その昔、まだ中央日報に掲示板があった頃、王仁について纏めてそれを文語調で書いたものだが・・・(w)、いつの間にか日本に百済門が出来ていたので少し手直しした。
そもそも、朝鮮には王仁についての記録は一切ない、彼についての記録は世界中探しても日本書紀など日本の記述しかないのである。
王仁廟など最近作られたものである。
なぜ彼がこんなにもてはやされるのか?理由は皆が思ってるとおりさ。w
さて日本各地の農村を廻り視察せし折に、日本における王仁の遺跡や王仁の後裔と称する人たちを知り、いたく民族的な誇りを刺激されたという。
1970年になるやこの男、王仁研究の目的を持ちて再度来日せり。各地の王仁関連の史跡を調査を行いて、その子孫たちの証言をも聴取に及ぶなり。
これによりて、この男は王仁史料を収集する研究家となってしまったものだ。
韓国に帰国したる後、民族史観を定立するためにと王仁研究所を設立して韓国民族の誇りとしての王仁博士に注目するよう大いに提唱して王仁研究の火付け役になったという。
さて、この時まで韓国人は王仁については何事をも知らぬことなりしが、百済人(これが韓国人というは疑問なり?)が格下の日本を指導していた・・とするこの情報には快感というか何とも知れぬ喜びを感じたものだったと推察される・・。
それは日本を格下に見ることにより、朝鮮民族の位相が相対的上げると考えたのだろう、愚かなことなり。それゆえに、王仁は最重要人物となり一躍脚光を浴びることとなりしという。しかしながら、これも劣等感のなせることとしか思えぬのがその騒動記のありさまだった・・。
肝心なることとして、王仁について韓国内には全く記録が無かりしに、まず王仁の出生地を探し当てるためにと、『中央日報』紙上に「百済の賢人博士王仁の偉業−日本に植え付けた韓国魂−」を1972年8月から10月までに15回にわたり連載したということが手始めなり・・。1972年10月、新聞連載をみた全羅南道霊岩郡の姜信遠と申すものより「霊岩郡一円に王仁博士の遺跡と伝説が多い」との手紙を受け取ることとなりぬ。
地元有志とともに現地調査をして直ぐさまであった、これこれ、これこそ・・「霊岩郡鳩林面聖基洞がまさしく王仁博士の誕生地だという心証を固めた」とまさに神の啓示を承けたものだ・・。
1973年3月と10月、著名な歴史学者を帯同して現地を踏査して「王仁の誕生地は霊岩に違いない」ということにした意見の一致をみたそうな。
1975年、全羅南道知事この素晴らしい話を聞くに及んで博士王仁誕生地聖域化事業計画を発表したものだ・・。
翌76年には全羅南道が霊岩郡鳩林面聖基洞一帯を「王仁博士誕生地遺跡」として地方記念物に指定し、王仁廟を建設してしまったものだが、これ以後、霊岩を「王仁博士の故郷」として売り出し、周辺を遺跡公園として観光地化して、王仁廟春季大祭や王仁文化祝祭を行事化していったという、まさに大歴史創造事業と言える偉大な歩みがあったのだ・・。

韓国にとりて返す返す残念なことなるが、国内には王仁に関する文献史料や考古史料はなきことなり。金昌洙の妄想がきっかけとなりて霊岩の生誕地とされるようになった物語なり。
2006年には更に日本にも全羅南道から材料を取り寄せて百済門を建造する執着心を見せつけたり。
かくのごとく霊岩に王仁に関する伝説には根拠としての科学的実証性が、はなはだしく欠けるたるものなり。例えば道銑国師(新羅末の名僧)らの伝説や地元の遺跡を無理矢理にこじつけたものなりしなり。
これは枚方の王仁塚(江戸時代に京都の儒学者によりさしたる根拠もなく建立)をはるかに上回る大々的な歴史の捏造が公然と公権力により行われた物語なり。
いずれにせよ、韓国人が信用できずと申して憚らなぬ日本の「記紀」に記載せし内容に基づきて、日本の文化を開明した人物が百済人(本当は在住の漢人)なることは、あらま欲しきとの優越的民族主義的思考が先行してしまった結果ならむ。
しかしながら、ここまでくると、もはや王仁廟が歴史のでっち上げだと言おうものなら袋叩きに遭いかねない雰囲気になってしまったものじゃよ・・。(笑)