開かれた、世界デザイン会議(World
Design Conference)です。以下、世界デザイン会議(World Design
Conference)に関する説明は、このsiteを参考にしました→http://www.artgene.net/dictionary/cat72/1960.html 1960年に、日本で開かれた、世界デザイン会議(World
Design
Conference)は、大規模なデザイン(design)に関する国際会議です。この会議には、27カ国、二百数十名の様々な分野(建築、graphic
design、工業(industrial design)、工芸、内装(interior
design)等)のデザイナー(designer)、建築家達が参加し、参加者達は、分野の違いを超えて、討論を行いました。日本からの参加者の中心は、坂倉
準三(sakakura jyunzo)(下の補足説明参照)、柳 宗理(yanagi sori)、丹下健三(Tange
Kenzo)等であり、ヘルベルト・バイヤー(Herbert Bayer)、オトル・アイヒャー(Otl Aicher)、ソール・バス(Saul
Bass)、ブルーノ・ムナーリ(Bruno Munari)、ルイス・カーン(Louis
Kahn)等、デザイン(design)界・建築界の、世界的な巨匠達が、この会議の為に来日しました。この会議(World Design
Conference)で採択された東京宣言では、「来るべき時代が、人間の権威ある生活の確立のために、現代よりも、いっそう力強い人間の想像的活動を必要としていることを確信し、我々デザイナー(designer)に課せられた責任が重大であることを自覚する」と述べられています。ちなみに、メタボリズム(Metabolism)は、建築や都市に留まらず、「環境」を軸に、デザイン(design)やアート(art)等とも、深く関わっていました(展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)より。。)。
坂倉
準三(sakakura
jyunzo):1901年生まれ。1969年に亡くなる。1930年代後半から亡くなるまで活躍した、日本の有名な現代建築家。他の、日本の第二次世界大戦後の復興期(1950年代から1960年代初期)の、現代建築界をリード(lead)した、日本の有名な建築家達と共に、日本の現代建築設計の水準を、世界最高水準に引き上げる為の基礎を、1950年代に、固めた建築家の一人。代表作は、1937年のパリ(Paris)万国博覧会(The
Exposition Internationale des Arts et Techniques dans la Vie
Moderne)の日本館、鎌倉(kamakura)の神奈川(kanagawa)県立近代美術館(1951年)等。
メタボリズム(Metabolism)グループ(group)を結成した、黒川
紀章(kurokawa kisyo)、菊竹 清訓(kikutake kiyonori)、槇 文彦(maki fumihiko)、栄久庵
憲司(ekuan kenji)(1929年生まれ。日本を代表する工業デザイナー(industrial
designer)の一人。メタボリズム(Metabolism)の思想を工業デザイン(industrial design)に展開した)、粟津
潔(awazu kiyoshi)(graphic
designer。1929年生まれ。2009年に亡くなる)と言った、当時の日本を代表する、有望な若手建築家・デザイナー(designer)達は、世界デザイン会議(World
Design Conference)において、「METABOLISM/1960 -
都市への提案」を発表し、「海上都市」「塔状都市」「新宿ターミナル(新宿駅)再開発計画」等、成長し新陳代謝する巨大都市のアイデア(idea)を披露しました。彼らのアイデア(idea)は将来の社会を具体的に提案しようとしたもので、建築のみならず哲学など広く近代文明にも言及するものでした(wikiより。。。)。
メタボリズム(Metabolism)を提唱した建築家達は、高度経済成長と言う当時の日本の人口増加圧力と都市の急速な更新と膨張に応える将来の都市を構想し、社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案しました。彼らは従来の固定した形態や機能を支える「機械の原理」は、もはや有効的でないと考え、空間や機能が変化する「生命の原理」が将来の社会や文化を支えると信じました(wikiより。。)。
写真以下15枚は、メタボリズム(Metabolism)に関連する作品例です(展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)と絵葉書より。。。)。
メタボリズム(Metabolism)が、最も盛んであったのが、1960年代です。メタボリズム(Metabolism)を提唱した建築家達が提案した、建築計画や都市計画は、環境に、素早く適応する生き物の様に、次々と姿を変えながら増殖して行く建築や都市のイメージでした。東京湾を横断して伸びて行く海上都市、高く延びるビル群を自動車が走る空中回廊で繋いだ都市等、その発想の壮大さには驚かされます(展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)より。。。)。
写真以下8枚。1960年代の、メタボリズム(Metabolism)に関連する作品例。

「東京計画1960」(1961年)と丹下 健三(tange kenzo)(右)。

「東京計画1960」。都市計画。1960年。東京大学、丹下 健三(tange kenzo)研究室。

上段、磯崎
新(isozaki
arata)の、1962年の、「空中都市―渋谷(shibuya)計画」を、現在において、CGにより、映像再現した物の中から。。。下段、磯崎
新(isozaki arata)の、1961年の、「空中都市―新宿計画」を、現在において、CGにより、映像再現した物の中から。。。

