久留米(kurume)市は、福岡(fukuoka)県(九州(kyusyu)(日本の南部)の北部に位置する県)の南部に位置する、人口30万人弱の、中都市(中規模程度の人口を有する都市)で(中都市(中規模程度の人口を有する都市)としては、人口が多い)、福岡(fukuoka)県の南部の中心都市となっています。
久留米(kurume)市に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい、
久留米市→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_16/view/id/3979317?&sfl=membername&stx=nnemon2
以下、からくり(karakuri)人形等に関しては、wikiを参考にしました。
からくり(karakuri)人形は、日本の、伝統的な、automata(automated
puppet・mechanized
puppet)です。日本の、からくり(karakuri)人形は、中国由来の物で、歴史は、古代に遡ります(最古(最も古く)に記録されたのは、658年)。
日本では、からくり(karakuri)人形は、長らく、天皇家や貴族、地方領主(有力な、侍(samurai))等、上流層・特権階級の人々を楽しませる為の物でしたが、17世紀初めには、祭り等に、見世物として大衆の人気を呼ぶようになると共に、専門の職人による非常に精巧なものが作られるようになり、以降、初代、竹田
近江(takeda
oumi)による、常設の、からくり(karakuri)人形の興行(後述します)等により、からくり(karakuri)人形の、大衆化は、さらに進みました。
初代、竹田
近江(takeda
oumi)(生まれた年は、不明。1704年に亡くなる)は、日本の、からくり(karakuri)人形の職人及び、からくり(karakuri)人形の興行師です(元々、和時計(wadokei)(下の補足説明を参照)の職人であった様です)。
和時計(wadokei):17世紀から1880年代頃まで(1873年を以って、日本は、定時法へ移行したことにより、その実用的使命を終えた)、日本で制作、使用された、不定時法を用いる為の機構を持つ機械式時計。西洋の定時法の機械式時計に比べて、複雑な構造を持っていた。
初代、竹田
近江(takeda
oumi)は、記録によれば、からくり(karakuri)時計の名人とも評され、「永代(eitai)時計」と称する、大きな時計を作ったが、それは時を告げ、二十四節気、月や太陽また星の動きまで分かるという機能を持ったもので、後の、田中
久重(tanaka hisashige)製作の万年(mannen)時計(後述します)に先んじる物だったと言います。
初代、竹田
近江(takeda
oumi)は、1662年に、大阪(東京に次ぐ、日本第二の都市圏人口を有する都市)で、からくり(karakuri)人形の興行を開始し、初代、竹田
近江(takeda
oumi)による、からくり(karakuri)人形の興行は、大阪の名物となり、後に、東京でも、興行されて、評判となりました。初代、竹田
近江(takeda
oumi)が、1662年に、大阪で開始した、からくり(karakuri)人形の興行は、その後、長年に渡って、代々続く、からくり(karakuri)人形の興行の、一大(有名な)ブランド(brand)となりました。

写真は、借り物。「摂津(setsu)名所図会(meisyozue)」(下の補足説明を参照)より、初代、竹田 近江(takeda oumi)が設立した、大阪の、からくり(karakuri)人形の公演場で、からくり(karakuri)人形の公演を鑑賞する、オランダ人達等。
「摂津(setsu)名所図会(meisyozue)」:「摂津(setsu)名所図会(meisyozue)」は、1796年から1798年に刊行された、概ね、現在の大阪都市圏に該当する地域の名所を、絵画と文章で紹介した、日本の、全9巻12冊の旅行ガイドブック(guide book・travel guide)です(紹介されている名所は1,300以上、絵は、312図が掲載されています)。

参考に、写真は、借り物。久留米(kurume)絣(kasuri)。久留米(kurume)の、伝統的な、藍染めが主体の、綿織物です。
以下、田中 久重(tanaka hisashige)に関する説明は、wikiを参考にしました。
田中
久重(tanaka