「東京計画1960 その構造改革の提案」。都市計画。1962年。東京大学、丹下 健三(tange kenzo)研究室。

「海上都市1963」。都市計画。1963年。菊竹 清訓(kikutake kiyonori)。

「築地(tsukiji)再開発計画」。都市計画。1965年。丹下 健三(tange kenzo)。東京の海辺の再開発計画です。

都城(miyakonojyo)市民会館。菊竹
清訓(kikutake kiyonori)設計。公共施設(concert
hall)建築。1966年完成。宮崎(miyazaki)県、都城(miyakonojyo)市。メタボリズム(Metabolism)の思想に基づいて設計された建物で、上部構造は軽く、更新(交換)が可能となっています。

ディスコティック・スペース・カプセル(SPACE CAPSULE)。黒川 紀章(kurokawa kisyo)設計。1968年完成。クラブ(club・disco)。東京都心(赤坂(akasaka))。
東京では、第二次世界大戦以前の1940年に、日本(及びアジア)で最初の万国博覧会(Universal
Exposition)が開催される予定でしたが、戦争の影響で中心となり、日本(及びアジア)最初の万国博覧会(Universal
Exposition)の開催は、1970年に、大阪で開催された、大阪万国博覧会(Expo
‘70)まで待たなければなりませんでした。仮に、1940年に、東京で、万国博覧会(Universal
Exposition)が開催されていたならば、坂倉 準三(sakakura jyunzo)(坂倉 準三(sakakura
jyunzo)が設計した、1937年のパリ(Paris)万国博覧会(The Exposition Internationale des Arts
et Techniques dans la Vie
Moderne)の日本館は、博覧会の建築競技審査で一等を受賞しました。wikiより。。)や、もしかしたら、既に、早くも、若手建築家として力をつけて来ていた丹下
健三(tange kenzo)が、設計者として活躍したかもしれません。
1970年代は、第2次世界大戦後の復興と高度経済成長が、一段落し(落ち着き)、(アジアで開催された最初の夏季オリンピック(Olympics)である東京夏季オリンピック(Olympics)開催され、1961年に設立されたOECDに、日本が加盟した、1964年は、「もはや戦後では無い=第2次世界大戦による荒廃からの復興は終った」と言われました)、日本が成熟した先進工業国としての道を歩き始めた年代です。それまでの、経済発展最重視の政策から、公害や環境に対する取り組みが本格的に行われるようになり(これにより、1970年代を通じて、日本の環境は、ずいぶん改善された)、1975年に発足したサミット(summit。(主要)先進国首脳会議。1990年代後半にロシア(Russia)が参加してからは、主要国首脳会議)には、日本は、アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、イタリアと供に、G6として、発足当初のメンバー(member)として参加しました。
この様に、日本が成熟した先進工業国としての道を歩き始めた1970年代の幕開けを飾った、日本で行われた、大きな国際的な催しの一つが、1972年に、北海道(hokkaido)の札幌(sapporo)で開催された札幌(sapporo)冬季オリンピック(Olympics)(下の補足説明参照)で有り、もう一つは、その2年前の、1970年に大阪の郊外で開催された、大阪万国博覧会(Expo
‘70)(下の補足説明参照)です。
札幌(sapporo)冬季オリンピック(Olympics):1972年開催。日本(及びアジア)で行われた最初の冬季オリンピック(Olympics)。元々、1936年に開催された、ベルリン(Berlin)夏季Olympicsに続いて、第13回夏季Olympicsとして、1940年に開催される予定であった、東京夏季Olympics(戦争の影響により中止)同様、札幌(sapporo)冬季オリンピック(Olympics)も、元々、1936年にドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchen)で行われた冬季Olympicsに続いて、第5回冬季Olympicsとして、1940年に開催される予定であったが、戦争の影響により中止された。
大阪万国博覧会(Expo ‘70):1970年開催。日本(及びアジア)で開かれた最初の万国博覧会(Universal Exposition)。330万平方m(約100万坪)の敷地に、110以上(118)のパビリオン(展示館)が建ち並んだ。
1960年代において、メタボリズム(Metabolism)を提唱して来た日本の著名な建築家達は、1970年に開催された、大阪万国博覧会(Expo
‘70)(テーマは、「人類の進歩と調和」)で、重要な役割を果たし、大いに活躍しました(彼らは、大阪万国博覧会(Expo
‘70)の会場計画・建築計画に共同で携わりました)。
写真以下3枚。1970年に開催された、大阪万国博覧会(Expo
‘70)における、メタボリズム(Metabolism)に関連する作品例。ちなみに、大阪万国博覧会(Expo
‘70)が開催されたのは、私が生まれる前の事ですが、私の父と母は、結婚前、二人で、大阪万国博覧会(Expo
‘70)を見に行ったそうです。私が、子供の頃(1985年)には、東京の北東部近郊の、筑波(tsukuba)研究学園都市で、国際博覧会(Universal
Exposition)として、筑波(tsukuba)科学博覧会(Expo
‘85)が開催され、私は、これには、二回行き、楽しかった記憶があります(2005年に、名古屋(nagoya)郊外で開催された、国際博覧会(Universal
Exposition)、愛知(aichi)万国博覧会(Expo 2005)には、行きませんでした)。