hisashige):1799年生まれ(べっ甲(tortoiseshell)の工芸品の職人の長男として生まれる)。1881年に亡くなる。久留米(kurume)出身の、日本の、有名な、からくり(karakuri)人形の職人・和時計(wadokei)の職人・発明家。東芝(toshiba)(日本の、大規模、電気製品会社の一つ。後述します)の創業者。
田中
久重(tanaka
hisashige)は、幼い頃から才能を発揮し、15才の時、久留米(kurume)絣(kasuri)の幾何学模様を布に織り込む機械を考案。地元の、久留米(kurume)の、神道(Shinto)の神社(shrine)の祭りでは、当時流行していた、からくり(karakuri)人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となる。20代に入ると九州(kyusyu)(日本の南部)各地や大阪・京都(kyoto)・東京でも、からくり(karakuri)人形の興行を行い、各地に、その名を知られるようになる。

写真は、借り物(写真の作者:稲益 誠之)。田中 久重(tanaka hisashige)作の、からくり(karakuri)人形の例。弓曳童子(弓を引く少年)。
https://youtu.be/S-ayNFyBNhA?si=SzebrlJ1wvckrslW
動画は、借り物。弓曳童子(弓を引く少年)。田中 久重(tanaka hisashige)作。

写真は、借り物(写真の作者:稲益 誠之)。田中 久重(tanaka hisashige)作の、からくり(karakuri)人形の例。文字書き人形。
https://youtu.be/GDI4RGVWxoQ?si=z4dDDzv7iARWikL-
動画は、借り物。文字書き人形。田中 久重(tanaka hisashige)作。「寿」「松」「竹」「梅」の、4つの漢字の文字が書けます。
田中 久重(tanaka hisashige)は、1834年に、大阪に移住。1837年に、圧縮空気により灯油を補給する、自動給油式の菜種油ランプ(lamp)を考案(ちなみに、19世紀前半に、日本の、他の、複数の発明家等により、それぞれ、異なる方式の、自動給油式の菜種油ランプ(lamp)が考案されています)。田中 久重(tanaka hisashige)は、その後、京都(kyoto)(日本の西部に位置する大都市。794年から19世紀半ばまで、長らく日本の首都であった都市であり、日本の、伝統文化の中心都市。大阪に近い)に移り、1851年には、季節によって昼夜の時刻の長さの違う不定時法に対応して文字盤の間隔が全自動で動く等の、様々な仕掛けを施した万年(mannen)時計(後述します)を完成させた。

写真は、借り物。万年(mannen)時計。田中
久重(tanaka hisashige)作。1000点を超える部品(ほとんどが田中 久重(tanaka
hisashige)による手作り)から作られている。一度巻けば一年動くという機械式時計としては驚異的な持続時間を実現している。六角柱様の本体の各面に7つの機能が配置され、それらが底部のぜんまい動力によって連動して動作する。
以下、万年(mannen)時計の7つの機能。天象儀(本体の上部にあり、京都(kyoto)から見た1年間の太陽と月の動きを模型で表す)、和時計(wadokei)(文字盤の位置を自動で変化させる事で、昼夜の長さの変化に対応して一時刻の長さが変わる不定時法に自動で対応する。田中
久重(tanaka
hisashige)は、これを回転往復運動を応用することで解決した。通常ぜんまい動力からは一方向の回転しか生まれないが、虫歯車と名付けられた独創的な歯車に互い違いに2枚の片歯車を組み合わせることによりこれを可能にしている。この機構は、この万年(mannen)時計以外では、世界の、どの機械でも使用が確認されておらず、セイコー(seiko)(1881年創業。日本最大級の時計会社の一つであると共に、世界最大級の時計会社の一つ(おそらく)。1969年に、世界初の、クォーツ式(quartz
clock)腕時計を発売した事で、世界的に有名)の時計技師で、第二次世界大戦後、数々の独創的技術を開発して同社を世界的企業に成長させることに貢献した土屋榮夫(日本の、時計技師)も、このような機構は「考えたこともなかった」と感嘆している)、二十四節気の表示、曜日・時刻の表示(短い針が曜日を示し、一週間で一周する。長い針は和時計(wadokei)と連動して時刻を示す)、十干十二支の表示(当時一日ごとに割り振っていた60通りの干支の中からその日の干支を自動で示す)、月齢の表示(半球の回転によってその日の月の満ち欠けの見え方を表す)、西洋時計(現代の一般的な時計の機能)。このほか打鐘の機能もある。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、参考の投稿。
歴史のある科学博物館他→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3871021/page/26?&sfl=membername&stx=nnemon2
田中 久重(tanaka hisashige)は、1873年、新たに、日本の首都となった東京に移り、1875年に、東芝(toshiba)(日本の、大規模、電気製品会社の一つ)を創業しました。
以下、東芝(toshiba)に関しては、wikiを参考にしました。
東芝(toshiba)は、日本の、大規模、電気関連製品会社の一つです。
写真は、借り物。浜松町(hamamatsucho)(東京都心部でも中心的な地域の海沿いに位置する)にある、かつての(先代の)、東芝(toshiba)の本社ビル。1984年完成。高さ、約166m。2013年に、川崎(kawasaki)駅周辺の、東芝(toshiba)ビル(現在の、東芝(toshiba)の本社ビル)が完成してから、東芝(toshiba)は、長らく、東京都心(このビル)と川崎(kawasaki)(川崎(kawasaki)駅周辺の、東芝(toshiba)ビル)の、2つの本社体制でしたが、今年(2025年)の8月1日に、本社機能を、完全に、川崎(kawasaki)駅周辺の、東芝(toshiba)ビルに移しました。このビルは、現在、浜松町(hamamatsucho)ビルと言う、オフィス(office)用ビルとなっていますが、再開発の為、2027年に解体され(日本において、史上最大規模のビルの解体工事となる予定)、跡地には、高さ、約235mの、オフィス(office)用ビルが、新たに建設される予定の様です。

写真は、借り物(写真の作者:MaedaAkihiko)。川崎(kawasaki)駅周辺(川崎(kawasaki)市(神奈川(kanagawa)県(東京圏の南部を占める県)の北端に位置する。東京中心部(東京23区)の南部に接する)の中心地、且つ、中心繁華街で、東京の南部郊外、最大級の繁華街)に、2013年に建てられた、東芝(toshiba)ビル(現在の、東芝(toshiba)の本社ビル)。前述の通り、東芝(toshiba)は、このビルが建てられてから、東京都心の本社と、このビルの、2つの本社体制でしたが、今年(2025年)の8月1日に、本社機能を、完全に、このビルに移しました。
以下(すぐ下でリンクを付けた投稿)、川崎(kawasaki)駅周辺に関する参考の投稿。
六本木ムーミン展他色々→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3974040?&sfl=membername&stx=nnemon2
東芝(toshiba)は、依然として、日本の、大規模、電気製品会社の一つですが、1980年代から1990年代の、経営判断の誤り(特に、半導体メモリー(semiconductor
memory)に関する経営判断の誤り)により、業績が不振となり(その結果として、後述する、不適切会計が起こった)、かつてに比べて、大きく衰退しました。
東芝(toshiba)は、2015年の不適切会計事件(下の補足説明を参照)を、きっかけに経営危機に陥り、大規模な事業再編が行われました。
2015年の不適切会計事件:2015年7月20日、東芝(toshiba)は、第三者委員会の報告書により、経営幹部の関与による2009年3月期から2014年4月から12月期で、計1518億円の利益を水増しする粉飾決算を行っていた事が報告された。
この粉飾決算については、マスコミでも大きく報道された。
7月21日には社長が辞任するほか、副会長で前社長(前の社長)、相談役で、前々(前の前の)社長等、7人が取締役を辞任する事が発表される等、歴代3人の社長含む経営陣が7年間に渡り、この事件を主導してきたとして、東芝(toshiba)株主からも株主代表訴訟で訴えられている。
粉飾の対象は、コモディティ化(製品やサービス(service)について、性能・品質・創造性・ブランド(brand)力などに大差がなくなり、顧客からみて「どの会社の製品やサービス(service)も似たようなもの」に見えるようになった状況)で、利益の出にくくなったパソコン製品事業、リーマンショック(Lehman
Shock)で落ち込んだ半導体事業、2006年に54億ドルで買収した、アメリカの、ウェスチングハウス・エレクトリック・カンパニー(Westinghouse
Electric