エキスポタワー(Expo
Tower)。1970年完成。菊竹 清訓(kikutake kiyonori)設計。高さ127m。展望台の付いた塔で、岡本
太郎(okamoto
tarou)(1911年生まれ。1996年に亡くなる。1930年代から1990年代半ば(主として1950年代から1980年代)に活躍した、日本の有名な現代美術artist)がデザイン(design)した「太陽の塔」と共に、大阪万国博覧会(Expo
‘70)のシンボル(象徴)的な建物として建てられました。

大阪万国博覧会(Expo
‘70)、「お祭り広場」。1970年完成。丹下 健三(tange kenzo)は、大阪万国博覧会(Expo
‘70)の総合プロデューサー(制作の監督)を務めました。写真の「お祭り広場」は、大阪万国博覧会(Expo ‘70)の中心にあった施設で、丹下
健三(tange kenzo)、磯崎 新(isozaki Arata)等により、設計されました。写真奥に、岡本 太郎(okamoto
tarou)がデザイン(design)した「太陽の塔」(高さは、約70m)が見えています。

タカラビューティリオン(Takara
Beautilion)。1970年完成。黒川 紀章(kurokawa kisyo)設計。黒川 紀章(kurokawa
kisyo)が設計を手掛けた、大阪万国博覧会(Expo ‘70)の展示館の一つで、「TAKARA
BELMONT」と言う、大阪に本社がある日本の会社(美容室(hair salon・beauty
salon)・歯医者関連の機器を製造する会社。1921年創業)の展示館です。
大阪万国博覧会(Expo
‘70)は、メタボリズム(Metabolism)の、一つの頂点(到達点)であり、一つの終焉であったと言えるかもしれません。大阪万国博覧会(Expo
‘70)を最後に、メタボリズム(Metabolism)を提唱して来た建築家達の活動は分岐して行くと共に、(彼らは)、海外へと活躍の場を広げて行きました。メタボリズム(Metabolism)を展開した建築家達が、1960年代に発表した、巨大都市計画は、何れも実現しませんでしたが、彼らは、個々の建築に、その思想を適用させて行きました(もちろん、1960年代から、個々の建築に、その思想を適用させていましたが、さらに引き続き。。。)。

これは、菊竹
清訓(kikutake
kiyonori)が提案した、人口地盤を用いた、一戸建て住宅居住地の計画(1972年)を、イラスト(illustration)により解説した物です(展覧会(exhibition)のパンフレット(leaflet)より。。。)。火事になったら、どうするかを、実際に、一部分を作って、実験してみたそうです。
写真以下2枚。中銀カプセルタワー(nakagin
capsule tower)ビル。1972年に完成。アパート。東京都心。黒川 紀章(kurokawa
kisyo)設計。小さな個人事務所や、郊外に暮らしている人の東京都心の別宅等としても使える、東京の都心の商業地区にある一人暮らし向けの、一部屋のアパートですが、カプセル(capsule)形態の、それぞれの部屋は、写真で見て分かる様に、独立性がとても強くて、部分的に交換する事が可能です。すなわち、老朽化した、部屋(capsule)を、最新の部屋(capsule)に取り替えたり、都市環境の変化に応じて、部屋(capsule)を取り外したり、取り付けたりする事によって、アパートの建物は、永遠に老朽化する事無く、進化(変化)し続けると言うものです(理論上は、そうで、技術的にも、そうする事が可能でしたが、実際には、カプセル(capsule
)は、一度も交換される事はありませんでした)。


中銀カプセルタワー(nakagin capsule tower)の、部屋(capsule )。

Republic Polytechnic。2007年完成。シンガポール(Singapore)。設計、槇 文彦(maki fumihiko)(下の補足説明参照)。
槇 文彦(maki
fumihiko):1928年生まれ。日本の、世界的に有名な建築家の一人。槇 文彦(maki
fumihiko)の代表作の一つである、HILLSIDE
TERRACE(東京都心部にある、集合住宅、店舗、office等から成る複合施設。第1期が完成した1969年から1998年まで30年の歳月をかけて建てられてきた)は、メタボリズム(Metabolism)の思想を体現した、成長する都市建築として高く評価されています(wiki等を参考にしました)。