Company)の原子力発電所事業が発覚している。これらの事業の不採算によって財務体質が悪化し、赤字を誤魔化す為に粉飾決算を行った。ちなみに、企業・企業の経営陣(経営者)が、赤字を誤魔化す為に粉飾決算を行う動機は、利害関係者からの信用を失いたくない事や、経営陣(経営者)が、経営の失敗を隠す為等が挙げられます。
東芝(toshiba)は、現在は、一般消費者向けの製品から撤退し、エネルギー(energy)システム・インフラ(infrastructure)システム・システムインテグレーター(systems
integrator)・重電機・鉄道車両・軍事機器・電子部品(HDD等)・原子炉など、企業間取引による重工業分野へ重点的に事業展開をしています。
以下、(エネルギー(energy)システム・インフラ(infrastructure)システム・システムインテグレーター(systems integrator)・重電機・鉄道車両・軍事機器等を除く)、東芝(toshiba)の実績の例です。
1890年に、日本で初めて、一般、白熱電球(incandescent light bulb)の生産を開始。電球の6大発明と言われる、世界初の、2重コイル技術と内面つや消し製法を、それぞれ、1921年と1925年に開発。
CPUでは、古くは1973年に、アメリカの、Fordからエンジン制御用マイコン(engine
control
unit)の開発依頼を受けてTLCS-12という世界初のワンチップ12ビットマイコンを自社開発した。Fordの環境テストに合格し、市販の自動車に、世界で初めて、搭載されたCPUとなった。
1980年に、フラッシュメモリ(flash
memory)を発明。続いて1984年にNOR型、更に、1986年には、大容量化が容易なNAND型も開発している。しかし東芝(toshiba)は、DRAMの高度化に集中していた為(後述します)、東芝(toshiba)から、ライセンスを受けて全社的に投資した、アメリカのIntelに市場シェアを失うこととなった。以降、東芝(toshiba)も、本格的に、フラッシュメモリ(flash
memory)市場に参入したが、技術ライセンシング(他者に技術のライセンスを与える事)を止めなかった結果、アメリカと韓国の会社を筆頭に競合が増えて利潤を得るのは難しく、2000年より、アメリカの、サンデイスク(Sandisk)社と提携して共同で設備投資を行って来た。
2015年に発覚した不適切会計事件以降、フラッシュメモリ(flash memory)事業部門を分社化し、過半数の株式を売却している。
1985年に、世界初となる、1メガビットCMOSのDRAMを開発。半導体メモリー(semiconductor
memory)開発分野で世界一となった。だが、1990年代に入ってから韓国等、海外に技術者が流出し、DRAMでは、韓国のサムスン電子(Samsung
Electronics)にシェアを奪われた(1993年に、サムスン電子(Samsung
Electronics)は、東芝(toshiba)を抜いて、DRAM市場で、世界一のシェアを確保した)。2002年に、DRAM事業から撤退。
競合他社と比べてCMOSセンサー(CMOS sensor)へ早く移行し、小型の先端製品で上位の市場シェアを持っていたが、2015年に、一部の産業向け製品を外してソニー(Sony)(日本の、大規模、電気製品会社の一つ)に事業譲渡することにより、撤退した。
ノートパソコン(laptop computer)では、1993年から2000年まで、7年連続、世界シェア1位であった。
X線CT(医療機器)では、オランダのPhilips、ドイツのSiemens、アメリカのGEと並ぶ、世界の、代表的な会社の一つであったが、2016年に、キヤノン(CANON)(日本の、大規模、カメラ会社の一つ。カメラ以外にも、映像機器・事務機器・半導体の製造装置等、幅の広い分野の、精密機械会社)に事業譲渡し撤退した。
2003年、世界最小となる、0.85インチ、ハードディスクドライブ(hard disk drive ・HDD)を開発。
量子暗号通信(quantum cryptography)に関しては、世界で、最も、多くの特許を保有している。光量子の発生などに使われる量子ドットの研究も早くから着手し、新しい発光ダイオード(LED)や記録媒体を開発している。
以上、(エネルギー(energy)システム・インフラ(infrastructure)システム・システムインテグレーター(systems integrator)・重電機・鉄道車両・軍事機器等を除く)、東芝(toshiba)の実績の例でした。